SCENE#48 妖気…

魚住 陸

妖気…

第一章 妖気の胎動





古美術商を営む五十嵐雄介は、今日も薄暗い店内で一人、静かに骨董品の手入れをしていた。長年、埃にまみれた古物と向き合う生活は、彼の心を落ち着かせるには十分すぎるほどだった。しかし、彼の心には若い頃に失ったある人物の面影が、常に影を落としていた。そんなある日、店の扉が勢いよく開かれ、一人の青年が飛び込んできた。





「すみません、この壺、見ていただけますか?」





差し出されたのは、なんの変哲もない青磁の壺。しかし雄介にはわかる。この壺には、強い“妖気”が漂っている。そして、それ以上に、壺を携える青年の瞳に、抗いがたい魅力を感じた。その顔立ちは、雄介が若き日に愛し、そして病で早逝した友人にどこか似ていた。彼の名は、蓮。屈託のない笑顔の奥に、何か底知れぬものを隠しているような、そんな青年だった。





「この壺は、ただの壺じゃありませんね。この青磁は、この世のものではないな…」





雄介がそう言うと、蓮は悪戯っぽく笑った。





「さすが、お目が高い。じゃあ、俺もただの男じゃないってこと、わかっちゃいました? 俺、あなたに会うために、ずっとこの壺を連れて歩いていたんですよ…」





雄介は蓮の言葉に、胸の奥がざわめくのを感じた。「おかしなことを言うな?」と心の中でつぶやいたが、口から出たのは別の言葉だった。





「…面白いことを言う青年だ。気に入ったよ…」





その言葉を皮切りに、蓮は雄介の店に入り浸るようになった。初めは、ただの迷惑な客だと思っていた。だが、日が経つにつれ、彼の予測不能な言動、そして時折見せる年相応の無邪気さに、雄介の心は少しずつ揺れ動いていく。静寂を愛する雄介の日常は、蓮という嵐のような存在によって、大きくかき乱され始めたのだ。






第二章 惑乱と古物の秘密




蓮がもたらす“妖気”は、雄介の心に不思議な変化をもたらした。若い頃に捨て去ったはずの情熱や、衝動的な感情が、再び彼の内側でざわめき始めた。ある日の夜、店を閉めようとしていた雄介は、まだ帰りたがらない蓮に酒を勧められた。





「雄介さん、俺の酒の相手、してくれませんか? 今夜はなんだか、あなたと話したい気分なんですよ」






断りきれず、店の奥で二人、グラスを傾けた。蓮は雄介の過去を、そして孤独な生活を、まるで全て知っているかのように語り、そして優しく慰めた。その言葉は、雄介の心の奥底に染み込んでいく。





「雄介さんは、もっと笑った方がいいと思うな。そんなに悲しい顔をしてたら、俺まで悲しくなっちゃうじゃないですか…」





そう言って、蓮は雄介の頬にそっと触れた。その指先の熱さに、雄介は息をのむ。初老の男と、奔放な青年。二人の間に、目に見えない糸が結ばれていくのを、雄介は感じていた。それは、理性を超えた、抗いがたい引力だった。





雄介は、蓮が持ち込んだ壺が、店の奥にある古い鏡台に異常なほど引き寄せられていることに気づいた。鏡台は、雄介の曾祖父が買い付けた曰くつきの品で、「見る者の魂を喰らう」という不気味な伝説があった。蓮は鏡台に触れようとした雄介の手を掴み、真剣な眼差しで言った。





「その鏡台には、俺の昔の力が封じられているんです。もし触れたら、雄介さんがどうなっても知らないですよ? それに、その鏡台自体、雄介さんの魂を狙っている。だから、絶対に触れないでくださいね…」





その言葉は、蓮の正体に対する雄介の疑念を、確信へと変えつつあった。







第三章 告白と契約




ある雨の夜、店で二人きりになったとき、蓮は雄介に真剣な眼差しを向けた。





「雄介さん、俺、あなたのことが好きです。何百年も、あなたの魂がこの世に現れるのを待っていたんです。あなたに、どうしても再会したかった…」





その真っ直ぐな告白に、雄介は戸惑いを隠せない。年の差、世間体、そして何より、自分自身の老い。様々な不安が彼の心を締め付ける。だが、蓮は雄介の弱さも、戸惑いも、全て受け入れると言った。





「雄介さん、怖いですか? 俺から逃げたいですか? あなたは俺にとって、特別な存在なんです。ただの人間じゃない。俺が探し求めてきた、運命の人だ…」





「…わからん。だが、お前が人ではないことは、もうわかっている。何が目的だ?」





絞り出すような雄介の言葉に、蓮は優しく微笑んだ。





「大丈夫。俺が全部、雄介さんごと、連れ去ってあげるから。そして、雄介さんの魂を、俺の永遠の命の器にする。そうすれば、病で死ぬことも、老いることも、別れることも、もう二度とない…」





蓮の言葉に、雄介は恐怖を覚えた。しかし同時に、彼の孤独な心は、蓮の存在を拒絶できなかった。蓮の瞳に、かつて愛した友人の面影を重ねてしまったのだ。蓮は雄介の生活に深く入り込み、朝食を作り、店の掃除まで手伝うようになった。雄介は、そんな蓮の存在に、最初は戸惑いながらも、次第に安らぎを感じるようになる。彼の孤独な心は、蓮の温もりによって満たされていった。






第四章 嫉妬と絶望




二人の関係が深まるにつれ、雄介は新たな感情に襲われた。それは、嫉妬と、そして蓮への絶望にも似た感情だった。蓮が若い女性と楽しそうに話しているのを見ただけで、胸が締め付けられるような痛みを感じる。自分とは違う、若くて美しい存在に、蓮が惹かれるのではないかという不安が、雄介を蝕んでいく。そして、蓮が時に見せる、人間離れした鋭い眼差しに、恐怖を覚えることもあった。





ある晩、蓮がいつもより遅く帰ってきた。





「どこにいたんだ? なぜ、連絡ひとつよこさない…?」





雄介の問いに、蓮は悪びれる様子もなく、友人と飲みに行っていたと答えた。その瞬間、雄介の心に募っていた不安が爆発した。





「私には、お前を縛る権利なんてない。だが、これ以上、私を不安にさせるな…! 頼むから…私の目の届くところにいてくれ…!」





その言葉に、蓮は初めて悲しそうな顔をした。





「雄介さん…ごめんなさい。でも、俺は…あなたのそばにいたい。それだけは、本当なんです…」





蓮は雄介を優しく抱きしめた。その温もりは、雄介の嫉妬心を静かに溶かしていく。この若く、奔放な男の全てを、雄介は受け入れたいと願った。その夜、雄介は蓮に、鏡台の秘密について問い詰めた。





「あの鏡台を壊せば、お前はどうなる? なぜ、あの鏡台にそんなに執着する?」





「…俺の魂は、永遠に彷徨うでしょうね…鏡台は、俺が持つ力を閉じ込めるためのもの。同時に、俺の過去を映し出す呪われた品でもある。雄介さんが、過去の俺に縛られ続けるのと一緒でね…」





その言葉を聞き、雄介は蓮を救うため、そして自分の愛を守るため、ある決意を固めた。蓮の言う「永遠の命の器」になることではなく、彼を過去の呪縛から解き放つことを、雄介は選んだのだ。






第五章 妖気の終焉




満月が輝く夜、雄介は鏡台の前に立ち、蓮を呼んだ。




「蓮、お前の言う通り、私はお前の魂の器になろう。だが、その前に、お前を縛るものを全て壊してやる…」





その言葉に、蓮は歓喜に満ちた表情を浮かべた。しかし、雄介の瞳には、すでに諦めと、深い愛情が混ざり合っていた。





「う、うあああ…! やめて…雄介さん…!」





突然、蓮は激しい苦痛に顔を歪ませ、両手で頭を抱え込んだ。雄介の腕の中の蓮の身体は、徐々に硬く、そして熱を帯びていく。鋭い爪が手のひらから突き出し、瞳は爛々と黄金色に輝き始めた。





「蓮! 一体どうしたんだ!」




「雄介さん…逃げて…! 今すぐ…! 俺はもう…制御できない…!」





辛うじて、蓮は言葉を絞り出した。しかし、その声はもはや人間のそれではなかった。雄介は恐怖に足が竦んだが、逃げなかった。





「蓮…私は、お前を救う方法を、見つけた! お前を縛る、この鏡台を壊すんだ!」





雄介は蓮の言葉を遮るように、鏡台を破壊しようと手を伸ばす。しかし、その瞬間、蓮は悲痛な叫びを上げた。





「馬鹿な…! 俺は…! 雄介さんを、食らい尽くすために…ここにいるんだ…! 運命の…生贄…! ああ…なんて、皮肉なんだ…! 愛した者を手に入れるために…食らうしかないなんて…!」





蓮の言葉と同時に、彼の意識は完全に闇に支配された。異形と化した蓮は、雄介に襲いかかった。抵抗する間もなく、鋭い牙が雄介の首筋に突き立てられた。





激痛と共に、雄介の意識は急速に遠のいていく。彼が見た最後の光景は、涙に濡れた蓮の瞳だった。しかし、それは雄介の魂が永遠の苦痛に囚われる直前、彼の魂を奪うことで蓮が初めて流した、本物の涙だった。





静まり返った古美術店には、崩れ落ちた雄介の身体と、その血を啜る異形の影だけが残っていた。満月が照らす静かな夜に、妖気は静かに終焉を迎える。そこに残されたのは、永遠の闇と、決して癒えることのない渇望だけだった…


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