第三章 〜変わる「いつも」〜

 次の日は寝不足だった。当たり前だ。

 自分の性格上、昨日あんな事があってすんなり眠れる訳がない。

 あの坂城さんと付き合うことになったという事実が、俺の安眠をどうしようもなく妨げた。

 ぼんやりとした意識のままベッドの端に置いたスマホを見ると、時刻は朝の七時半だった。

 八時過ぎには家を出なくては学校に間に合わない。

 今から二度寝してしまっては遅刻確定なので、今更やってきた眠気に抗いながら身体を起こした。

 急いで学校へ行く仕度をして、結果的にいつもと変わらない時間に家を出ることができた。

 ちなみにゆっくりと朝食を食べる時間はなかったので、そのまま家を出ようとしたが、スープだけでもと母が出してくれたので急いで飲み干した。

 すぐ飲めるように氷が何個か入れられたスープは、いつもよりぬるくて味も薄まっていたが母の気遣いに心が温まった。


 駅へ向かういつもの道中でポケットのスマホが振動した。画面を見ると坂城さんからのメッセージが届いていた。

「おはよう、立花くん」

 当然のように届いた坂城さんからのメッセージに、やはり昨日の出来事は現実なのだと実感が湧いて、ようやく意識がハッキリとした。

 そして何よりいつもの現実の中に、坂城さんがいる事が嬉しかった。

「おはよう、坂城さん」

 そう返すだけでは、せっかく連絡してきてくれたのに素っ気なく見えるのだろうかなどと思考を巡らせ、続けてメッセージを送信した。

「昨日はあまり眠れなかったです……」

 気の利いた返事など咄嗟に思いつくはずもなく、ただの感想のようになってしまった。

 送ったメッセージ一つに脳内反省会を開いていると、坂城さんから返信がきた。

「立花くんって、正直者だね。居眠りしないようにね?」

「私もあんまり眠れなかったから、一緒に頑張ろうね」

 自分を受け入れてくれるだけでなく、自分も眠れなかった事を教えてくれる彼女は聖女のようだった。

 面白味のない返ししかできない自分でも良いのだと、自己肯定感を上げてくれる彼女に俺の心はすっかり彼女に掴まれていた。

 昨日以前の彼女はどこか人との関わりに壁がある印象だった。

 こんな彼女の一面が周りに知られていたら、俺と付き合うなんてことはなく誰かと付き合っていたんじゃないかとも思ったが、周りに見せない一面を見せてくれているのかもしれない思うと、それだけで満たされたような気持ちになって、今までで一番幸せな気分での通学になった。


 学校に着いて、授業が始まってもあまり集中できなかった。

 坂城さんと付き合い始めた、というのは紛れもない事実だが、学校で特に彼女と話すことはなく、お互いいつも通り友達と過ごしていた。

 しかし休み時間や教室移動の際などに、坂城さんと目が合う事が何度かあった。

 その度に彼女は微笑みかけてくれるので、会話は無くとも彼女の中に自分という存在が確立され、彼女の生活の一部になれたのだと思うと、それだけで今の俺には充分だった。

 昼休み、鶴見といつも通り過ごしていても彼女の事で頭がいっぱいで、

「悠斗、なんか今日ボーッとしてるな、眠そうだし。」

「また遅くまでゲームしてたんだろ」

 と言われてしまい、わかりやすい自分が恥ずかしかった俺は、

「そう、つい熱中しちゃって……」

 と嘘をついて誤魔化すしかなかった。


 結局集中できないまま一日が終わり、放課後、俺はトイレに篭っていた。

 昼食を取ってからどうにもお腹の調子が悪く、現在も孤独な戦いを続けていた。

 ちなみに今日も鶴見は帰りの時間になると、マッハで教室を出て行った。

 今日は何やら家族と予定があるらしく、俺はバイトがオフの日だったが遊びの誘いは無かった。

 数分に及ぶ格闘の後、勝利を収めた俺は教室に鞄を取りに戻り、話に花を咲かせるクラスメイト達を横目に教室を後にした。


 校舎を出て、校門をくぐるとそこに彼女はいた。

 彼女はこちらに気がつくと、近寄ってきて安心したように言った。

「よかった、まだ帰ってなかった。机に鞄があったから……」

 突然の事に驚いて声も出ない俺に坂城さんは続けた。

「迷惑じゃなければ、一緒に帰らない?」

 こちらを見つめてそう言う彼女に、

「も、もちろん! よろしくお願いします……!」

 迷惑なんてある訳がない、そう思って後半少し声が裏返ってしまった俺に、彼女は少し笑って、

「なら、よかった。じゃあ帰ろう!」

 そう笑顔で言うのだった。


 こうして俺たちは並んで帰ることになった。

 歩き始めて少し経った頃、彼女は前を向きながら言った。

「今日は莉子が用事があるとかで、これはチャンスかもと思って待ってたの」

 坂城さんの言う「莉子」というのは、クラスメイトの深本莉子ふかもとりこさんだ。

 深本さんは坂城さんと唯一、一緒にいるところを見る人だ。

 この様子だと帰りもいつも二人で帰っているのだろう。

「そうだったんだ……」

 俺と鶴見もお互いに用事の無い日は二人で帰るから、それと一緒だなぁ……などと頭では考えていたものの、それを口に出すでもなく沈黙してしまった。

 俺はせっかく坂城さんが待っててくれたんだから、自分の気持ちを伝えなければ失礼だと思った。

「で、でも坂城さんが、待っててくれて……」

「嬉しかった……です……」

 そう白状するように言った俺を見て、坂城さんは笑顔でこう言った。

「本当に正直者だね、待ってた甲斐があった」

「立花くんの、そういうところに惹かれたのかも」

 その笑顔が眩しく、自分を受け入れてくれる彼女の言葉も嬉しくて顔が熱くなるのを感じた。

 それと同時に坂城さんが校門の前で待ってくれていた風景を思い出して、幸せな気持ちになった。

 校門の前で待つ彼女は、かなり目立っていた。

 校門の前で立ち止まっている人はいなかったし、何よりそのスタイルの良さと、白に近い淡い青色の髪をなびかせて佇む幻想的な彼女の姿は何かの名画のように美しかった。

 そんな目立つ行動を取ってまで、わざわざ自分を待ってくれていた事実が幸せだった。

 お腹の調子が悪かったことに感謝したのは今日が初めてだ。

 バイトもオフで早く帰りたかったのに腹痛に見舞われて嫌な気持ちだったのだが、そんなマイナスでさえ彼女のおかげでプラスになったのだから、彼女が与えてくれる幸せの大きさを実感した。それと同時に、俺は彼女から貰ってばかりで与えることができているのかという不安も感じた。


 その後も二人で会話しながら帰った。

 俺は、今日はいい天気ですねとか、今日のお弁当のラインナップは……とか当たり障りのない話題しか提供できなかった。

 坂城さんはそんな俺の話を優しく聞いてくれたし、話を続けてくれた。

 それでも話題が無くなってしまって沈黙が流れることもあったが、不思議と緊張感は無く、そんな時間でさえ心地良かった。

 彼女も終始楽しそうにしてくれていたし、同じように思ってくれているといいなと思った。

 それでも世の男性はもっと面白い話でもできるんだろうなぁ……と自分のコミュニケーション能力の低さに辟易しながら、家に着いた俺は再び脳内反省会を開いた。


 その日の夜、坂城さんからメッセージが届いた。

「今日の帰りは楽しかったね」

 本心からそう言ってくれていそうな彼女に、反省会で疲弊した心が救われた。

 すると突然、坂城さんから電話がかかってきた。

 あまりに急な事に驚いて少し固まってしまったが、深呼吸をして通話ボタンをタップした。

「もしもし、聞こえますか?」

 電話越しに坂城さんの声を聞くと、帰り道の会話を思い出して、あたたかい気持ちになった。

「だ、大丈夫。聞こえます」

 そう答えると受話口から彼女のクスッと笑ったような音が聞こえた後、続けてこう言った。

「えっとね、学校での事なんだけど……」

 そう話始めた彼女の声には、若干不安の色が漂っている気がしたが、黙って彼女の話を聞くことにした。

「教室では話せなかったと思うんだけど……私はそれでもいいかなって思ってて……」

「今日みたいな日に一緒に帰ったり、今みたいに電話で話せたらそれで良いかなって」

「もちろん立花くんとのことを隠したいとか、そんなつもりはなくて! 誰かに訊かれたら正直に答えるつもりなんだけど……」

「立花くんと私って今まであまり話してこなかったから、いきなり私たちが話してたら目立っちゃうかなと思って……それで変に色々訊かれたりして立花くんが教室で過ごし辛くなったら嫌なの……」

 ここまで勢いよく話す彼女は初めてだ。それに圧倒されてしまったのもあるが、俺は思わず笑ってしまった。

「私、なにかおかしなこと言ったかなぁ?」

 彼女が不安そうに尋ねてくる。

「いや、ごめん。思わず笑っちゃっただけで……」

「俺も同じようなことを考えてて、坂城さんが過ごし辛くなるのは嫌だなぁと思ってた」

 そう答えると彼女の声からは不安の色が消えて、

「もう同じようなことを考えてるなんて、嬉しい」

「じゃあもっと立花くんのことを知るために、今日みたいに帰ったり電話してもいいかな?」

「も、もちろん! 喜んで!」

 あまりにも魅力的な彼女の提案に食い気味に返した俺に、彼女はクスッと笑ってから、

「ありがとう、今日はそれを伝えたかったの」

「じゃあまたお話しようね」

 と優しく返してくれて、通話が終了した。

 俺はしばらく彼女の声が耳から離れず、幸せを噛み締めた。


 通話が終了した後、私は先ほどの彼との会話を思い出した。

 私が付き合おうと言いだした方なのに、教室で話をするのはやめておいた方がいいかと思ったので、彼も同じような考えでいてくれたことが何より嬉しかった。

 彼の言葉の一つ一つや、考え方に触れるたび安心する。

 何気ない会話、只々一緒に時間を過ごしてくれるだけでいい。

 何か日常に刺激を与えてほしいなんて事はないし、無理に楽しませようと努力をする必要はない。

 ただ彼のことをもっと知りたい。

 そうすれば私に足りていないものをもっと補ってくれる、彼がそう思える存在だと言うことに幸せを感じた。

 今はそれだけで充分で、他には何も要らなかった。

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