スポーツの糸

 朝、外の空気はすでに熱を帯びていた。

 カーテンを少しだけ開けると、向かいのビルの壁が真っ白に光っている。熱が光に混ざって、目に刺さるようだ。下の通りでは、早くも宅配トラックがアイドリング音を響かせている。車体の下から流れ出る熱気は、まるで地面が呼吸をしているように波打って見える。


 机の上には昨夜まとめた報告書がそのまま置かれていた。カップの中のコーヒーは冷え切って、表面に薄い膜が張っている。飲み干す気にもなれず、その横でノートPCを開く。いつも通り、ニュースサイトを巡るのが一日の始まりだ。


 見出しには「夏の子どものスポーツ活動、気候変動で制限も検討」とあった。

 国立環境研究所と早稲田大学のレポートによると、2060年には多くの地域で屋外の学校スポーツが安全にできなくなる可能性があるという。すでに全国高校野球やサッカー大会では、試合時間の短縮や開始時間の見直し、冷却施設の設置が進められているらしい。


 私は運動が苦手だ。

 いや、苦手というより、そもそも性に合わない。じっと物陰に潜み、獲物が罠にかかるのを待つ。それが私のやり方だ。蜘蛛である私には、それが自然で効率的な狩りの形なのだ。


 けれど、人間はそうじゃない。

 浮気する男も、それを暴こうとする女も、驚くほど行動的だ。行動力だけは見習ってもいいと思うくらいだ。その源はどこにあるのだろう――私はずっと、それが「スポーツ」にあると感じてきた。


 スポーツは、狩りを遊びに変えたものだ。

 猫が猫じゃらしを追いかけるのと同じ。球技は、走る獲物を追う本能から。格闘技は、獲物を仕留める技術の延長線上にある。陸上競技や水泳も、ただ速く動くためではなく、元をたどれば獲物にたどり着くための技術だ。

 昨今流行りのeスポーツでさえ、私はパソコン越しに獲物を追い詰め、狩るための能力を試しているように見える。


 何が言いたいのかというと、人間は狩りを楽しめなくなったら、生きる意味を見失うということだ。

 浮気する男は女を「ハンティング」して楽しみ、それを突き止める女もまた男に制裁を下すための「ハンティング」を行っている。私は待ち伏せるタイプだが、それは蜘蛛という種のやり方にすぎない。人間は、やはり体を動かしてこそ真価を発揮する。


 だが、ニュースはその真価を奪いかねない話だった。

 温暖化は、彼らのスポーツ――つまり人類が本能的に求める「狩りの遊び」を奪おうとしている。屋外で走れなくなる子どもたち。炎天下を避けて室内に閉じこもる夏休み。狩りを忘れた人間は、きっと苦しむだろう。そう思うと、私は少しだけ可哀想に感じる。


 コーヒーを飲み直すためにキッチンへ行き、窓から街を見下ろした。

 近くの公園のバスケットコートでは、朝練らしき高校生たちがボールを叩く音を響かせている。ボールがコンクリートを打つ乾いた音が、建物に反射して私の部屋まで届く。まだ午前中なのに、もう汗が光っているのが見える。

 ふと、10年後、この光景はなくなってしまうのかと考える。暑すぎて、朝練も禁止され、子どもたちはボールではなくゲーム機を手にするのだろうか。


 午後の調査で、私はまたホテル裏の植え込みに身を潜めた。

 駐車場に停まったSUVから、依頼人の夫と見知らぬ女が降りる。笑い声と一緒に、女が小さなスポーツバッグを抱えていた。多分ジム帰りだろう。男はバッグをひょいと奪い、肩にかけてやる。その軽々とした動きに、体を動かすことへの慣れが見えた。

 ああ、この人はスポーツの味を知っているのだ。だからこそ、こうして別の「獲物」も追える。


 夕方、屋上に上がると、大家の老夫婦が小さな菜園の手入れをしていた。

 「今日は風があるけど、暑いわね」と奥さんが言う。

 私は頷き、下の公園を指差した。「あそこ、まだバスケしてます」

 奥さんは目を細め、「若いっていいわねぇ」と笑った。その笑顔の裏に、数十年後、子どもたちが外で遊べなくなる未来を想像していないことを、私は感じ取った。


 夜、扇風機を回しながらニュースをもう一度読む。

 私は運動が苦手だ。けれど、走る人間、跳ぶ人間、闘う人間を見るのは嫌いじゃない。そこにあるのは、原始から続く生存本能の名残だからだ。

 それが失われたとき、人間は何を目指して動くのだろう――その答えは、まだ想像できない。

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