熱波の糸
朝、網が少したるんでいた。
夜の間にまとわりついた湿気が、糸を重くしている。窓を開けると、むっとする熱気が部屋に入り込んできた。外の通りは朝のラッシュの始まりで、黄色いタクシーが次々と角を曲がっていく。焼けたアスファルトの匂いと、道路脇のゴミ袋から漂う生ぬるい匂いが混ざり合って、鼻をつく。
遅れてやって来たゴミ収集車が、黒い排気ガスを振りまいていた。その熱気に、私は慌てて窓を閉める。これ以上この空気に耐えられない。
部屋は古いレンガ造りで、壁の隅には私の糸が目立たないように張ってある。机の上には昨夜の書きかけの報告書と、冷めたまま忘れられたコーヒーのカップ。外の喧噪とは違い、室内はまだ静かだが、空気は動かず重い。
夜に仕掛けたカメラの映像を再生する。
依頼人の夫が別の女とホテルに入っていく姿が映っている。ドアが閉まる寸前、女が笑って手を振った。細い銀のブレスレットが光を反射し、一瞬だけ画面がきらめく。先週と同じ仕草、同じアクセサリー。人間の習慣は、網に引っかかる糸くずのように繰り返される。
映像を切り出し、時刻と場所を添えて報告書に貼る。送信ボタンを押すと、ひとつの朝が終わった気がする。これが私の仕事の始まりであり、区切りだ。コーヒーメーカーを動かすと、焦げたような匂いが部屋を満たした。
私のルーティンは、これを徹底する。朝食よりも、カフェインよりも、まず先にメールだ。これをしないと、後で慌てることになる。
私が好きなのは朝の優雅な時間なのだ。
サッとノートパソコンを操作して、ニュースサイトを開く。
見出しは、日本の猛暑。群馬県伊勢崎市で41.8度。国内史上最高の気温だという。赤い数字とともに、照りつける太陽のアイコンが載っている。読んでいるだけで、喉が渇いた。5万人以上が熱中症で搬送され、稲作にも被害が出ているという。稲穂が日に焼け、実らぬまま枯れていく光景が目に浮かぶ。
私は、日本の夏を思い出す。
風鈴が揺れるたびに、小さな音が涼しさを連れてきた。扇風機が回る音は、部屋の空気を柔らかく撫でた。浴衣で歩いた川沿いの道は、夕暮れに染まり、屋台から漂う醤油や甘い蜜の匂いが混ざっていた。手に持ったかき氷は、口に入れた瞬間に溶け、ひんやりとした水の記憶だけを残した。冷やしたキュウリをかじれば、表面に残った水滴が唇を伝い、スイカの赤い果肉は甘くて冷たく、噛むたびに体が楽になるようだった。
あの頃は、クーラーがなくても涼しさを「探す」ことができた。だが今は、アスファルトが靴底を溶かすという。
窓の外では、近所の青年が犬を抱えて歩いていた。
犬は舌をだらりと垂らし、足をぶら下げたまま動かない。地面の熱は、体の小さな動物にとって命取りだ。犬を飼っていなくても、そのことは分かる。
この猛暑は日本だけの話ではない。
アメリカも、ヨーロッパも、中国も同じように焼けている。温暖化という言葉は柔らかすぎる。本当は「灼熱」と呼んだほうがいい。地図を開き、群馬を探す。山に囲まれた盆地で、熱が逃げにくい場所だと分かる。
昼前、依頼人から電話があった。
「報告、見ました。やっぱりでしたね」
その声には諦めと確信が混ざっていた。「やっぱり」という言葉には、不思議な安堵がある。予想していた悲しみは、衝撃を和らげるのだろう。私は、その安堵を渡すために網を張っているのかもしれない。
午後、ホテル裏の植え込みに身を潜める。
アスファルトの照り返しが頬に刺さる。蝉の声ではなく、車のクラクションとエンジン音が響く。やがて男が現れ、同じ女とホテルに入っていく。手には氷入りのプラスチックカップ。ストローを刺す音が微かに聞こえた。涼を求めるその姿は、必死でありながらも、どこか滑稽だ。
夕方、屋上に上がると、大家の老夫婦が小さな菜園に水をやっていた。
空はオレンジ色に染まり、遠くで飛行機が低く音を立てている。奥さんが言った。「日本で記録が出たってね」
スマホでニュースを見せると、驚きと心配の入り混じった表情になった。「こんな暑さじゃ、夏を好きでいられるかしら」
私は答えず、バジルの葉を指で撫でた。表面は熱いが、内側にはまだ冷たさが残っていた。
夜、扇風機を回す。
日本の扇風機には、ただの風以上の何かがあった。こちらの扇風機は数字通りの風量を出すだけだ。風鈴はこの部屋には似合わない。代わりに窓辺に小さな金属片を吊るすと、エアコンの風でかすかに音が鳴った。その微かな響きだけで、少し気持ちが楽になる。
帰り道、コンビニで氷を買う。
外に出ると、黒い犬が道端に座っていた。肉球が赤くなっている。飼い主の少女に氷を渡すと、驚いた顔のあとに笑顔が返ってきた。「ありがとう」と言われ、私は軽く微笑んだ。言葉を返すと、何かが壊れそうな気がしたからだ。
夜になると、雨が降り出した。
アスファルトが冷え、空気が少し軽くなる。雨の匂いが部屋に入り、網がわずかに締まった。終止符を打つことはできなくても、休符は作れる。明日もまた暑くなるだろう。それでも今夜は、この静かな涼しさを味わうことにした。
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