主観で読む戦国

海林

落日の剣豪 / 細川藤孝の視点

 今にして思えば、あの方は、嵐のような人だった。いや、嵐そのものだったと言うべきか。俺、細川ほそかわ兵部大輔ひょうぶだゆう藤孝ふじたかの主君、征夷大将軍せいいたいしょうぐん足利義輝あしかがよしてる様。その名を口にするだけで、今でも溜息が一つ、二つと自然に漏れてしまう。


 世間じゃあの方を「剣豪将軍けんごうしょうぐん」なんてもてはやす。確かに、その通りだ。だがな、こっちの身にもなってみろ。主君が政務の合間に庭で木刀を振り回し、「兵部大輔ひょうぶだゆう、ちと手合わせを願おうか!」などと汗だくで声をかけてくるのだ。断れるわけがないだろう。おかげで俺まで妙に剣の腕が上がってしまった。まったく、迷惑な話だ。


 俺たちの時代の将軍なんてのは、お飾りみたいなもんだ。京の都で公家どもと歌を詠み、茶をすすり、季節の移ろいを愛でていればそれでいい。いや、むしろ、そうであってくれなければ困る。実権は三好みよしだの松永まつながだの、力のある奴らが握っている。それが「常識」であり「現実」だった。だが、あの方はその常識ってやつを、まるで気に入らない玩具みたいに叩き壊そうとした。その一番の表れが、剣術への異様なまでの傾倒だった。


「将軍は武家の棟梁とうりょうたる者。弱くてどうする」


 口癖のようにそうおっしゃっては、今日も今日とて刀剣の手入れに余念がない。御所ごしょには、それこそ目がくらむような名刀がずらりと揃っていた。将軍家に伝わる鬼丸国綱おにまるくにつな大典太光世おおでんたみつよ。輝きも鋭さも伝説級の業物わざものたちだ。 あの方はそれをただの美術品として眺めるんじゃない。まるで自分の手足のように慈しみ、そして、本気で振るうつもりでいた。


 ある日のことだ。関東から塚原卜伝つかはらぼくでんという、とんでもない剣の達人がやってきた。よわい七十は超えているというのに、その眼光の鋭さときたら、まるで抜き身の刀そのものだ。噂に聞く「いち太刀たち」の使い手。あの方はこの機会を逃すはずがなかった。


兵部大輔ひょうぶだゆう卜伝ぼくでん殿が参られたぞ! さあ、お主も共に教えを乞うのだ!」


 御所ごしょの広間に正座させられた俺の目の前で、将軍様はまるで寺子屋に通い始めたばかりのわらべのように目を輝かせている。やれやれ、だ。俺は政務を司る文官であって、剣豪になりたいわけじゃないんだが。しかし、主君の命令は絶対だ。隣には、同じように引っ張り出されてきた北畠具教きたばたけとものり殿が、苦笑いを浮かべて座っていた。


 卜伝ぼくでん殿の指導は、それはもう神業かみわざだった。理屈じゃない。構えた瞬間に「気」で相手をし、勝負を決める。それが「いち太刀たち」。あの方は、それを驚くべき速さで吸収していった。まるで乾いた砂が水を吸うように。その集中力、その執念。俺は呆れるのを通り越して、一種の畏れさえ覚えた。この人は本気だ。本気で、この落ちぶれた幕府を、己一人の武威ぶいで立て直すつもりなのだと。


 その数年後には、今度は上泉信綱かみいずみのぶつなとかいう、これまた達人中の達人が弟子を連れてやってきた。新陰流しんかげりゅうとか言ったか。その時もあの方は、政務を放り出して見物に駆けつけた。弟子の丸目蔵人佐まるめくらんどのすけとかいう若者の剣技にえらく感心して、その場で感状かんじょうまで与えてしまう始末。


「見たか、兵部大輔ひょうぶだゆう。あの無駄のない動き。流水のようだ。我が剣も、まだまだだな」


 そう言って笑う横顔は、どこまでも無邪気だった。だが、俺には分かっていた。あの方の笑顔の裏にある、深い焦りと孤独が。


 時代は、我々を待ってはくれなかった。大樹のように幕府を支えていた(と同時に、幕府をないがしろにしていた)三好長慶みよしながよしが死ぬと、せきを切ったように権力争いが激化した。松永久秀まつながひさひで三好三人衆みよしさんにんしゅう。奴らのぎらついた目が、将軍の座に向けられているのを、俺は肌で感じていた。京の空気は日増しに淀み、鉄の匂いが濃くなっていく。


 あの方も、それを感じておられたのだろう。木刀を振るう音は、夜更けまで止むことがなくなった。それはまるで、近づきつつある破滅の足音をかき消そうとするかのようだった。


兵部大輔ひょうぶだゆう。もし、万が一のことがあれば、弟の覚慶かくけい(後の義昭よしあき)を頼む」


 ある夜、月明かりの下で二人で酒を酌み交わしていると、ぽつりとそう言われた。俺は言葉に詰まった。


「何を水臭みずくさいことを。万が一など、あろうはずがございません」

「はは、そうか。そうだといいがな」


 あの方は力なく笑うと、杯に残った酒をぐいと飲み干した。その瞳の奥に宿る光は、覚悟を決めた者のそれだった。俺は、この破天荒で、手のかかる主君を、どうしようもなく好ましく思っている自分に気づかされた。そして、この人に最後まで付き合うのが、俺の天命てんめいなのだと、そう思った。


 永禄えいろく八年(一五六五年)、五月十九日。運命の日が来た。


 その日、俺は所用で御所ごしょを離れていた。それが幸いしたのか、あるいは生涯の不覚だったのか、今でも分からない。謀反むほんの知らせが俺の元に届いたのは、すべてが始まってからだった。三好三人衆みよしさんにんしゅうらが大軍を率いて二条御所にじょうごしょに押し寄せたという。


 俺が息を切らして駆けつけた時、御所ごしょの周りはすでにときの声と怒号、そして黒煙に包まれていた。 地獄とは、きっとこういう場所なのだろう。門は破られ、塀は崩され、忠義の士たちが無残なむくろとなって転がっている。


「将軍様は! 将軍様はご無事か!」


 俺は、すすと血にまみれてよろよろと逃げ出してきた小姓こしょうの肩を掴んで叫んだ。小姓こしょううつろな目で俺を見ると、わっと泣き崩れた。


「将軍様は……将軍様は、今も中で……」


 その小姓こしょうが、震える声で語った光景は、常軌じょうきいっしていた。


 敵が御殿ごてんになだれ込んできた時、あの方は慌てず、騒がず、ただ静かに死装束しにしょうぞくに着替えたという。 そして、広間の畳に、自慢の名刀の数々を突き立てた。三日月宗近みかづきむねちか大般若長光だいはんにゃながみつ、二つ銘則宗ふたつめいのりむね……。まるで、墓標ぼひょうのように。


「武家の棟梁とうりょうたるものの最期、とくと目に焼き付けよ」


 そう言い放つと、まず三日月宗近みかづきむねちかを抜きはなち、押し寄せる敵兵の中に単身、斬り込んでいった。


 一人斬り、二人斬り、血脂ちあぶらで刃が鈍れば、その刀を捨て、畳に駆け戻って次の名刀を抜く。そしてまた、修羅しゅらごとく敵を斬り伏せる。その姿は、悲壮というより、あまりに美しく、まるで猿楽えんがくのう)のまいのようであったと、小姓こしょうは言った。


「将軍様は、まるで笑っておられるかのようでした。本当に、楽しそうに……」


 あんたって人は、最後まであんただったんだな。

 将軍の権威が地に落ちたこの乱世で、あんたはただ一振り、己の剣の腕と誇りだけで「将軍」であろうとした。その最後の晴れ舞台だ。楽しくないわけがない。


 だが、物語は、いつか終わりを迎える。


 いかに剣の達人であろうと、しょせんは生身なまみの人間だ。敵は遠巻きにして矢を射かけ、鉄砲を撃ちかけ、長い槍で突きかかったという。そりゃあ、そうだろう。誰が、鬼神きしんと化した将軍に真正面から挑むものか。


 胸に槍を受け、頭に矢を射られ、顔に太刀傷たちきずを浴びて、ついにあの方は地に倒れた。地に伏した将軍様に、とどめを刺さんと群がった敵兵が四方から殺到し、そのお体に折り重なるようにして手当たり次第に斬りつけたという。


 まったく、ひどい話だ。


 あんたが生涯をかけて磨き上げた「いち太刀たち」も、数の暴力と、時代の新しい武器の前には届かなかった。あんたは生まれる時代を間違えたんだ。平和な世なら、ただの風流な文化人として。あるいは、もっと古い時代なら、源氏げんじ棟梁とうりょうとして、その武勇ぶゆうを存分に振るえただろうに。 なぜ、こんな中途半端で、救いのない時代に将軍として生まれてきてしまった。


 俺は燃え盛る御殿ごてんを見上げながら、ただ歯を食いしばることしかできなかった。 涙は出なかった。いや、出ることを、俺自身が許さなかった。


 悲しんでいる暇はない。あの方との約束がある。


 俺はすぐさまきびすを返し、奈良へと走った。 僧侶となっていたあの方の弟、覚慶かくけい様をこの手で守り、脱出させるために。あの方が守ろうとした「足利将軍家」というものを、俺が終わらせるわけにはいかない。


 将軍様のせいで、俺の人生はとことん面倒なことになった。


 これから先、この覚慶かくけい様を担いで、もと中を駆けずり回ることになるのだろう。 きっと、あの方に負けず劣らずの苦労をさせられるに違いない。


 だが、不思議と後悔はなかった。むしろ、胸の奥で静かな炎が燃えているのを感じていた。


 見ていてくだされ、義輝よしてる様。


 あんたがその身を賭して見せつけた、将軍の意地と誇り。そのあまりにも重く、そして眩しい「呪い」を、この細川藤孝ほそかわふじたかが、あんたの弟君と共に背負ってやろう。


 あんたが夢見た、強くあるべき幕府というやつを、この手で、もう一度この世に創り上げてみせる。


 まあ、あちらの新しい将軍様も、なかなかに一筋縄ではいかない御仁ごじんのようだがな。


 俺の苦労は、どうやらまだまだ終わりそうにない。まったく、人使いの荒い主君を持ったものだ。空の上のあんたは、きっとそれを見て笑っているんだろうな。ちくしょうめ。

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