第2章 忘れられない教室
十一月十五日の朝、雄一は久しぶりに故郷の駅に降り立った。駅前の風景は十五年の歳月を経て大きく様変わりしていたが、空気の匂いや風の感触は昔のままだった。
桜丘高校までは駅から徒歩で二十分ほど。雄一は重いカメラバッグを肩に掛けて歩き始めた。記者としての習性から、今日の出来事を記録に残しておこうと思ったのだ。
住宅街を抜け、小さな商店街を通り過ぎると、やがて見慣れた校門が見えてきた。しかし、かつて雄一たちが通っていた頃とは明らかに違っていた。
校門には大きな立て看板が設置されており、「立入禁止」「危険につき関係者以外立入禁止」という文字が赤い字で書かれていた。校舎の窓という窓には板が打ち付けられ、まるで巨大な棺桶のような不気味さを醸し出している。
校庭は雑草に覆われ、かつて生徒たちが体育の授業で駆け回った面影はない。ところどころに「危険」と書かれた黄色いテープが張り巡らされており、建物の老朽化が進んでいることを物語っていた。
雄一が校門の前で立ち尽くしていると、後ろから声を掛けられた。
「雄一? 田中雄一よね?」
振り返ると、そこには見覚えのある女性が立っていた。肩までの髪を綺麗にまとめ、上品なスーツを着た彼女の顔は、確かに高校時代の記憶と重なった。
「真理子さん。久しぶりです」
吉田真理子——旧姓山田真理子は、高校時代とほとんど変わらない優しい笑顔を雄一に向けた。ただし、その目の奥には、以前にはなかった複雑な陰が宿っているように思えた。
「本当に久しぶり。十五年ぶりよね。まさか本当に来てくれるなんて思わなかった」
「案内状を見た時は、正直迷いました。でも……」
雄一は言葉を濁した。なぜ来たのか、自分でもはっきりとは分からない。ただ、何かに導かれるような気持ちだった。
「他の皆はもう来てるの?」
「ええ、森川先生も含めて、みんな校舎の中にいるわ。入りましょう」
真理子は手に持った鍵束から一つの鍵を取り出し、校門の鍵を開けた。
「どこでその鍵を?」
「市役所に事情を話して、特別に借りたの。今日一日だけの許可よ。明日からはまた立入禁止になる」
校門を潜り、校舎に向かって歩きながら、雄一は周囲を見回した。体育館は既に取り壊されており、その跡地にはコンクリートの基礎だけが残っている。プールも水が抜かれ、底にはたまり水とゴミが散乱していた。
「寂しいものね」真理子がつぶやいた。「私たちが青春を過ごした場所が、こんな風になってしまうなんて」
「時の流れは残酷だ」
雄一の言葉に、真理子は複雑な表情を浮かべた。
「そう言えば、雄一は新聞記者になったのよね。東京の大手新聞社で働いてるって聞いたわ」
「ええ、社会部で事件記者をやってます。真理子さんは?」
「私は地元で小学校の教師をしてるの。結婚して子供も二人いるのよ」
「そうですか。幸せそうで何よりです」
しかし、雄一にはそれが建前の会話のように感じられた。真理子の表情には、どこか無理をしているような、作り笑いのような印象があった。
校舎の玄関に着くと、真理子は再び鍵束を取り出した。重い金属音と共に扉が開かれると、中からかび臭い空気が流れ出してきた。
「電気は通じてるの?」
「一応ね。でも最低限だけよ」
薄暗い廊下に足を踏み入れた瞬間、雄一の胸に懐かしさと同時に、名状しがたい恐怖が湧き上がった。廊下の左右に並ぶ教室の扉はすべて閉じられており、まるで墓石のように見える。
足音が妙に響く廊下を歩きながら、雄一は高校時代の記憶を辿った。この廊下で美香とすれ違った時、彼女はいつも俯き加減で、誰とも目を合わせようとしなかった。今思えば、それは明らかに何かを恐れていたからだった。
「三年B組はこっちよ」
真理子に案内され、雄一は階段を上がった。二階の廊下はさらに薄暗く、窓に打ち付けられた板の隙間から差し込む光が、床に縞模様を作っている。
教室のドアの前で、真理子は立ち止まった。
「みんな、お待たせ。田中君が来てくれたわ」
扉が開かれると、中から複数の声が聞こえてきた。雄一は深呼吸をしてから、十五年ぶりの教室に足を踏み入れた。
そこには、記憶の中の顔とは微妙に違いながらも、確かに見覚えのある四人の人物が座っていた。そして教卓の前には、白髪の混じった男性が立っていた。
「田中君、久しぶりだね」
森川先生——現在は六十歳を過ぎているはずだが、声は昔のままだった。しかし、その顔には深い皺が刻まれ、どこか疲れた表情を浮かべている。
「先生、お久しぶりです」
雄一は軽く頭を下げてから、教室の中を見回した。机と椅子が円形に配置され、まるで会議室のような配置になっている。そこに座っているのは、山田健太郎、高橋誠一、佐々木香織、鈴木美奈子の四人だった。
「よお、田中。相変わらず真面目そうな顔してるな」
山田健太郎が軽い調子で声を掛けてきた。高校時代、彼は体格が良く、運動部のエースだった。今も基本的な体型は変わっていないが、顔には脂肪がついて、いわゆる中年太りの兆候が見える。
「健太郎、君も変わらないね」
雄一は愛想笑いを浮かべながら答えた。しかし、内心では複雑な感情を抱いていた。山田健太郎は、高校時代に美香をいじめていた中心人物の一人だったからだ。
「誠一君、元気そうだね」
高橋誠一は元生徒会長で、真面目で優等生タイプだった。現在もその面影は残っているが、以前よりも神経質そうな印象を受ける。彼は雄一に向かって小さくうなずいただけで、あまり多くを語ろうとしなかった。
佐々木香織と鈴木美奈子は、高校時代から仲の良い友達同士だった。二人とも結婚しており、主婦をしているようだった。香織は少しふっくらとした体型になっていたが、美奈子は逆に痩せて、どこか神経質そうな印象を与えた。
「それじゃあ、全員揃ったところで、始めましょうか」
真理子の提案で、同窓会が始まった。最初のうちは、お互いの近況報告や昔話で盛り上がった。しかし、雄一には、この和やかな雰囲気の底に、何か緊張したものが流れているような気がしてならなかった。
特に、佐藤美香の名前が一度も出てこないことが気になった。まるで、彼女の存在そのものを消し去ろうとしているかのようだった。
「そう言えば」山田健太郎が唐突に口を開いた。「西村のやつは来ないのか?」
その瞬間、教室の空気が凍りついた。誰もが一瞬言葉を失い、お互いの顔を見合わせた。
「西村君には案内を出さなかったの」真理子が重い口調で答えた。「理由は……みんなも分かってるでしょう?」
「そうか。まあ、そりゃそうか」
山田は苦い笑いを浮かべた。雄一には、その理由が手に取るように分かった。西村俊介は美香をいじめていた張本人で、彼女の死に最も責任があると考えられていた人物だ。この場に彼がいたら、とても和やかな同窓会など開けないだろう。
「でも、考えてみれば不思議よね」鈴木美奈子が小さな声でつぶやいた。「あの子のことを、私たち、ずっと話題にしないで過ごしてきたけど……」
「美奈子」佐々木香織が慌てたような声で制止した。
「でも、そろそろ向き合うべきなんじゃないかしら。あの子の死と、私たちが果たした役割について」
教室に重い沈黙が降りた。雄一は美奈子の言葉に、ある種の勇気を感じた。十五年間、誰もが避け続けてきた話題に、ついに触れようとする人が現れたのだ。
「美香の話をするのか?」山田健太郎の声には、明らかに動揺が含まれていた。
「いえ」森川先生が口を開いた。「今日はそういう日じゃない。楽しい思い出を語り合う日なんだ」
しかし、その言葉とは裏腹に、森川先生の表情は険しく、手も微かに震えているように見えた。
「でも先生」雄一は意を決して口を開いた。「美香も私たちのクラスメートだった。彼女なしに、三年B組の思い出を語ることなんてできませんよ」
「田中君……」
森川先生の顔に困惑の色が浮かんだ。しかし、雄一は続けた。
「僕は記者をやってます。人の死について、嫌というほど取材してきました。でも、美香の死だけは、今でも納得がいかない。本当に彼女は自殺だったんでしょうか?」
「何を言ってるんだ、田中」山田健太郎が声を荒らげた。「警察だって自殺って結論を出しただろう。今更そんなことを蒸し返してどうするんだ」
「でも、おかしいと思いませんか? 美香が川に身を投げたとされる日の夜、雨が降っていました。しかも、彼女の遺体が発見されたのは、自宅から十キロも離れた場所。なぜそんな遠い場所まで行く必要があったんでしょう?」
雄一の指摘に、教室の全員が息を呑んだ。これらの疑問は、十五年前にも囁かれていたが、結局うやむやになってしまった問題だった。
「それに」雄一は続けた。「美香の遺書も見つかっていない。自殺する人間が、何も言葉を残さずに死ぬものでしょうか?」
「やめろ」山田健太郎が立ち上がった。「そんな話をするために、俺たちは集まったんじゃない」
「でも、真実を知りたくないんですか?」雄一も立ち上がって山田と向き合った。「僕たちのクラスメートが、なぜ死ななければならなかったのか」
「もういい!」森川先生が大きな声で割って入った。「この話はここで終わりだ。我々は前向きな話をするために集まったんだ」
しかし、雄一にはもう後戻りはできなかった。十五年間胸の奥に溜め込んできた思いが、ついに爆発しそうになっていた。
「先生は知ってるんですね。美香の本当の死因を」
「田中君、いい加減にしなさい」
「答えてください。なぜ美香は死んだんですか? そして、なぜ真相が隠蔽されたんですか?」
その時、外で大きな雷鳴が響いた。誰もが一瞬びくりとして、窓の方を見た。いつの間にか空は厚い雲に覆われ、強い風が校舎を揺らしていた。
「天気が悪くなってきたね」真理子が不安そうにつぶやいた。「天気予報では夕方から雨って言ってたけど、思ったより早いみたい」
「そう言えば、今日は台風が接近してるって言ってたな」高橋誠一が初めて口を開いた。
しかし、雄一の頭の中は、まだ美香のことでいっぱいだった。なぜ森川先生はあんなに慌てたのか。なぜ山田健太郎は話を中断させようとしたのか。
そして何より、なぜ真理子は今日という日を選んで同窓会を開いたのか。
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