第31話 茶碗の中③
2024年、5月1日水曜。
日没を過ぎて以降、鹿鈴寺の境内は、
堂内、阿弥陀三尊の御足下にて、麻紐製の縄を渡した四方の結界を作り、その中に龍円は座していた。現在は午後二十三時を回ったところだ。
麻紐は、村岡の髪が共に
村岡は、龍円の
空也の襲来は今夜だろうと予測されたが、それでも確実ではない。万に一つを警戒しての連日滞在だったが、逆に今夜も何も起こらなければ、違う手立てを考えねばならないだろうというのが総意だった。何かが起きるまで、村岡を鹿鈴寺に通わせ続けるというのは、当たり前のことだが最善手ではない。
龍円は、結界の内側から、じっと村岡を見つめた。
黒のスカジャンに、同じく黒の綿パン。髪はヘアクリップ(というらしい大きな洗濯ばさみみたいなもの)でまとめ上げ、その傍らには六十センチほどの白い角棒を置いていた。棒の片側先端近くには紐が結び付けられている。黒と濃緑と白の三色だ。以前に村岡の左手に見たものと同じ配色である。
村岡の長い指先が、つと床上の盆に伸びた。青磁の茶碗を上からつかみ、中の麦茶を一口すする。村岡の視線は、ひたすら引き戸に注がれていた。じっと。確定した怨嗟の訪れを待つかのように。
ふわあっと大きな欠伸が聞こえた。龍円は村岡から視線を外すと、音のした方へ目を向ける。
彼女から少し離れた壁際に、一人の男が座っている。白木の模造刀を膝の上に投げ出し、座布団の上で片膝を立てて姿勢を崩している。庚午だ。
数日前、寺で対面した時の村岡と庚午の様子は、一言で言うと、とてもシュールなものだった。そもそも村岡は庚午と、それから先日訪れた老刑事の柴田とも知り合いだったらしいので、正確には対面ではなく再会である。
村岡には、龍円には与り知らない事情があるようだが、状況が状況である。龍円からも村岡に説明を求めるつもりはないし、村岡達もまた何も言わない。
件の再会時、村岡の前に立ち、咥え煙草で彼女を見下ろした庚午は、しばらく無言を決め込んでから、唐突に「へっ」と片頬を歪めて笑った。
「久しぶりだな、
これに対し、庚午を見上げる村岡の表情筋は、ものの見事に死んでいた。完全に大人に対して心を閉ざした令和女子の顔そのものである。
「お久しぶりです蛇来さん。その説はどうも。そしてとってもお元気そうで何よりです」
「お前その慇懃無礼な棒読み、全然変わってねぇなあ」
「蛇来さんは、すごくオジサンになりましたね」
「そういうとこだよホント……」
以来、二人のやり取りはずっとこんな調子なのだが、それでも仲が険悪だというのでもない。後々になって龍円も気付いたのだが、どうやらこれは、村岡が物凄く気を許している状態らしい。「安心しているから態度が悪いのだ」と、先日差し入れに来てくれた柴田が苦笑いしていた。
女心はわからない。村岡がわかりにくいだけかもしれないが。
じりりと、蝋燭が黒煙を上げて揺らいだ。
やはり、訪れるならば今夜だろうと、龍円は下唇の内側を噛みしめた。
父と母には近くの集会場で待機してもらっている。念のため警護に当たってくれているのは柴田だ。龍円の近親であることで、怨嗟の認識がそちらへ向かわないとも限らないからだと村岡が説明したためである。
以前にも、村岡は言っていた。
この怨嗟は強敵で、村岡の力だけで対抗することは難しい。そういうものを相手どらなくてはならない時に、守らなくてはならないものが多くなるというのは一番都合が悪い、と。
村岡いわく、庚午には怨嗟のようなものに対する対抗力があるらしい。
つい先ほども、
「何を見込まれたのか知らんが、つかめる藁程度の役になら立つと思われてんだろ」
と、頭の後ろで手を組み、半笑いになりながら龍円に話していた庚午に向かって、「何言ってんですか」と村岡は呆れ顔を見せた。
「蛇来さんて、ご本人はねちねちと粘着質なのに、何故か物凄く徳が高くて光り輝くような神様の加護がついてるんですよ」
その言葉に、え、と叔父甥で振り返った。
「――そうなのか?」
「全く、意味がわからないですよ。わからないけど、でも蛇来さんがいてくれたら事態は必ず好転するんで。――頼りにしてますから」
心を許さない令和女子の顔で、村岡はぷいとそっぽを向いたが、そこから庚午は黙って村岡の傍にいる。自分で言うのもなんだが、多分蛇来の家系の男はチョロいのだと思う。
そして現在。鹿鈴寺の中にいる人間は、龍円、庚午、村岡の三人に絞られている。
刻一刻と時が過ぎる中、その瞬間、
ふっと、視界全体が暗くなった。
村岡の手が、がっと角棒を掴んだ。
「――来た」
村岡の言葉に、こくりと龍円は生唾を飲みこんだ。
村岡と庚午が同時にその場で立ち上がる。
暗い。やはり暗い。視界が暗いというよりも、意識そのものに墨を落とされたような感じだ。全身にぶわりと鳥肌が立つ。
くつくつと小さく喉を震わせるような笑い声がした。庚午だ。その右手に握られた模造刀が、気のせいか、ぼんやりと黄色く光って見える気がする。全身をゆっくりと揺すっている。次の動作に移るための事前動作か。
その時、
引き戸が、がたんと揺れた。
ずるり。
ごぼり。
ぬちゃ。
ずるり、ごぼり、……ぬちゃ。
「来るぞ!」
が、がが、と、扉が開いた。
「こんばんは! 龍いますか?」
扉の向こうから現れた、にっこりと健やかな顔に、龍円は一瞬にして固まった。
日焼けの抜けた真っ白い顔に、胸元のはだけて鎖骨の露わになり、足元も裾を割って腿をむき出しにした、昔から見なれた紺の浴衣姿で。
肩まで長く伸びた、黒く細く真っ直ぐな髪に、伏し目がちの、長い睫毛が影を落とす目許。
ふふ、と、熱を帯びた笑いが、男子の口から吐き出される。何故かやたらと赤い、開かれたその唇から。
そして、つんと強烈な消臭剤の匂いが、一気に堂内に広がって――
「こりゃ、スゲェ死臭だな……!」
Tシャツの胸元を左手でつかみ引っ張り上げて、口と鼻を隠しながら庚午が叫ぶ。
男子が庚午へ目を向けて、きょとんとした顔をした。くるんと跳ね上がった睫毛で、ぱちりと瞬く。
「あれ、龍の叔父さん、お久しぶりです。えっと、こっちの女子は、龍の先輩か誰か?」
こちらへ目を向けて、そう、微笑みながら問う空也に、ぐうっと龍円の喉が鳴った。視界が一気にかすむ。頬にぼろりと涙が伝う。
それを見て、困ったように空也が微笑む。
「どうしたんだよ龍、ガキみたいに泣いて。折角迎えに来たのに、喜んでくれないのか?」
空也の右手が、龍円へ向けて伸ばされる。細い指先。剥き出しになった骨。浴衣の内側、袖の中に、ぬるりと
ああ。空也。
「お前、もう、こんなに腐ってしもてたんか……」
骨の白さが額から頬から剥き出しになった顔で、皮の剥がれて盛り上がった鎖骨を見せつけて、空也は――龍円に微笑みかけた。
「龍。お前の身体がいるんだ。俺と一緒に来てくれよ」
ごおっ! と空也の手が龍円へ向けて伸びた! だが、
「させるか!」
空也と龍円の間に、速攻、脱兎の如く駆けた庚午が模造刀をもって空也の腕を弾き上げる。
「ちいっ」
舌打ち、悪鬼の如く形相を変える空也の腕の下、黒い塊が駆け込んだ。村岡だ。手にした角棒を右脇後方に低く持ち、自身の体勢も床すれすれ限界にまで沈む。
がっ、と右足が床を噛み、左手に構えた角棒を下から空也へ振り上げる! 空也の身が中空高く飛ばされた。
空也が絶叫しながら堂の壁に叩きつけられる。その隙に村岡は引き戸に飛んだ。懐から引き抜いた麻紐の縄を、戸の下部にビン! と張った。見れば、堂内全体は壁沿いにぐるりと麻紐を貼り付けている。今、村岡が入り口に置いた縄はどういう仕掛けかはわからないが、引き戸部分という一部だけ、隙間を開けていた縄を閉じるものになった。
村岡が口元に人さし指を立てる。
「回」
村岡がそう口にしたとたん、一つながりになった縄が発光した。堂の中央にある阿弥陀三尊を含めた小さい結界と、堂の壁面に張り巡らせた結界とで、回状が完成している。
「眞玉! 決まったか⁉」
背後に龍円を守りつつ叫ぶ庚午に、村岡が口を開きかけたその時。
空也の背中がバリバリと破れ、そこから黒いヘドロのようなものが沸き上がった! ずるりと高く一柱のごとく伸びる!
全ての間隙を縫うようにして、黒いヘドロが一直線に阿弥陀像へ向けて襲いかかった。いや、その下にいる龍円に!
「蛇来さん! 避けて!」
村岡が叫ぶのに、間一髪庚午が横へ飛ぶ! そのままヘドロは堂内中央の結界の中へ飛び込み、龍円の胸を突き刺した。
とたん、
雷轟の如き空也の咆哮が堂内に響き渡った。龍円を突いたヘドロが、バチバチと音を立てながら亀裂だらけになってゆく。
「なんだ……これ、は」
壁で呻く空也に、村岡が冷たい無表情を向けた。
「フェイクだ」
空也の目が、改めて中央の龍円へ向けられる。
人間の目で見れば、そこにあるのが人間ではないことは明らかだった。
中央結界の中には、巨大なマジックミラーが立てかけてある。そして、そのマジックミラーには、空也の黒ヘドロによって胸部を貫かれた野球のユニフォームが貼りつけられており、その鏡越し、割れた鏡面の向こう側に、自分の目指していた龍円の姿があると、空也はようよう気付いたのだった。
「姑息なマネを……!」
「だが引っかかる方が悪い。――縛」
村岡が呟いた瞬間、鏡の全体からぎゅるりと黒く細いものが伸び、ヘドロをがっちりと包みこんだ。
「これでもう逃げられんよ。諦めろ」
村岡が静かに終わりを宣言する。
だが、
「――愚かな女よ」
と、空也がにたりと笑った。
次の瞬間、空也の胸が割れ、中からぬるりと何かが湧いた。
人だ。人の形をしている。
僧、僧形だ。
僧の形をした発光体が、ずるりと中から湧き出でて、
血相を変えた村岡と庚午が、順に迎え撃とうとするもむなしく、全てをさらりとすり抜けて、破れたマジックミラーの裏にいた、龍円の中へと、
飛び込んだ。
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