海までの距離
浅野じゅんぺい
海までの距離
電車のドアが開いた瞬間、空気の色が変わった。
むっとする夏の湿気に、ひと筋の潮の匂いが混じる。
鼻の奥を刺すような、ほのかな塩っぽさ。
初めて来る町なのに、不意に「知っている」と思わせる匂いだった。
その懐かしさは、胸の奥に小さなざわめきを呼び起こす。落ち着かない、けれど手放せない感覚。
「東京とは、空気が違うな」
母の背に向かって呟いた。
けれど返事はなく、僕の声は潮風と一緒にどこかへ消えた。
「海! 見てみろ、すごいだろ!」
村上さんが肩を叩く。思わず一歩よろけるほどの力。
「男同士、もっと仲良くなろうぜ!」
笑顔も声も悪意のない明るさで満ちている。
けれど僕は笑えなかった。唇が動かない。
視線をそらすと、母がこちらを見て笑っていた。
その笑顔の奥に、針のような棘が隠れているのを、僕は見逃さなかった。
きっと村上さんは母の支えになっているのだろう。
でも僕は、その輪の外にいる。母が笑えば笑うほど、取り残されるような気がした。
泊まるのは村上さんの実家の空き家だという。
玄関を開けると、干した畳の乾いた匂いが鼻をかすめる。
軋む柱の音が、やけに大きく響いた。
縁側の向こうに見える海だけが、ここで唯一僕を拒まない存在のように思えた。
*
翌朝。
母と村上さんは親戚の家に行くと言って、早々に出かけていった。
「仲良くしなさいよ」
母の声は穏やかそうで、どこか張り詰めた音を含んでいた。
庭に出て、坂を下る。潮の香りが少しずつ濃くなる。
胸のもやも、ほんの少しだけ溶けていく気がした。
ふと目に入ったのは、錆びた看板のかかった小さな水族館兼喫茶店。
中からガラス越しに声がした。
「観光の人?」
髪を後ろで束ねた少女が、カウンターの奥からこちらを見ていた。
海を背にしているはずなのに、彼女の視線はほんの一瞬だけ、海を避けるように逸れた。
「営業、してるの?」と尋ねると、肩をすくめて口の端だけで笑う。
その笑顔は、海風のようにひやりとしていて、少し眩しかった。
名前は千紗。
地元の高校に通いながら、ここで一人でアルバイトをしているという。
「よかったら、手伝ってもいい?」
自分でも驚くほど自然に口から出た。
千紗は目を丸くして僕を見つめ、それから少しやわらかく笑った。
その瞬間、この夏が動き出した。
*
水槽のガラスを拭き、魚に餌をやる。
休憩時間には、喫茶の隅で冷たいジュースを飲みながら話す。
千紗は思ったことをはっきり言う子だった。
僕が難しい顔をしていると、「また変な顔してる」と笑う。
その笑いは鋭さを含んでいるのに、不思議と安心できた。
ある日、閉店間際に突然の夕立が降った。
扉の外の白いカーテンのような雨を眺めながら、千紗は「嫌な天気」と小さく呟いた。
僕が「海も雨だと違って見えるね」と言うと、彼女の顔に一瞬、影が差した。
その影はすぐに笑顔に塗り替えられたが、僕の胸には残った。
*
別の日、町の小さな夏祭りに一緒に行った。
夜店の灯りの下で、千紗は金魚すくいの網を器用に動かす。
「金魚、好き?」と聞くと、「好きじゃない。海の魚のほうがいい」と返ってきた。
でもその声はどこか嘘っぽくて、僕はそれ以上は聞かなかった。
*
夜。
窓を開けると、湿った空気と波の音が入り込む。
突然、下から怒鳴り声が響いた。
「勝手に決めないでって言ったでしょ!」
「俺だって気を使ってるんだよ!」
母と村上さんの声だった。
体が硬直し、息が浅くなる。
気づくと玄関を飛び出し、坂を駆け下りていた。
千紗のいるベンチへ向かう。
「来ると思った」
背中を向けたまま、千紗が言う。
「家にいたくなかった」
震える声に、「わかるよ」と返された。
しばらく波の音だけが続いた。
「……三年前、父が海で死んだの」
それが初めて聞く彼女の本当の声だった。
「逃げたかった。でも、逃げる場所なんて、どこにもなかった」
「海まで歩こうか」
裸足で砂浜に降りると、波が足元をそっと洗った。
「人って、変われると思う?」
「……変われる。でも、無理に変わらなくてもいい。前に進んでるなら」
千紗は少しだけ笑った。
*
夏の終わり。
母と村上さんは相変わらず距離を測るように会話している。
でも僕の中には、千紗と過ごした時間が確かに残っていた。
坂を下ってベンチに行くと、千紗が待っていた。
冷えたラムネを差し出し、「来年も来る?」と聞く。
「来たいと思ってる。きっと」
「じゃあ、バイバイは言わないね」
ビー玉が瓶の口で転がる音が、夏の終わりを静かに告げた。
帰りの電車の窓から、町と海が遠ざかる。
母と村上さんの声。千紗の笑顔。夜の海の音。
それらが僕の未来を照らす小さな灯りになる。
人は傷つきながらも、少しずつ変わっていく。
この夏、僕はその一歩を踏み出した。
そしてその一歩はきっと、海の向こうまで続いている。
海までの距離 浅野じゅんぺい @junpeynovel
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます