海までの距離

浅野じゅんぺい

海までの距離

電車のドアが開いた瞬間、空気の色が変わった。

むっとする夏の湿気に、ひと筋の潮の匂いが混じる。

鼻の奥を刺すような、ほのかな塩っぽさ。

初めて来る町なのに、不意に「知っている」と思わせる匂いだった。

その懐かしさは、胸の奥に小さなざわめきを呼び起こす。落ち着かない、けれど手放せない感覚。


「東京とは、空気が違うな」

母の背に向かって呟いた。

けれど返事はなく、僕の声は潮風と一緒にどこかへ消えた。


「海! 見てみろ、すごいだろ!」

村上さんが肩を叩く。思わず一歩よろけるほどの力。

「男同士、もっと仲良くなろうぜ!」

笑顔も声も悪意のない明るさで満ちている。

けれど僕は笑えなかった。唇が動かない。


視線をそらすと、母がこちらを見て笑っていた。

その笑顔の奥に、針のような棘が隠れているのを、僕は見逃さなかった。

きっと村上さんは母の支えになっているのだろう。

でも僕は、その輪の外にいる。母が笑えば笑うほど、取り残されるような気がした。


泊まるのは村上さんの実家の空き家だという。

玄関を開けると、干した畳の乾いた匂いが鼻をかすめる。

軋む柱の音が、やけに大きく響いた。

縁側の向こうに見える海だけが、ここで唯一僕を拒まない存在のように思えた。



翌朝。

母と村上さんは親戚の家に行くと言って、早々に出かけていった。

「仲良くしなさいよ」

母の声は穏やかそうで、どこか張り詰めた音を含んでいた。


庭に出て、坂を下る。潮の香りが少しずつ濃くなる。

胸のもやも、ほんの少しだけ溶けていく気がした。


ふと目に入ったのは、錆びた看板のかかった小さな水族館兼喫茶店。

中からガラス越しに声がした。


「観光の人?」

髪を後ろで束ねた少女が、カウンターの奥からこちらを見ていた。

海を背にしているはずなのに、彼女の視線はほんの一瞬だけ、海を避けるように逸れた。


「営業、してるの?」と尋ねると、肩をすくめて口の端だけで笑う。

その笑顔は、海風のようにひやりとしていて、少し眩しかった。


名前は千紗。

地元の高校に通いながら、ここで一人でアルバイトをしているという。


「よかったら、手伝ってもいい?」

自分でも驚くほど自然に口から出た。

千紗は目を丸くして僕を見つめ、それから少しやわらかく笑った。

その瞬間、この夏が動き出した。



水槽のガラスを拭き、魚に餌をやる。

休憩時間には、喫茶の隅で冷たいジュースを飲みながら話す。

千紗は思ったことをはっきり言う子だった。

僕が難しい顔をしていると、「また変な顔してる」と笑う。

その笑いは鋭さを含んでいるのに、不思議と安心できた。


ある日、閉店間際に突然の夕立が降った。

扉の外の白いカーテンのような雨を眺めながら、千紗は「嫌な天気」と小さく呟いた。

僕が「海も雨だと違って見えるね」と言うと、彼女の顔に一瞬、影が差した。

その影はすぐに笑顔に塗り替えられたが、僕の胸には残った。



別の日、町の小さな夏祭りに一緒に行った。

夜店の灯りの下で、千紗は金魚すくいの網を器用に動かす。

「金魚、好き?」と聞くと、「好きじゃない。海の魚のほうがいい」と返ってきた。

でもその声はどこか嘘っぽくて、僕はそれ以上は聞かなかった。



夜。

窓を開けると、湿った空気と波の音が入り込む。

突然、下から怒鳴り声が響いた。

「勝手に決めないでって言ったでしょ!」

「俺だって気を使ってるんだよ!」

母と村上さんの声だった。


体が硬直し、息が浅くなる。

気づくと玄関を飛び出し、坂を駆け下りていた。

千紗のいるベンチへ向かう。


「来ると思った」

背中を向けたまま、千紗が言う。

「家にいたくなかった」

震える声に、「わかるよ」と返された。


しばらく波の音だけが続いた。

「……三年前、父が海で死んだの」

それが初めて聞く彼女の本当の声だった。

「逃げたかった。でも、逃げる場所なんて、どこにもなかった」


「海まで歩こうか」

裸足で砂浜に降りると、波が足元をそっと洗った。

「人って、変われると思う?」

「……変われる。でも、無理に変わらなくてもいい。前に進んでるなら」

千紗は少しだけ笑った。



夏の終わり。

母と村上さんは相変わらず距離を測るように会話している。

でも僕の中には、千紗と過ごした時間が確かに残っていた。


坂を下ってベンチに行くと、千紗が待っていた。

冷えたラムネを差し出し、「来年も来る?」と聞く。

「来たいと思ってる。きっと」

「じゃあ、バイバイは言わないね」

ビー玉が瓶の口で転がる音が、夏の終わりを静かに告げた。


帰りの電車の窓から、町と海が遠ざかる。

母と村上さんの声。千紗の笑顔。夜の海の音。

それらが僕の未来を照らす小さな灯りになる。

人は傷つきながらも、少しずつ変わっていく。

この夏、僕はその一歩を踏み出した。

そしてその一歩はきっと、海の向こうまで続いている。




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海までの距離 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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