第23話 魏への心理戦

穏やかな春の陽光が、黄家の庭を優しく照らす昼下がり。

私は孔明と一緒に、客間で、魏から来たという客人を待っていた。李進の商人ネットワークを通じて、魏の将軍である曹仁の妻が、私に面会を求めてきたのだという。

(まさか、魏の将軍の奥方様が、私の化粧水を求めてくるなんて…!これは、千載一遇のチャンスじゃない!美の力で、魏の内部に亀裂を生じさせる…!孔明の言う通り、美は、時に武よりも国を動かす力を持つのかもしれないわ…!)

私の心の中で、そんなツッコミを入れながら、扉の向こうから聞こえる足音を待った。


やがて、客間の重い木戸が、ゆっくりと開かれる。

そこに立っていたのは、見慣れない華やかな衣を身につけた、品のある女性だった。その表情には、どこか切実な思いが宿っているのが見て取れた。

彼女は、数日間の旅路で疲労の色を隠しきれない従者たちを後ろに、一人、固い表情で門をくぐった。

(夫の顔に泥を塗るような真似ではないか…しかし、このままでは、宮廷の宴席で、他の奥方様たちに後れを取ってしまう…)

蜀に来るまでの道中、彼女は従者に何度も尋ねた。

「本当に、この化粧水は、そこまで素晴らしいものなのか?」

「は、奥様。噂は、呉の奥方様方の間では、もはや真実となっております」

従者の言葉は、彼女の背を押した。しかし、敵地に足を踏み入れる不安と、魏の宮廷での美を巡る熾烈な競争の間で、彼女の心は揺れ動いていた。

「…魏の、曹仁が妻でございます」

女性は、そう言って、深々と頭を下げた。


私は、曹仁の妻を丁重にもてなした。

妻は、呉の奥方たちの間で評判になっている化粧水を、どうしても手に入れたいと願っていることを、熱心に語った。

茶器を持つ彼女の手は、わずかに震えていた。

「呉の奥方様たちのお肌が、まるで春の朝露のように輝いていると、噂で聞きまして…この化粧水を、どうしても…」

妻の瞳には、化粧水への切実な思いが宿っていた。

私は、妻の言葉に、静かに微笑んだ。

「これは、ただの香油ではありません。この国の土と水、そして人々の平和への願いが込められています」

私がそう言うと、妻は、不思議そうな顔で、私をじっと見つめた。

(この人は、なぜ…そんなことを言うのだろう…?この香油は、ただの美の道具ではないというのか…?)

妻の視線は、茶器から私の手元へと移り、その表情には、動揺の色が浮かんでいた。


その時、孔明が、穏やかな口調で、しかし鋭く、妻を尋問し始めた。

「魏の兵士たちは、この冬、いかがお過ごしでしたか? 遠征が続き、さぞかし寒かったでしょう」

孔明の言葉に、妻は、一瞬、身をこわばらせた。

「…はい。冬の寒さは、兵士たちを苦しめておりました」

妻は、そう言って、うつむいた。

孔明は、さらに続けた。

「魏の将軍たちは、最近、どのような戦を望んでおられるか? それとも…穏やかな春を、望んでおられるか?」

孔明は、妻の言葉の端々から、魏の内部の情報を引き出していく。


月英は、曹仁の妻に、化粧水と、月英が作った綿の衣類を贈る。

「この衣類は、魏の兵士たちの冬の寒さを和らげるでしょう。どうか、お受け取りください」

月英が手渡した綿の衣類は、驚くほどに柔らかく、温かかった。その触感は、冬の寒さに慣れた彼女の手を、じんわりと温めていく。

妻は、深く感動した様子で、涙を流した。

「なぜ…敵である我が軍の兵士たちのことを…」

妻は、そう言って、言葉を詰まらせた。

「敵も、味方も、皆、同じ人間です。皆、故郷に帰ることを願っている。ただそれだけです」

私の言葉に、妻は、深く頷いた。

(この温かさが魏の兵士たちの心をも動かす…)

彼女の心は、美と温かさという、二つの力によって、揺さぶられていた。


帰路につく曹仁の妻は、蜀での温かいもてなしと、月英の贈り物に感銘を受け、魏へと戻っていく。

魏の宮廷では、曹仁の妻が持ち帰った、蜀の化粧水と綿の衣類が、奥方たちの間で評判になった。

「あら、奥様のお肌、以前にも増して艶やかですわね」

「ええ、この蜀の香油のおかげですわ。それに、この衣類ときたら…驚くほど温かいのよ」

「まあ、素敵!呉の奥方様よりも艶やかだわ!」

「あの蜀の衣は、呉の麻布よりも上質で、まるで春の陽だまりのようだとか…」

奥方たちは、曹仁の妻を羨望の眼差しで見ていた。彼女たちの間で、蜀の製品を巡る小さな派閥や競争心が生まれていた。

宮廷の宴席で、曹仁は、奥方たちの間で交わされる「蜀の製品」に関する噂を耳にし、苦笑いを浮かべる。

(美と温かさ…それだけで、これほどまでに女は騒ぐものか…)

しかし、その苦笑いの奥には、深い焦りが隠されていた。

妻は、夫である曹仁に、蜀の素晴らしさと、月英の知恵について熱心に語った。

「あなた、蜀の黄月英殿は、とても素晴らしい女性です。敵である我が軍の兵士たちのことまで気遣って…」

妻の言葉に、曹仁は、混乱し、蜀への警戒を強める一方で、月英への奇妙な感情を抱く。

(蜀の女は、なぜ、敵である我が軍の兵士たちのことを気遣うのだ…?孔明と月英の狙いは…?)

曹仁は、月英の知恵に、深い警戒を抱きつつも、その温かさに触れた妻の言葉に、心を揺さぶられていた。


その日の夜、曹仁は、妻が眠った後、一人で書斎に籠もっていた。

卓の上には、広げられた地図。その上を、彼の指がゆっくりと動く。

「美と温かさ…それが、戦場に何をもたらすというのだ…」

曹仁は、静かにそう呟いた。

彼は、美と温かさという、二つの力が、戦場心理に及ぼす可能性を考え始めていた。

(蜀の兵士たちは、あの女の知恵で、まるで獣のような力を手に入れた。そして、その女は、我が軍の兵士たちのことまで気遣う…孔明と月英の狙いは、我らの武力ではなく、心…心そのものかもしれぬ…)


その夜、月英は、孔明と一緒に、夜空を見上げていた。

「…これで、魏の中枢に、小さな種を植えられましたね」

孔明の言葉に、私は、静かに頷いた。

(美と温かさという、小さな種が、いつか魏という大きな国を揺るがす…)

孔明と月英の瞳には、未来への希望が輝いていた。

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