第3話 冬の山道、二人きりの時間
村での米の炊き方講習を終え、諸葛亮と私は黄家への帰り道を歩いていた。
冬の夕暮れは足早に訪れ、凍てつくような冷たい風が、私たちの頬を刺す。
村での温かい思い出を反芻しながら歩いていると、空が一度だけ深く唸り、白が音を連れて落ちてきた。
その直後、激しい吹雪が私たちを襲った。
雪はあっという間に積もり、視界を奪っていく。
「月英殿!こちらへ!」
孔明が私の腕を掴み、近くにあった古い小屋へと駆け込んだ。
小屋の中は、馬屋の跡だろうか。乾いた藁と獣脂のにおいが残り、板壁は夜気でしっとり冷えていた。
外では、風が唸り声を上げ、雪が壁を叩きつける音が響いている。
このままでは、凍え死んでしまう。
「火を…火を起こさなければ…」
私が焦っていると、孔明は、静かに言った。
「火種がない。薪をくべるものも…」
私は、ハッと我に返った。そうだ、ここは現代じゃない。ライターもマッチもない。
しかし、その時、村で米を炊いたときの記憶が、私の脳裏をよぎった。
「米のもみ殻!それと…紙があれば!」
私は、腰に巻いていた帯を解き、中から竹簡に挟んであった紙を取り出した。
孔明が不思議そうな顔で、その紙と、私の手から取った米のもみ殻を交互に見つめている。
彼は、佩刀の鍔で火打ち石をかち合わせ、乾いた紙繊維に火花を落とした。ほぐした麻糸ともみ殻を重ね、息を細く吹き込むと、橙が瞬く。
ぼう、と小さな火が燃え上がる。
私は、それをゆっくりと薪に燃え移らせた。
やがて、小屋の中に、焚き火の温かい光が灯った。
「…見事です。まさか、そのような方法があるとは…」
孔明が、感心したようにそう言った。
焚き火の爆ぜる音だけが、言葉の隙間を埋めた。
沈黙が、小屋の中に満ちる。
…何を話せばいいんだろう。
現代の話題を振っても、彼は知らない。かといって、歴史の話をしても、彼は未来を知らない。
私は、焚き火の炎を見つめながら、言葉を探していた。
その時、孔明が、ぽつりと語り始めた。
「私の師匠は、司馬徽という方です。彼は、私に多くの知恵を与えてくれました。しかし…彼は、決して私に答えを教えようとはしなかった。『自分で考えよ』と。その言葉は、今でも私の胸に深く刻まれています」
孔明が、こんな個人的な話をするなんて。私は驚きながら、彼の言葉に耳を傾けた。
「司馬徽は、私にこう言いました。『世の中のすべての事象には、必ず理(ことわり)がある。その理を読み解くことが、知恵である』と」
彼の瞳が、炎の光を反射してキラキラと輝いている。その真剣な眼差しに、私は、孔明という人物の、知られざる内面を垣間見たような気がした。
私は、いつの間にか、うとうとし始めていた。
「…眠ってはいけませんよ。風邪をひいてしまう」
孔明の声が、遠くから聞こえてくる。
彼の声に、安堵した私は、そのまま意識を手放した。
次に目が覚めると、私の肩には、孔明が着ていた上着がそっと掛けられていた。
肩に掛かった上着から、遅れて微かな体温と草いきれが移った。
胸の奥で小さな結び目がきゅっと固まる。
翌朝、吹雪は嘘のように晴れていた。
小屋の外に出ると、銀世界が広がっている。
私たちは、並んで山道を歩き始めた。
「…あの、上着…ありがとうございました」
私がそう言うと、孔明は、穏やかな笑みで頷いた。
「いえ。私たちがこの時代に生まれ、この世界で生きる。それにも、必ず理(ことわり)があるはずです」
彼の言葉が、私に深く突き刺さる。
…この世界に転生したことにも、意味がある。
私は、彼との間に生まれた、静かで温かい空気に、胸を満たしていた。
村に戻ると、子どもたちが、小屋で使ったもみ殻を見つけて、歓声を上げていた。
「お姉ちゃんと孔明さま、雪の神さまに仲直りしてもらったの?」
私は、思わずむせてしまった。孔明は、そんな子どもの言葉に、ただ苦笑して、別の話題を振ることで話を逸らした。
もみ殻は、焚き付けに使われることで、この村の冬の朝を、少しだけ温かくしてくれたのだ。
そして、そのもみ殻を、孔明が持ってきてくれた。
…彼と私の、出会いと協力。
それが、この村の、この世界の、未来を変える第一歩になるのかもしれない。
私は、彼の横顔を見つめながら、そう思った。
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