一國志演義 黄月英伝 ― 転生東大女子が、諸葛亮と恋に落ちたらどうなるか? ―

五平

第1話 転生、黄月英

「…え、なんで私、黄月英になってるの!?」

それが、私の転生第一声だった。

自分が黄月英だと悟った瞬間、頭の奥が焼けつくように熱くなり、父母の顔や屋敷の間取り、仕える者たちの名まで――洪水のように記憶が押し寄せた。

……そうだ、私はたしか東大の図書館で『三国志演義』を読んでいた。あのとき、妙に古めかしい声が耳元で囁いたかと思うと、視界が真っ白に弾け――そして今、私は見知らぬ屋敷のベッドに横たわっている。


しばらくして、目を開けた私は――見知らぬ天井を見上げていた。

木製の天井には、太い梁がむき出しになっている。鳥のさえずりが聞こえ、土と草の匂いが鼻をくすぐる。

…え、どこここ?

畳や板床の感触ではなく、足裏に感じるのは木の床のひんやりとした感触。油や干し草、そして外から入る風の土臭い匂い。全てがリアルすぎる。

混乱する頭で、周りを見回した。

薄暗い部屋の隅には、見たこともない古風な家具が並んでいる。私は、どうやら古い時代の屋敷にいるらしい。

夢…?いや、違う。この匂い、肌に触れる空気の冷たさ、全てが鮮明すぎる。

ゆっくりと身体を起こすと、足元から滑り落ちた絹の布が、ひらりと床に落ちた。私は今、簡素な、しかし上質な寝間着を身につけている。

その瞬間、部屋の扉が静かに開いた。


「お目覚めでございますか、お嬢様」


そこに立っていたのは、見慣れない衣装を身につけた若い女性だった。

お嬢様?その聞き慣れない呼び方に、私はさらに混乱を深める。

「…あの、ここは?」

「ここは黄家の屋敷でございます。お嬢様、何かございましたか?」

黄家…?その言葉が、私の脳内に、一つの雷を落とした。

まさか、とは思ったが、この状況、そしてこの屋敷の雰囲気。

私は急いで、部屋の隅にあった磨かれた銅鏡に駆け寄った。

そこに映っていたのは、見慣れた自分の顔ではなかった。


そこにいたのは、艶やかな黒髪を肩まで垂らした、線の細い、そして驚くほど美しい女性だった。

「…うそ」

思わず声が漏れる。頬を掴むと、鏡の中の女性も同じように掴んだ。肌は滑らかで、瑞々しい。

(え、これ私?鏡よ鏡、世界一美しいのは?…って、お前かい!いや、待て、私の顔じゃない!あの時の平凡な私の顔はどこ行った?え、まって、これって、もしかして、もしかして…!)

東大女子だった私の、平凡な顔とは似ても似つかない。

いや、待って。黄家…お嬢様…。

この時代、この呼び方、そしてこの顔――


息が詰まり、私は思わず膝をついた。

これは夢じゃない。この世界で私は、間違いなく黄月英として生きている……!

…嘘でしょ、いくらなんでもできすぎだ。まるで、最近流行りの異世界転生小説みたいじゃないか。しかも、よりによって黄月英。あの諸葛孔明の妻になる、といわれる、あの黄月英に?

いやいや、落ち着け、落ち着け私。この記憶は…悪夢?いや、違う。この鮮明さは、本物だ。

そう自分に言い聞かせ、大きく息を吸い込んだ。


「月英、起きたか。そろそろ夕餉の時間だ」


部屋の外から聞こえてきたのは、深みのある、しかし優しい男性の声。

そして、その声に導かれるようにして入ってきた男性を見て、私は息を呑んだ。

白く長い髭を蓄え、仙人のような雰囲気を纏うその男性。

…ああ、このヒゲは…仙人系か。やだ、なんか、シャンプーのCMみたい。もしコンディショナーを持ち込めたら、あの髭を三つ編みにしてリボン結びたい…いや、やめろ私!

思考が暴走しかけるのを、私は無理やり食い止めた。

「父上」

女性の使用人が、その男性に頭を下げた。

父上…?

いや、待って、この時代に、この風貌で、黄家当主…。

「…黄承彦…?」

思わず口から漏れた言葉に、男性は優しく微笑んだ。

「どうした、月英。まだ眠いのか?」

ああ、やっぱり。黄承彦だ。諸葛亮の義父であり、この黄月英の父。

…ってことは、やっぱり私は、本当に黄月英になってるのか。

私の頭は、完全にパンク状態だった。


夕食の席で、黄承彦は、まるで当たり前のように話しかけてきた。

「近頃、襄陽の伏龍が、我々の屋敷を訪れたいと申しておる。若いのにあの聡明さ…将来はきっと、世を動かす人物になろう」

ふくりゅう…?

その聞き慣れない言葉に、私の思考回路は一瞬フリーズした。

(…いや、待て待て、伏龍…って、それ諸葛亮の字じゃん!え、つまり、私の未来の旦那様候補ってこと!?まだ会ってもないのに旦那って、いやいや落ち着け私!でも、もし結婚したら、あの歴史書の「黄月英=才女」の部分が全部私になるの?え、やばくない?全国模試1位どころじゃない、三国志模試世界ランク1位だよ!?)

私の頭の中で、まるで緊急警報のように、現代の知識が鳴り響き始める。

伏龍、諸葛孔明…。

『三国志』の物語を、これから動かしていくであろう、天才軍師。

その人物が、私の屋敷に、私に会いに来る?

いやいや、待って、いくら何でも展開が早すぎる。まるで…まるでこれは、物語の始まりそのものじゃないか。


その日の夕食は、味がしなかった。

いや、正確には、美味しくなかった。

この時代の米、ものすごく硬い。ボソボソしてて、全然美味しくない。

(歯が折れたらどうすんの!?歯医者ないんだよここ!私、虫歯で死ぬ黄月英とか絶対イヤ!)

いや、でも、よく考えたらそうだよな。炊飯器もないし、品種改良もされてないし…。

…え、待って?

私の頭に、一つのアイデアが閃いた。

この時代、米が美味しくない。でも、私は現代の知識を持っている。

品種改良の知識、肥料の知識、効率的な栽培方法の知識…。

これを使えば、この世界の食生活を劇的に改善できるんじゃないか?

いや、米だけじゃない。衛生、医療、建築技術、インフラ整備…。

私は東大で、最新の学問を学んできた。その知識を使えば、この時代を、この世界を、もっと豊かにできる。

そうか…私は、ただの転生者じゃない。この世界の未来を変える、切り札になりうるんだ。

そう気づいた瞬間、私の心に、確固たる決意が芽生えた。


その夜は、ほとんど眠れなかった。

明日は、諸葛亮が来る。

…うわー、緊張する。

いや、それよりも、あの伝説の天才軍師が、どんな人なのか。

歴史書には、「身長八尺、姿態甚だ偉なり」と書かれている。つまり、長身で立派な風貌。

でも、孔明は、結婚相手として黄月英を選んだ。ということは…もしかして、私の外見を見て、気に入ってくれたり…?

いやいや、ありえない。孔明は、そんな浅はかな人じゃない。

きっと、私の内面を見てくれたんだ。

…って、勝手に妄想するな私!

そう自分にツッコミを入れながら、私は朝を迎えた。


その日、庭を散策していると、涼やかな風が、私の頬を撫でた。

その風に誘われるように、視線を庭の奥へと向ける。

そこに、彼はいた。


木漏れ日の中で静かに庭を眺めている青年。

…顔は知らないはずなのに、なぜか「知っている」と思ってしまう。

黄月英の記憶が、彼の名を告げていた。

すらりとした長身、整った顔立ち、涼やかな目元と知性を湛えた瞳――

ああ、これが諸葛亮。


「…イケメン…って、これ孔明!?」

思わず口から出そうになった言葉を、私は必死で飲み込んだ。

歴史書には、彼の知略については書かれているが、まさかこんな…こんな、現代にいても通用するレベルのイケメンだなんて、聞いてない!

(ちょっと待って、史実の孔明って脳内では文系メガネ男子だったのに、目の前のこれは朝ドラの主役級じゃん!NHKさん呼んで!)

いや待て、歴史書は顔を褒めないから、まさか…イケメン補正ってやつか?

いや、もしかしたら、史実の孔明は、もっと老け顔だったのかもしれない。

でも、ここにいる彼は、明らかに爽やか青年だ。

…やばい、これは本当に、恋に落ちるやつじゃないか。

私の頭の中は、完全に恋愛モードへと切り替わっていた。


「あなたが、黄承彦殿のご息女でいらっしゃいますか?」


彼は、静かに、しかし優しい声で私に話しかけてきた。

私は、慌てて頭を下げ、自己紹介をした。

「は、はい。黄月英と申します」

すると彼は、にこやかに微笑んだ。

「私は諸葛亮。字を孔明と申します。あなたにお会いできて、光栄に思います」

孔明…。

私の心臓は、再び大きく鼓動を始めた。


その日の夜、私は自室の窓から、満月を眺めていた。

手に持った米の粒は、硬くてボソボソしている。

でも、今の私には、この米が、未来への鍵に見えた。

この世界を変えられる、私の力。

そして、その先には、あの諸葛孔明という男がいる。

彼の知略と、私の現代知識が組み合わされば、きっと…。


私は、静かに笑った。

「孔明……あなたの未来は、私が変えてあげる

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る