『膝に残る針の音』が忘れられない夜
夜には儀式がある。いつもなら硝煙を熱い湯で流し落とし、指二本の酒で喉を湿し、掌の上で映像の海を開くのが順だてである。だが今宵は違う。小生はスマートフォンに触れぬことにした。何も観ない夜が、ときに人を静かに痛めることを、小生は知っている。
邸の梁には、相変わらず烏がいる。名をカノジョと呼ぶ。賢い鳥は沈黙で人間を量る。カノジョは小生の肩に一度だけ降り、首筋を軽く啄んで、また高いところへ戻った。生存の点呼はそれで足りる。
諸君はペットを飼ったことがあるだろうか。
小生は、かつて猫と暮らしていた。利口で、かわいげのある、よくできた生き物だった。風邪を引いた夜も、寂しさが骨の髄まで沁み込む夕方も、不安で胸がざわめく早朝も、涙が熱を帯びてこぼれる瞬間も、奴は決まって膝に丸くなり、喉を鳴らした。あの音はもはや音ではない。体温が震えて空気を撫でる、ちいさな地鳴りだ。世界にできたほころびを、一時的に縫い合わせる針の連続音――小生はあれをそう呼ぶことにしている。
インフルエンザに罹った折のことを覚えている。熱に浮かされ、布団という牢獄にじっとしていられなくなった。悪夢が寝具の裏側で増殖し、孤独が膝の皿までひやりと侵入してくる。
小生は耐えられなくなって、ソファーにうずくまりイヤホンを付けた。
紫色のiPodからはYUIの歌声が小生を癒そうと愛について持論を提唱し、部屋の隅という隅には愛おしいぬいぐるみで埋め尽くした。来るはずのない敵を警戒し視線を回しても、恐怖は退かない。
そのとき、膝に重みが落ちた。ゴロゴロゴロゴロ、猫は音楽より静かな歌で、小生を現世へ結び直した。喉から洩れる低い振動が、骨の内側の震えと干渉して、悪夢の波形を打ち消していく。きっと猫の発するあの音は、悪夢の持つ低周波と対を成す波形なのかもしれない。
看護とは、かくも簡潔な技術でありうるのだと、小生はそこで学んだ。
我が家は完全室内であった。どれほど窓の向こうに秋の匂いが満ちようとも、小生は錠を開けない。猫は猫で、外気の新しさに尾を小刻みに叩きつける。飛び出したい気配が全身から滲む。だが、させない。させたくない。理由がある。
昔、小生はひとつ大きな過ちを犯した。
朝、玄関にダンボールが置かれていた。中に子猫が二匹。捨てられたのだろう。幼かった小生は、彼らに「にゃんにゃん」と「にょんにょん」という安直な名を与え、親に黙って外で世話をした。水、餌、毛布。子どもなりの最善であったつもりだ。
一週間後、二匹は死んだ。血を吐き、苦しみ、なすすべもなく。今にして思えば、見つけた初日には既に殺虫剤でもかけられていたのだろう。髭に白い泡が付着していた。盲点だった。小生は、世界の全員が猫を好きだと、勝手に信じ込んでいた。いや、小生こそが、自分を「猫好き」だと都合よく思い込んでいた。本当に好きなら、本当に大切なら、覚悟を持って室内へ迎え入れ、責任の重みに背骨を合わせるべきだった。あの頃の小生には、判断も、守るという意識も、決定的に欠けていた。
それ以来、「好き」という単語は重さを得た。好きは感情では足りない。好きとは、面倒を見ることであり、環境を整えることであり、危険から遠ざけることであり、ときに「出たい」という願いに首を振る技術である。自由を奪うのではない。奪われかねない命を守るために、窓は閉ざすのだ。
思い込みは時に刃より鋭い。あの二匹にとって、小生の善意は盾にならなかった。世には悪意も無関心も、たっぷりと存在する。玄関のダンボールは、世界の温度を小生に教えた。寒かった。だから小生は、家の中を可能なかぎり暖かくする術を覚えた。鍵の掛け方、網戸の補強、室温の管理、水の交換時刻、餌皿の洗い方――細部の整えは、祈りの別名である。
仕事柄、小生は多くを失い、多くを奪ってきた。「ボス」「殺し屋」「社会の敵」。札はいつだって軽い。軽い札ほど、早く飛ぶ。だが、札の軽さと命の重さは、まったく別の秤に載る。小生は殺した相手を「ゴミ」だと思ったことがない。彼らもまた誰かの大切な存在であったろう。小生はただ職務として、冷えた手つきで引き金を絞っただけである。そこに叙情を置かないのは、情けではない。せめての礼儀だ。
――礼儀。猫は礼儀を持っていた。出入口の前で立ち止まり、こちらを振り返る。視線で「よいか」と問う。小生が頷けば進み、首を振れば引き返す。合意という言葉を知らぬのに、合意の作法を知っていた。彼の喉の針音は、小生へ向けられた礼儀の形でもあったのだろう。
今宵、小生は何も観ない。スクリーンの光は、時に感情を過剰に整えてしまう。整えられては困る類の寂しさがある。整えず、ただ在る。そういう夜が人間には要る。いや、小生は人間ではないが……。
書斎の奥で、小生は古い餌皿を取り出した。捨てられずに残してある。縁に小さな欠け。そこから水が漏れたことは一度もない。布で拭うと、かすかな獣脂の記憶が指に戻る。これを抱えて、どれだけ錠前の音を聞いたか。秋の匂いが窓を叩くたび、鍵を確かめ、尾の打つリズムを背で聞いた。
部屋の隅には毛布の箱も残っている。たたみ直すと、布の端から陽だまりの匂いがわずかに立ちのぼる。嗅覚は無駄で正確だ。亡者は匂いで帰る。小生の胸に、膝の重みがふいに乗った。錯覚でよい。錯覚の正確さが、今夜は救いだ。
諸君に頼みたい。もし命を迎えるなら、迎えるという行為の重みごと抱きしめてほしい。拾ったのなら、独りで抱え込まず、家族や獣医、保護団体に助けを乞うてほしい。外の世界は、こちらの善意を前提にできるほど優しくはない。だからこそ、われわれが優しくあるしかないのだ。
好きであることを、どうか引き受けてほしい。引き受けるとは、鍵をかける手の微細な力加減であり、皿を洗う水温であり、最期のときに迷わず抱きとめる覚悟の温度である。
カノジョが高みから降りてきて、餌皿の縁を嘴で二度、こつ、こつと叩く。点呼の延長。生者の確認。小生はそれに軽く頷き、皿を布に戻す。
灯りを落とす前、窓の鍵をひとつずつ撫でて巡回する。錠前は異状なし。風はまだ秋の手前にいる。ベッドに仰向けになると、胸の上に空白ができた。そこに彼がいた季節、小生は夜にもっと重みを感じていた。重みは負担ではなかった。重みは意味だった。
目を閉じる。暗闇のなかで、針が布を縫う音が聞こえる気がする。喉の奥で鳴る低い律動。赦しにも似た合図。過ちを二度と繰り返すなという、簡潔で冷たい誓文。小生はその文に署名する。今夜は銃の整備をしない。金属の呼吸を整えるより先に、記憶のほつれを指でなぞる。
好きは、責任である。責任は、夜の作法である。作法は、静かな強さである。
闇が部屋を均一に満たす。カノジョが胸に移り、羽音が心拍と重なる。小生は眠る。
膝の上の重みは、今も確かに在る――そう信じて、静かに、確かに、眠るのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます