ビート板を売る女
伊藤優作
ビート板を売る女
東京に来てから四度目の離職ということになる。数年前、自分は故郷を捨てることができたと思っていたが、いまや東京が自分を捨てる準備をはじめたことに彼女は気づいている。そういうわけでいよいよ彼女は過去を、すべての過去をかえりみらずにはいられないところに追い込まれた。そして大切なことを見出したのだ。それはビート板のことだ。
十八歳の時、村で一番大きな貯蔵樽がひっくり返った。出荷間近だった酒はこの世とあの世を隔てるダムが決壊したかのように溢れ出し、たちまち村全体を飲み込んでいった。多くの老人たち、老人とともにやがて老人になっていく息子たち、娘たち、さらにはその孫たちのもとへ、突然とろりとした透明が襲来する。わずかな粘度にもかかわらず脚がもつれ、その味を少しばかり味わってしまったがために抵抗力を失った村人たちは、陶然と窒息の凄まじい傾斜を滑り落ちていった。
たまたま倉庫に用のあった彼女は、棚の表に目立たないよう縮こまっていたビート板に手を伸ばすことができた。どうしてそんなものがそこにあったのかを考える余裕はなかった。ほとんどすべてが崩れ去り、頭から彼女を押しつぶしてしまうところだったのだ。ギリギリのところで倉庫から脱出すると、ビート板はそのまま酒の海の表へ彼女を導いていった。しばらくしてうねりがおさまると、彼女のはるか下に瓦葺きの屋根や、沈んだままあがってこない村人たちの姿が鮮明に見えてきた。彼らは夢の中に漂っているようにも見えた。桃源郷はこのようにして身を隠しているのだろうか……といったことをぼんやり思っていたが、不意にアルコールへの恐怖が脳裏によみがえった。目鼻や口の危険は理解していたのでこれ以上海へ顔を浸さないよう慎重にしていたが、それでも意識がじわじわと融解していくのがわかった。下半身にも粘膜組織があることに気づいた瞬間、まるで呪術の釘を打ち込まれたような痛みがこめかみを襲った。二日酔いに閉じ込められたみたいだった。渾身の力を振り絞り脚をバタバタさせ、一番近くに突き出していた山の木に掴まり、よじ登った。どうしたことか、ビート板は彼女の手を離れてもなお、彼女の元にプカプカとどまり続けた。何度か嘔吐しつつも、潮が引き、助けがやってくるまで、彼女はずっとそうしていた。ビート板はゆっくりと落ち着いていく水位にあわせ、しかしいつまでも彼女が掴まった木のそばに漂っていたのである。ビート板を置き去りにしたまま彼女が東京に出てきたのはそれから数日後のことだ。
二十歳になるまで、東京の夜は顔なじみのように彼女を痛めつけたが、それはあの痛みではなかった気がした。その効用も薄れてきたことから就職と離職の数年がはじまったのだが、それとともにこめかみの痛みがぶり返してきた。こうして振り返ってみると、自分は二日酔いに閉じ込められたまま一度も明日に辿り着いたことがないような気がした。そのとき彼女はビート板のことを思い出したのである。
そういうわけで彼女はビート板を売りはじめた。渋谷の路上でひとりビート板を売ろうとすることより彼女である行為がほかにあるだろうか。
八ヶ月後に彼女は死んだ。餓死であり、決して急性アルコール中毒でも溺死でもなかった。それはこのことを真に讃え、誇る資格のあるただひとりの人間の死だった。わたしに彼女を讃える資格はもちろんないが、彼女のことを思い出す資格については、これまでに死んだすべてのものたち、いま生きているすべてのものたち、これから生まれてくるすべてのものたち、これまでもこれからも生まれてくることのないすべてのものたち、すなわちすべてのものたちにあるはずだった。そしてこれが、わたしが伝えうるただひとつのことだ。
ビート板を売る女 伊藤優作 @Itou_Cocoon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます