壊れたロマンチスト

esErveandnowRTAreali

エピソード全文

図書館の資料室。誰もいない静寂の中、彼は文学全集を何となく手に取った。


ページの間に、一枚の紙が挟まっていた。

茶色く変色したレポート用紙。ボールペンで殴り書きされた詩。> 「夕焼けに脳を晒してやりたいの

まともに生きてるふり、飽きたから」読んだ瞬間、胸を殴られた気がした。

これは詩じゃない、告白でもない、…呪いだ。


でも、彼は惚れた。

その詩を書いた“誰か”に。彼は同じような詩が他の本にも挟まれていないか、探し始めた。


詩は全部で6つあった。

書体は乱れているけど、同じ筆跡。同じ狂気。同じ痛み。


サインのように、小さく「A.N」と書かれていた。講義中、彼はそれを見つけた。

無表情で、ずっとノートに何かを書き続ける女。


誰とも目を合わせず、話さず、でも手だけが止まらない。


あの文字に似ていた。

詩に刻まれていた線と、彼女の指先から生まれる線が。


彼は確信した。

「君が、あの詩の――」彼は講義が終わるのを待った。


学生たちが次々に席を立つ中、彼女だけが最後まで座っていた。

ノートを閉じるでもなく、スマホも触らず、ただ静かにペンを走らせていた。


勇気を出して、彼は近づいた。「君が…あの詩を書いたんだよね?」


女は顔を上げた。無表情のまま、まばたきもせず彼を見た。


「それ、褒めてるの? それとも…通報したいの?」言葉のトーンは冷たくなかった。

むしろ、からかうようでもなく、ただ純粋な確認だった。


彼は思わず笑った。


「通報はしない。…惚れただけ。」


女はわずかに眉をひそめて、こう言った。


「……そういうの、一番危ないよ。」彼女が席を立ったあと、机の上には一枚の紙が残されていた。

印刷ではなく、黒いインクのようなもので手書きされた詩。震えるような文字だったが、意味はやけに鮮明だった。「脳を焼くのは愛じゃない

でも私は愛で脳を焼いた」僕はそれを読むたび、笑いそうになって、でもなぜか喉が詰まった。

妙にうまい。じゃなくて、怖いほど誠実だった。

彼女の筆圧、かすれ、余白までもが詩だった。


講義は終わり、教室は空っぽになった。

その紙を握ったまま、僕は席を立てなかった。彼女の名前も知らない。

でも、ノートに書き続ける姿を、僕は毎回見ていた。

講義を聞いてない、わけじゃない。彼女は講義より先に何かを聞いていた。たとえば自分の中に住む、誰かの声を。


僕はその日、彼女の後をつけてしまった。

足音を殺して、図書館の奥に入る彼女を見てしまった。彼女は棚の前に立ち尽くしていた。

そこには、【詩集】のラベルがあった。

でも彼女が手にしたのは──哲学の棚の、封筒に入った何かだった。


それは図書館の分類棚に置かれるものではない。

本ですらない。なのに、図書館の人間は黙認していた。

いや、もしかして、誰も気づいていないのか?封筒を開き、彼女はまた、あの詩を書き始めた。

彼女のノートは、きっと誰にも見せられない種類の記録なのだ。

もしくは、彼女自身も読めない“いかれた詩”の正体なのだ。あれは偶然じゃなかった。

彼女がノートを置いたまま席を外したのは、三度目の講義だった。

僕は視線を泳がせながら、その机へと歩いた。

誰にも見られてないことを確認して──ノートを開いた。──1ページ目。

そこには日付も題名もなかった。代わりに、赤い文字でこうあった。> 「このノートを開いたあなたへ。

私はあなたのことを知りません。

でも、あなたが誰かを狂おしく好きになったことがあるなら、

たぶん話せる気がします。」僕はそこで手を止めた。

彼女は誰かに語りかけるように、自分の内側を記録していた。


2ページ目、3ページ目。詩が連なっていた。

たとえば──> 「骨の奥で笑っていた

私の声に気づかないあなたが

今日もやさしくて

だから私は黙って溶けていた」


> 「誰かを愛するたび、私はいなくなっていく

愛してもらえないたび、私は濃くなっていく

どちらが本当の私ですか」ノートは詩ではなく、告白だった。

他人には見せられない、でも誰かに届けたくて仕方がない──

そんな、冷たくて熱い矛盾のかたまり。


そのとき、気配がして、僕はノートを閉じた。

彼女が戻ってきた。僕に何も言わず、座った。

そして静かに、ノートの続きを書き始めた。あの赤い文字は、たぶん僕に向けて書かれていた。

彼女は“読まれること”を知っていた。

いや、むしろ望んでいたのかもしれない。


僕はその日から、講義ノートを取るのをやめた。

代わりに彼女の詩を、記憶で書き写すようになった。「名前、ありますか?」


思わず口から出てしまった。

講義の後、彼女がノートを閉じて立ち上がろうとしたその瞬間。

僕の声に、彼女は少しだけ眉を動かした。


無言のまま数秒。

彼女はゆっくりと、口を開いた。「……あるけど、あげたことはない」


「じゃあ、もらえますか」


彼女は少し考えるふうに目を伏せて、ポケットから紙片を取り出した。

何かが書いてある。ボールペンの走った跡が微かに透けて見えた。


渡された紙には、たった一言──


> 「ヲワリ」「これ、名前?」


「“私の中の名前”。本当のじゃない。たぶん名前の、手前の名前」


彼女はそう言って、また無表情に戻った。

けれどその目だけが、何かを試すように僕を見ていた。


ヲワリ。

カタカナで書かれた、その音。

それは終わりを意味しているのに、なぜか始まりのようだった。「じゃあ……僕は“はじまり”って呼ばれてもいいですか」


ふと出た言葉だった。

彼女は答えなかった。でも、笑ったように見えた。

目だけが。いや、目しか。


その日から、彼女は僕を「はじまり」と呼ぶようになった。

誰にも聞こえないような声で。そのたび、僕は意味のわからない高揚と焦燥に包まれた。


僕は彼女の名前を知った。

けれどそれは、本当の名前じゃない。

彼女の“いかれた詩”の中にしか存在しない、幻の名前。


それでも僕は、その名前を信じることにした。

ヲワリと呼ばれるその人を、少しずつ少しずつ好きになっていた。ノートが燃やされたのは、金曜日だった。

朝の講義で、彼女がノートを取り出そうとして──

真っ黒に焦げた端っこだけが、鞄から落ちた。


僕は言葉を失った。

彼女は、何も言わなかった。

ただ、机に肘をついて、頬杖をついて、いつもと同じ顔で前を見ていた。講義中、僕は何度も彼女の横顔を盗み見た。

目は動かず、口も開かない。

なのに指だけが、机の上をカリカリと引っ掻いていた。


チャイムが鳴る。

彼女は無言で立ち上がった。僕は追った。

そして図書館の裏、ゴミ置き場の前で、彼女は立ち止まった。「犯人、知ってるの」


「……誰?」


「先生」


その声は、驚くほど静かで、熱かった。

「私のノート見たって言ってた。気味が悪いって。学校にふさわしくないって。燃やしたら“救われる”って言ってた」僕は拳を握った。

「俺、何かできること……」


「あるよ」


彼女は、僕を見た。

その目に、詩はなかった。怒りも涙もなかった。

ただ、感情という感情を全部どこかへ預けてきたみたいな顔だった。


「あなたが、私のノートを、もう一度書いて。覚えてるでしょう?」──詩を書き写す。僕が。

彼女の代わりに。


僕はうなずいた。


「書くよ。全部、思い出すよ」


彼女はそれに微笑んだ。

初めて、心から笑った気がした。

僕はこの日を、きっと一生忘れない。

ノートが燃えてしまったその日を──


彼女の沈黙が、ようやく声になった日を。翌朝、彼女は大学にいなかった。

講義にも、図書館にも。

僕は彼女のことを「探す」ということができなかった。

なぜなら、僕は彼女の名前を、まだ知らなかったから。彼女の居場所を知るすべもないまま、

ただ、僕は毎晩、机に向かった。

ノートを開き、彼女の詩を思い出す。

思い出して、書く。

手が覚えているリズムで。

耳が覚えている声の抑揚で。「この世界に愛された記憶がない」

「だから私は、愛する方法を、憎しみから逆算して学んだ」

「それを、間違いと言うなら——もう一度、間違いたい」彼女の詩は、時に残酷で、時に誰よりも優しかった。

破られたノートの中から救い上げた言葉たちが、

新しいページに並ぶたび、僕の中で彼女の声が息を吹き返していく。そうして数日が過ぎたある夜、

僕の部屋のポストに、封筒が入っていた。

宛名も差出人も書かれていない。

けれど、中に入っていたのは——「名前なんて、いらない。

 でも、君のノートは、読んでるよ。

 今度は、君の詩を。」僕は、またペンを取った。

今度は、彼女のじゃなくて、自分の詩を。

彼女に、届くかわからない手紙として。それだけだった。


でも、それでよかった。

それ以上を求めるのは、違う気がした。


あれから彼女に会っていない。

ノートも、笑顔も、声も──何も。


だけど僕は、もう一度詩を書き始めている。

彼女がどこかで読んでくれるような気がして。

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壊れたロマンチスト esErveandnowRTAreali @atamaokasii

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