第14話

 その日は就職先の内定式で、楓と行動をともにしていた。同じ自治体に就職することが決まっているので、一緒に行くことにしたのだ。

 初対面の人間ばかりの中二人で行動するのはどうかと思われたが、楓が一切気にしていない様子だったのでスルー。


 昔から楓からは、「空気なんて死んでも読むか」という気概を感じることが多くある。だから空気を読まずに恵人と接点を持とうとしたし、空気を読まず恵人を輪の中に入れようとした。

 結果的にうまくいくのが楓らしいが、楓でなければ恐らく失敗しているだろう。

 運も持ち合わせているという意味で、恵人は楓を尊敬していた。


「内定式だけど、あんまり実感湧かないね」


 内定式が行われる会場に向かいながら、スーツ姿の楓が言う。スカートスタイルのスーツではなく、パンツスタイルのスーツ。楓のスタイルの良さがより際立っていて、非常に似合っていた。


「何やるかわかんないしな」


 内定式の会場はなぜか区立の博物館だった。その区の歴史を振り返ることができる展示物が並び、区立のプラネタリウムもある謎の施設。面接を受ける際の街歩きで訪れたことがあったので、恵人は二度目だった。


「来たことあるって言ってたよね?」

「うん、一回だけ」

「どうだった?」

「……プラネタリウムは頑張ってた」

「……なるほど」


 他愛もない話をしていると、会場である建物が見えてきた。


「おはようございます。あちらが受付になります」


 係の職員からそう案内され、二人は会場へと足を踏み入れる。席はまだ半分も埋まっておらず、二人はそれなりに早い到着だったらしい。


「じゃあまた後で」

「うん」


 内定式は滞りなく進んでいった。

 お偉い方々の挨拶を聞いて、軽くオリエンテーションをして、周りの人とコミュニケーションを取って。

 そんな当たり障りのない催しが次々と行われていく。

 途中何故か施設を見学する時間が与えられたが、直近に一度見てしまっているので楓の反応を見る係に回った。

プラネタリウムは休館日のため見られず、楓は悔しがっていたのでまた今度見に行こうと言うと妙に喜んでいた。そんなに喜ぶものではないと思うのだが……。



内定式が終わり、恵人と楓は再び並んで歩いていた。

辺りはすっかり暗くなり、駅までの道を街灯が照らす。


「あ~終わった~」


 伸びをしながら、楓が間の抜けた声を出した。

そんな楓を見て口を開いたのは恵人。


「内定式終えて実感湧いた?」

「湧かない」


 やはりまだ就職するという実感は湧かないらしい。実際恵人もそうだ。あと半年も先のことをいまいち想像できない。

 きっと働き始めてからじゃないと実感できないし、働くとはそういうことを指すのだろう。


「そういえばよかったの? 話してた子たちと一緒に帰らなくて」


 楓は持ち前のコミュニケーション能力を活かし、近くに座っていた未来の同期とすぐに仲良くなっていた。恵人はというと、まあ、言わなくてもわかるだろう。


「ああ、いいのいいの。どうせ今日だけだろうしね」

「身も蓋もないことを……」

「ああいう子たちね、その日の居場所ができればいいのよ。また会ったら、『あの日喋ったよね?覚えてる?』でいいしね」

「リアルすぎて聞きたくない……」


 楓のおかげで学生生活が色づいたのは間違いないが、楓のせいで幻想を打ち砕かれたことも何度もある。良くも悪くも現実を教えてくれるのだ。


「それに、折原と一緒に帰りたかったし」

「え? ああ、うん。暗いし送るよ」

「……はあ」 

「なんでため息つかれた?」


 不可解なやり取りをして、二人は電車に乗り込む。ここから楓と恵人の最寄りまでは一時間ほど。

 電車の中でも話すかと言うと、実際はそうでもない。寝るか、スマートフォンを触るか、各々自由に時間を潰している。もちろん会話するときこそあれど、一言二言で終わるレベルだ。

 恵人と楓の距離感は親友に近しいものだと、恵人は勝手に解釈していた。

 一緒にいて心地いい、違和感がない、素でいられる。そんな感情を持てる人間はそう現れないし、実際楓しかいない。

親友が欲しかったと、昔から思っていた。なんでも気兼ねなく話せるような、そんな親友。それが楓だといいなと、今更になって恵人は思う。

 できればこの先一生親友をやってもらいたいところではある。

 ノアがあまりいい顔をしなさそうだが、まあなんとかなるだろう。

 きっちり一時間かかって最寄り駅に着いた二人は、楓の家に向かって歩き始めていた。 

 楓が恵人とノアの正体を知るきっかけとなった事件以降、楓と会った日はなるべく家まで送ることにしていた。

 それはいつしか当たり前になり、恵人にとって日常となっていた。

 社会人になっても続くのだろうなと、呑気に思う。


「折原はさ、このままでいいの?」


 帰り道、ふと楓が口を開く。


「……どういう意味?」


 質問の意味が、意図が、わからなかった。


「本当にあの吸血鬼の眷属のまま一生を過ごすのかって意味」

「……」


 楓が何を言っているのか、わからなかった。

 なんの脈絡もない、突然の問い。

 恵人が半分吸血鬼であることやノアの眷属であることを打ち明けた時も驚いてはいたが、すぐに受け入れて理解を示してくれた。

 その後もノアのことで何かあれば親身になって相談に乗ってくれたし、何よりも一番応援してくれているのは楓だと思っていた。

 それなのに、今になって、なぜ。


「だって、半分吸血鬼って言っても、半分は人間だよ? しかもこれから社会人になって、より人間社会に深く入り込んでいくんだよ? なのに人間とはかけ離れた生物と一緒にいるって、正気?」

「お前、言っていいことと悪いことが――」

「人間は歳を取るし、見た目だって変わる。けどノアは違うでしょ? 折原だっていつまでもその姿かもしれないんだよ? それでずっと働き続けられるの?」

「それは……」


 珍しく語気を荒らげかなりの剣幕で捲し立てる楓に、恵人は言葉を返せなかった。

 そして何より、楓の言葉が恵人には刺さった。

 先のことを一切考えずに、今だけを考えて生きてきたツケが回ってきた気分だ。

今だけ見るのに精一杯という言い訳はいくらでもできる。だが、本当に未来を見ることができないほど切羽詰まっていただろうか。今が充実していることにかこつけて、やらなかっただけではないだろうか。

楓は恵人より遥かに真剣に先のことを見ていた。

一番考えなければいけないはずの恵人が何も考えていない。

猛烈に恥ずかしさが込み上げてくる。

 そんな恵人を見て、楓はふうと息を吐く。


「やっぱりね。そんなことだろうと思った」


 楓と目を合わせられない。

 今の恵人を端的に表すならば、『調子に乗っていた』だろう。

 ノアの眷属になって、就職先が決まって、何もかもが順調に進んでいると思っていたのは恵人だけだったのだ。

 きっとノアもわかっていたはず。あえて言わなかったのは、恵人に自分で気づいてほしかったのだろう。


「でもね、まだ間に合うよ」

「え……?」


 楓の優しい声音が、恵人に届く。


「ここで気づけたんだから、まだ考える時間はあるよ」

「どうして、そんなに優しくするんだよ。俺は何も考えてなかったんだぞ。こんなに優しくされる筋合い、俺にはないんだよ……」


 付き合いが長いとはいえ、楓がここまで恵人に入れ込む理由はない。何もかも恵人の落ち度なのだ。いっそ、責められたほうが楽なのに。

 そんなの、そう言って、楓が笑う。


「あんたが好きだからに決まってるじゃない」


 その笑顔は、今まで見た楓の中で一番綺麗だった。思わず見惚れるほどに、美しかった。


「知らなかった、みたいな顔してるね」

「……実際、わからなかった」

「大学もゼミも就職先も一緒だったら、いくら鈍感でもわからない?」


 恵人としても楓がいることは心強かったし、何より親友だと思っていた。だからそんな邪な気持ちで楓のことを見てはいなかったのだ。


「はあ……」


 それが顔に出ていたのか、楓は大きく溜息を吐いた。


「ある程度予想はしていたけど、まさかここまでとはねえ……。ショック通り越して呆れる……」

「でも、どうして今になって」

「どうしてってそりゃ、このままじゃ絶対気づいてもらえないなって思ったからよ。だったら、今言ったほうがいいじゃない」


 周りのことが本当に見えていなかったのだと、改めて実感させられる。自分のことばかりで情けなくなる。


「でもね折原。私は折原に人間の世界で生きていってほしいと思う。せっかく大学も出て、就職先も決まって、友達もできて、もう全部揃ったじゃん。人間の世界で真っ当な生活をできるくらいのものが揃ってる。もう昔の折原とは違うんだよ。だからさ」


 楓の次の言葉を恵人は静かに待った。それを止める資格は、恵人にはない。


「ノアじゃなくて、私を選んで。人間として生きる道を選んでよ」


 ノアのことは好きだ。当然これからも一緒に生きていきたいと思っている。そこにブレはない。

 ないはずなのに、すぐに答えを出せない自分がいた。

 もっと考えて答えを出さなければいけないと思う、自分がいた。


「今日は親が迎えに来てくれるからここまででいいよ、ありがとう」


 恵人の返事を待つことなく、楓はその場を立ち去る。

 しばらく立ち尽くしていた、恵人を置いて。


          ◆


「おかえり」


 玄関のドアの開けると、ノアが待ってくれていた。

 このまま抱きついてしまいたい、そんな思いがよぎるがなんとか振り払って、表情を取り繕う。


「うん、ただいま」

「……なんかあった?」

「なんもないよ」

「嘘だ」

「……ノアはさすがだね」

「もう五年も一緒にいますから。話してごらん」


 リビングにあるソファに腰掛け、恵人は今日あったこと、感じたこと、思ったことを包み隠さずノアに伝えた。

 ノアは何も言わず、恵人の話を聞く。恵人の目を見ながら、時には相槌を打ちながら、聞く。

 全てを話し終えた恵人は、緊張から口の中がカラカラになっていた。それほどまでに、勇気のいる行動だったのだ。


「そっか、そんなことがあったんだね」

「……答えなんて決まってると思ってたんだ。一つしかないって。でも、自分が思っていたよりも、人間の世界に大切なものが増えてたんだ」

「そうだね、友達もたくさんできたもんね」

「もちろんノアのことは好きだよ。ずっと一緒にいたいって思ってる。でも、なぜか悩んでる自分がいるんだよ」


 恵人は気づいてしまったのだ。

 いや、気づいていない振りをしていただけかもしれない。

 両手で持っても余るくらいのものしか持っていなかった恵人が、両手でも溢れるくらいのものを持つようになっていたことに。

 選択をしなければいけないところまで来てしまったことに。


「……そっか」


 ノアは怒るわけでも悲しむわけでもなく、ただただ恵人の発言を受け止めていた。まるでこうなることがわかっていたみたいに。


「ちょうどいい機会かな」


 そう呟いて、ノアはソファから立ち上がり、そのまま部屋を歩き始める。


「話があるんだ」

「話……?」

「そう」


 リビングを大きく回るノア。腕を後ろに組んで、足元を見ながら歩いている。


「私ね、もうすぐ日本を出なきゃいけないんだ」


 突然放たれたその言葉を、恵人は上手く飲み込めなかった。

 日本を出る? 一時的なもの? ずっと?

 様々な疑問が、頭の中に浮かぶ。


「混乱するよね。でも、言葉通りの意味だよ」

「え、な、なんで?」

「私のポリシーの問題でね」


 ますます意味が分からなかった。脳が受け付けることを否定しているような、そんな気分。

 そんな恵人を置いていくように、ノアは歩みを進める。


「私、同じ国には五年以上いないようにしてるんだ。あんまり長くいすぎると、私にとっても人間にとっても都合が悪いんだよ。北海道でも沖縄でもいいじゃんって思われそうだけど、国を変えなきゃ意味がないんだよね」


 なおも恵人は言葉が出なかった。ただただ、ノアの言うことを聞くことしかできなかった。


「五年がちょうどいいんだ。人の記憶にいい感じに残らない。黙っててごめんね」

「……謝る必要は、ないけど……」


 絞り出したのは、そんな情けないセリフだった。そんな言葉しか、出なかった。


「これは最初で最後の、私の我儘。私について来れば、人間としての生活はもうできない。ついて来なければ、恵人は人間として今までの通りの生活ができる。大学卒業して、就職して、ってね」


 リビングを回っていたノアが、恵人の正面に戻ってくる。

 だから、そう呟いたノアは、恵人と目を合わせる。真紅の双眸が、恵人の目を捉えて離さない。


「吸血鬼として生きるか、人間として生きるか、恵人が決めて」


 五秒間、しっかり見つめ合った。耽美なものでも官能的なものでもない、恵人の真意を測るかのような、そんな視線だった。


「今すぐ答えを出せとは言わないよ。でも、少し考えてほしいんだ。私、今日は外で過ごすから」

「わかっ、た」


 受け入れ難いが、そう返事せざるを得なかった。


「うん、じゃあね」


 ノアはそう言って、リビングから出ていった。

 確かに恵人にも考える時間が欲しかった。

 楓とともに人間社会での生活を営むか、ノアとともに色んな国を飛び回って吸血鬼としての生活を営んでいくか。

 きっとノアと出会ったばかりの恵人なら迷わず後者を選んでいただろう。あの頃は常に非日常を求めていたし、人間社会のどうしようもなさに辟易としていた。


 けれど今はどうだろうか。

 忌み子の呪いは薄れ、友達だってできた。

 果たしてそんな社会がどうしようもないものと言えるだろうか。

 この五年で、この世界も、恵人を取り巻く環境も、何もかもが変わってしまった。

 この五年で、大切なものが増えすぎてしまった。

 天秤にかけてどれを取るかなんてことはそう簡単にはできないものばかり。

 何を基準に選べばいいのかもわからない。

 けれどいつか必ず、答えを出さなければいけない。

 でも今は、少しでも時間が欲しかった。

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