タクシーはタヒチの方角を向いて停車していた
伊藤優作
タクシーはタヒチの方角を向いて停車していた
かなり酔っていたが友人の申し出を断って歩くことにした。
駅もバス停も遠く離れた住宅地のなかにひっそりと佇む蕎麦屋で、彼とわたしはずいぶん楽しんだのだった。
友人とその彼女が眠るところにわたしがお邪魔するのは、ワンルームということを差し引いたとしてもさすがに気が引けた。山沿いの旧道を歩いていた。その山の方から猿が一匹、ものも言わずほとんど転がり落ちるみたいに坂下の住宅街へ消えていった。消えてから、この時間にこのあたりを歩くのは危ないことなのかもしれないという考えが頭に浮かんだ。
交差点についたところで、十数メートル離れたところに一台のタクシーが停まっているのを見つけた。「割増」の文字が光っていたが、ほの白い明かりに包まれた運転席には人がいなかった。
さらに近づいてみて分かったのだが、運転手は後部座席で口を金魚みたいに開けて、助手席の背もたれに装着されたディスプレイに映るCMか何かを観ていた。知っているような知らないような女優が、確実に知らないとわかるパペットにインタビューを受けているのが分かった。後部座席のドアが微かに開いていたおかげで、彼女が海外旅行に行きたいと言っていることが判明した。
わたしには彼女の言っていることがとてもよくわかる。
「すみません、まだやってますか」
言ってから、言葉遣いが微妙に間違っている気がした。二次会だと思えば友人の申し出を受けてもよかったのかもしれない。
「いいよ、好きに乗ってって」
金魚の運転手はだらーっと右腕を上げ、空っぽの運転席を指差したのだった。わたしはそれに応えず、一礼してその場を離れた。
運転させられるのが嫌になったのなら勝手にどこかへ行ってしまえば良いと考えると、運転したくなくなったのかもしれない。しかしそうなると「好きに乗ってって」と言ったこととのつながりが悪い。
たぶん、自分以外の誰かにどこかへ連れて行ってほしかったのだろう。行き先さえ告げられなければどこでもよかったのかもしれない。どちらにせよわたしはかなり酔っていたのだった。
重油で塗り潰したような分厚く鈍い曇り空の下で、山の葉はその形も色も区別を失っていた。猿や鹿、もしかしたら熊の影をその懐に貯えているはずだった。わたしは交差点の方へ戻りながら、ポケットに入れた携帯に手をかけた。電池がまだ残っているとするなら、わたしにはさっきの友人に連絡をいれるか、タクシーを呼ぶか、ふたつの選択肢が残されているはずだった。
タクシーはタヒチの方角を向いて停車していた 伊藤優作 @Itou_Cocoon
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