可愛いって言うな!記憶喪失少年、女装で始まる冒険者ライフ
茅ヶ崎めい
第0話 白い霧のなかで
薄く白い霧が漂う。石造りの壁は冷たく、空気は重い。
この牢に閉じ込められて、どれくらいの時間が経ったのか……わからない。
鉄の扉が軋む音。
現れたのは、いつものメイドだった。
静かな足音。
銀の盆に乗せた温かい食事。
いつもと同じはずなのに――その瞳は、決意と切なさを含んでいた。
「……準備、できる?」
小さく問いかけられ、僕はうなずくしかなかった。
差し出されたのは、淡いクリーム色のブラウスと小花模様のスカート。
襟元には細かなレース。
布地はふわりと軽く、膝でひらめく丈感。
「……なんで、これ……」
問いかけても答えはなく、彼女は黙って僕の髪を梳かし服を着せていく。
その指先が妙に丁寧で、布地を整えるたびに視線が長く留まる。
(……気のせい、だよね?)
膝までのスカートが太ももに触れ、薄い布越しに冷たい空気が伝わってきた。
鏡はないけれど、自分が『自分ではない何か』になっていくのがわかる。
靴は細いストラップのついた小さなパンプス。
首にリボンを結びながら、ようやく言葉を絞り出す。
「……変装。万が一顔を知られていても、気づかれにくいから」
無理に作ったような笑みが、口元にだけ浮かぶ。
結び目を整える彼女の手が、ふと止まった。
短く息をつき、何かを決めたように懐へ手を伸ばす。
取り出されたのは、小さな銀色の髪留め。細やかな彫刻が刻まれ、淡く光を反射していた。
「……これは、私のいちばん大事なもの」
まるで壊れ物を扱うみたいに、僕の髪をそっとすくい上げ、額の横でカチリと留める。
冷たい金属の感触と、彼女の指の温もりが同時に残った。
そして、視線を合わせたまま――
「孤児院に送る、そこでなら安心して暮らせるはず。……必ず迎えに行くから」
その声は、かすかに震えていた。
彼女が僕の手を強く握る。
次の瞬間、手のひらから光があふれ、空中に紋様が浮かび上がる。
ゆっくりと回る光が僕を包み、世界が白く溶けていった。
胸の奥で、何かが割れるような音がした。
世界の輪郭がにじみ、音も色も遠のいていく。
「……」
声を出そうとしても、唇が空を切るだけで音にならない。
なにか大事なものが、白く淡い霧に溶けていく。
光が満ち、境界が消える――
温もりも、冷たさも、ただ混ざり合い、どちらとも分からなくなる。
……気づいたときには、冷たい風が頬をなでていた。
どこから来たのかも、どうしてここにいるのかも、思い出せない。
ただ胸の奥に残っているのは――
最後に握られた手の温もりと、
女の子の服に包まれた違和感。
そして、額で光る小さな髪留めだけだった。
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