第5話 変わりはじめた世界

月曜日の朝。


自宅の洗面所で鏡を覗き込みながら、千夜はなんとも言えない居心地の悪さを覚えていた。


服装も、髪型も、いつも通り。

メイクだって変えていないし、特に寝不足なわけでもなかった。


それでも、どこか“浮いている”ような気がしてならなかった。


通勤電車に乗っても、先週のような視線を感じることはなかった。

どころか、周囲の乗客たちの雰囲気も変わっている。

数日前までオフィスでちやほやされていたのが嘘のように、皆、千夜のことなど空気のように扱っていた。


職場に着いても、それは変わらなかった。


「おはようございます」


先週は声をかければ笑顔が返ってきた男性社員たちが、そろって軽く頷くだけだった。


淡白。

無関心。


それが“いつもの日常”であることはわかっている。

それなのに、千夜の心は思わずざわついた。


たった一週間で、自分はこの“やさしすぎる非日常”に慣れてしまっていた。


オフィスの自席でパソコンを立ち上げていると、佐倉葵が後ろから歩いてきた。


「……おはようございます、佐倉さん」


千夜がぎこちなく声をかけると、葵は振り向いて軽く微笑んだ。

けれど、彼女の服装は、もう“あの地味なパンツスーツ”ではなかった。


レースの入ったベージュのブラウスに、くるぶし丈のタイトスカート。

華やか過ぎないメイクとシンプルなピアス。

いつもの彼女だった。


「おはようございます、主任」


「……服、戻したんですね」


「え? 何のことですか?」


千夜は絶句した。

本人は何も覚えていないらしい。

まるで、先週一週間だけの夢だったかのように。


昼休み、千夜はオフィスのカレンダーを確認した。

日付は間違いなく進んでいた。

金曜に資料を提出して、週末にSNSを見て、月曜に出勤して……全部、現実の時間として積み重なっている。


(私だけが、おかしくなった……?)


タブレットを開いてSNSをスクロールする。

もう、どこにも「堅実系OL」のトレンドは見つからなかった。

代わりに、若々しくて華やかなキラキラ女子たちが、画面の上位に戻ってきていた。


(夢だった……でも、現実だった。じゃあ、私は何を見ていたの?)


目の奥が熱くなる。

でも、泣くわけにはいかない。

課長に呼ばれ、午後は月次報告のまとめが待っていた。


――現実はいつだって、無慈悲に進む。



金曜日、千夜はまたしても残業になった。


終電間際の電車に揺られながら、彼女は目を閉じてため息をついた。

先週の金曜と同じ状況、同じ疲れ、同じ帰路。

なのに、心の重さはまるで違った。


(……何もかも、あれが夢だったとしても、私は……あの世界に、すがりたかったんだな)


自宅最寄りの駅に着いたころには、街はすっかり静まり返っていた。

駅前のコンビニのネオンが、寒々しい光を放っている。


千夜はふらりと店内へ入った。


酒類販売コーナーへと足を向けた瞬間、彼女の視線がぴたりと止まった。


――そこに、あったのだ。


あの、「胡蝶堂」の缶酎ハイが、一本だけ、棚の隅に置かれていた。


薄紫色のラベルに、儚げな蝶のイラスト。

確かに、先週の週末にはなかった。

それどころか、それ以降、何度このコンビニに来ても、見つけることはできなかった。


(……また、手に取ったら、あの世界に戻れる?)


指先が、缶に触れる。

けれど、その瞬間、千夜の脳裏にある言葉が浮かんだ。


――夢は、夢のままにしておく方がいい。


「……そうね」


ぽつりと呟くと、彼女は「胡蝶堂」ではなく、別の銘柄の缶酎ハイを手に取った。

現実は苦く、味気ない。

けれど、確かにそこには“戻ってくる場所”がある。


千夜は会計を済ませ、缶をカバンに入れた。


今夜は夢を見ないかもしれない。

でも、眠りにつくその瞬間までは、自分の選んだ世界の中で、ちゃんと立っていたかった。

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