第1章 匂いに勝る梅の花 第1話 春の花桜

北の寒冷が静かに退き、南の温暖がゆるやかに上ってきた頃――

近畿のある大名の国でのこと。


その日は、梅の香りがうっすらと町を包み、柔らかな風が頬を撫でていた。

そんな中、一人の少女が侍女募集所の門をくぐる。


その名は――義乃(よしの)。

代々、貧しい農民の家に生まれ育ったが、家族の暮らしを少しでも楽にしたいと、

この国の殿様の正室付き侍女の募集に応募したのだ。


やがて試験を無事通過し、その才覚を買われて中流下級侍女として四日後から勤めることが決まった。

吉報を故郷の両親と祖父母に伝えると、四人とも手を取り合って喜んだ。


母や祖母は、近所や旧友にまでこの話を誇らしげに伝え歩いたという。


義蔵「義乃よ、祖母や母が喜びすぎているようだが…大丈夫なのか?」


そう問いかけたのは、彼女の祖父・義蔵である。

すると義乃は、にっこりと笑みを浮かべて答えた。


義乃「おじいちゃん、大丈夫よ。私は気にしてないし、母やおばあちゃんが誇らしいなら…それこそ私の誇りにもなるから」


義蔵「そうか…ふっ…お前さんらしいな。――まぁ、お前さんらしく、いなさい」


その声には静かな温もりと、誇りが滲んでいた。


やがて夜。

囲炉裏の火がやわらかく揺れる中、母・お鶴が義乃の手をそっと包む。


お鶴「義乃、私たちは嬉しいわ…あなたのような娘を持てて。母も、おばあちゃんも、誇りよ」


その言葉は、春の花桜のように、義乃の胸の奥深くにそっと咲き、香り続けた――


翌日から、出立までの四日間。

祖母は義乃に、侍女として必要な所作や礼儀作法をみっちりと仕込んだ。


「背筋を伸ばして。――そう、それで初めて殿方にも奥方にも失礼にならない」

「食器を持つ手はこう。器の縁を握ってはならぬよ」

「言葉は短く、笑みは長く――これが侍女の心得じゃ」


朝は日の出と共に起こされ、夜は囲炉裏端で復習を繰り返す。

茶を淹れる手元は震え、正座で足は痺れ、時には小さな失敗もあったが、

祖母の眼差しは常に厳しくも温かかった。


「義乃、お前はもう立派に勤めを果たせる娘になるさ」

その言葉に、義乃の胸は静かに熱くなった。


さらに祖母は、料理や洗濯といった日常の家事に加え、女性としての立ち居振る舞いや心得も教え込む。

歴史や身体、精神、心理に至るまで、幅広い知識と作法を惜しみなく授けた。


そうして、いよいよ明日が勤め初めの日。

家族は心を引き締めつつも、義乃の旅立ちを祝い、静かな喜びの中で送り出す準備を進めた。


――そう、あんな大事件になるとも知らずに。


第1話 終

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八と社と鱈の舞 毛 盛明 @temeteni-

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