死者集う村の二度目の春

サトウ・レン

死者も桜を眺める

死者を殺したかもしれない死者

 どうやってそこにたどり着いたか、福岡春奈ふくおかはるなはほとんど覚えていなかった。

 いくつかちらばった点のような記憶が残っているが、点と点が繋がって線が引かれることもないので、それは、ない、と同じことだった。


「ここには慣れたかな」

 と青年が言った。中性的な、一般的に言えば美しいと呼ばれる顔だ。今年生きていれば二十歳になる春奈と外見の年齢はほとんど変わらないが、彼が生まれたのは春奈よりも八十年前のことだ。春奈の年齢の頃に、終戦を迎えたことになる。とても信じがたい話ではあるが、自分の身にもっと信じられない出来事が起こってしまったので、疑う気もなくなってしまった。


「はい、みんな優しくしてくれますから」

「なら、良かった。みんな嬉しいんだよ。若く可愛い子が村に入ってくるのが。男は美人を見るだけで、元気が出るもんさ」

「そういうこと、あまり言わないほうがいいですよ。現代の日本では、そういうこと言うひとは嫌がられます」

「そうか……。しかしここは時代から取り残された場所だ。だから現代の感覚なんて正直どうでもいい。ただもしもきみが嫌だ、というならば、気を付けよう。よく分からないものに嫌われるのはどうでもいいが、きみに嫌われたくはないから」


 彼の名前は、信濃譲しなのじょうという。すくなくとも春奈は彼からそう聞かされている。ただ本当の名前かどうかは分からない。なぜ疑ってしまったのか自分でも分からないのだが、本名は違う気がした。ある時から、そんなふうに思うようになった。


「あの……怒らないんですね」

「なぜ、怒る必要が?」

「いくら見た目が同世代とはいっても、ひ孫くらいの相手からこんなふうに言われたら、なんだかムカ……腹が立ったりしないのかなぁ、と思って」

ムカつく、と言いそうになって、春奈は途中で言葉を変える。この村にも色々な世代のひとがいるわけだから、『ムカつく』という言葉くらい分かりそうな気がしたが、通じない可能性もある。

 信濃さんが笑う。


「怒りなんて感情はとっくに忘れてしまったよ。もしかしたら生きている頃にはもう失っていたのかもしれない。いまになって考えると、ね」

 信濃さんはどういうふうにその生を終えたのだろう、と春奈は思った。やはり戦争が関わっているのだろうか。気にはなるが、軽々しく聞くわけにもいかない。春奈たちくらいの年齢で死んで、複雑な事情が絡まない人間なんて、そっちのほうが少数派だろう。だから春奈は話を変えることにした。

「そう言えば、桜が咲いていましたね。ちょっとびっくりしました」

「そうかな。この村には桜なんて不似合いだったかな。でも死者ほど、桜が似合う存在もいないだろう」

「死体が埋まっているから、ですか」

 ふと春奈は梶井基次郎の掌編小説『桜の樹の下には』を思い出す。昔、ちょっと勉強した文学のことが、こんなところで役に立つとは。


「若いのに、よく知っているね。私もとても好きな短篇だ」

 二十歳にしか見えない青年に、『若い』と言われると、どうも変な感じがして落ち着かない。

「それが私の仕事でしたから、あぁでも命じられたわけではないので、趣味にも近いのかもしれませんが」

「……私はそのむかし、詩作と思索が趣味で、ね。ボードレールなんかに傾倒したものだよ。長野の田舎町でそんなことをやっている人間はめずらしくて、ね。東京に出ることを夢見ていたが、状況が許してくれなかった。あの頃は結構、いじめられもしたものだ。線も細くて、喧嘩もからっきしだったからね。もう彼らも全員、死んでいることだろうね、私同様」

 信濃さんは長野出身だったのか。なんだか偽名の線が強くなったな、と春奈は思った。


「たまに、こう思うんだ」

「信濃さん?」

「当時を知るうちの誰かとここで出会わなくて良かった、と。出会ってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう、ってね。死んでまで、過去が追いかけてくるのは、とても億劫だ。とても、ね」


 春奈はここに来る前のことを思い出す。

 私は殺された。もしも自分を殺した人間が、この村に現れたとしたら、私はどうなってしまうのだろうか、と考えて、春奈は怖くなった。もちろんそんなわけがあるはずないのに、と彼女は心の中で笑ってしまった。だって誰に殺されたのか、私は知らないのに。


 だけど春奈は毎晩、夢を見る。

 この村に来て、一番不思議だったのは、死者も眠れる、ということだ。とても矛盾した言葉ではあると思うが、実際にそうなのだから仕方ない。たぶん睡眠を取らなくても死なないはずだ。だってすでに死んでいるのだから。しかし睡魔は襲ってきて、気付いたら寝ている。同様に、食べなくても死なないはずなのに、お腹は空く。その辺は生きている人間とまったく変わらない。違うのは体温がないことだ、そして脈はなく、心臓は動いていない。それ以外は普通の生者と何も変わらない。


 いや、あるとすれば村から出てはいけないくらいか。村を出た瞬間、死者のその肉体は消滅してしまうそうだ。隣に住んでいる千葉さんが教えてくれた。千葉さんは太った中年の男性で、外見年齢は五十代なかば、というところだ。生きていた頃は、営業マンだったそうだが、その頃の話はあまりしたがらない。


 信濃さんと別れて、家まで歩く道すがら、春奈は淡いピンクの花を咲かせた桜の木々の下で立ち止まる。儚さの象徴として扱われる桜が、生前はあまり好きではなかったが、曖昧な存在になってしまったいまとなっては、これも悪くはない、と思えるようになってしまった。鶯が枝に足を止めていた。この鶯は生きているのだろうか死んでいるのだろうか。ふと気になった春奈が触ろうと枝に手を伸ばすと、何かを察知したのか、春奈の手から逃げるように、鶯は飛んでいってしまった。そのまま村から出ようとした鶯は消えてしまったような気もしたし、ただ見えなくなってしまっただけの気もする。正直なところ、どちらかは分からない。


 この村は、境目村と呼ばれている。住人の数を正確に把握しているわけではないが、春奈と関わりがあるのは、十人くらいだ。村の面積を考えれば、その数は驚くほどすくないし、それなりに空き家もあるので、かくれんぼでもすれば永遠に隠れ続けることも可能かもしれない。ほとんど家にこもって出てこないひともいれば、気付いたらいつの間にかいなくなっているひともいるらしい。


『境目村』と誰が最初に呼んだのか、春奈は知らない。とりあえずみんながそう言っているから、春奈も倣って、そう呼んでいる。生者と死者が交錯する村。だけど境目村を知らないひとにその話をしてもぽかんとするだけだろう。もしも春奈が生きている頃に、こんな話を聞かされていたら、きっと右から左に聞き流していたはずだ。


 死んだ人間と生きている人間が、同じ村の中で暮らしているが、基本はそのほとんどが死んでいる人間だ。死んだ人間、と言っても、実体はあるので、幽霊よりもゾンビに近い。春奈はいつか見たホラー映画のゾンビを思い出す。都市中を占拠したゾンビが逃げ惑う生者たちを食い荒らしていく様子が延々と続く内容で、作品自体はあまり面白いものではなかったが、ゾンビたちの特殊メイクを使ったグロテスクなヴィジュアルが印象的だった。あれといまの私は同類なのか、と思うと、春奈はすこし面白くなってしまった。といっても、春奈はあのゾンビのようにグロテスクな変貌を遂げているわけではないのだが。


『たまにふらりと、村を訪ねてくるひとがいるんだ。それは死者の場合もあるし、生者の場合もある。私たちは相手に直接触れない限りは、長年、一緒に過ごして外見の変化がないことに気付いて、初めて判断することができるが、本人だけは自分がどちらかすぐに分かる。手足の指の感覚がまったくないからね。だから相手の言葉を信用するようにしている。信用、というよりは、問題にしないようにしている、と言ったほうが正しいかもしれない。そのひとが死者であれ生者であれ、ここではたいした問題にもならないから。一応、お互いに相手の了承もなしに、肉体に触れることはやめよう、という話にはなっているよ。きみにもできれば守って欲しい。警察もいないから取り締まることはできないけど』


 来たばかりの頃、信濃さんからそう言われた。善意に寄りかかった決め事だが、そもそも悪意を持って相手に触る必然性がこれといって思い付かない。

 私としては別に誰かを触りたいなんて感覚もなかったし、誰かを触る気もなかったので、もちろんこのなんとなくのルールに逆らうつもりはなかった。


 桜の花びらが、風に揺られて、踊りながら落ちてくる。

 先日まで降り続いていた長雨が終わって、桜が開花する。こういう雨を、催花雨さいかう、と呼ぶ。そう言えば生きていた頃、この言葉を知ってすぐに、周りに教えて回ったことがある。普段、得意気にそんなことをするタイプではなかったうえに、周囲とまだしっかり関係もできる前だったので、やけに不思議そうな顔をされたのを覚えている。一番この話を真面目に聞いてくれたのは、由季だった。会話はぎこちなかったが、嬉しそうにその話を聞いてもらえたことが嬉しかった。


 春奈が境目村に来たのは、前の年の夏くらいだった。もうすぐ一年が経つ、ということだろう。時計もカレンダーもないので、時間や月日の流れはとても曖昧だが、季節を彩る様々なものが明確ではない時の流れをささやかに示してくれる。

 いまの死にながらも思考をしている自分は、本当に『春奈』なのだろうか、『春奈』とは違う何かなのだろうか。

 ふとそんな考えが萌した。すると生前の記憶がよみがえってきた。ある特別な女性の言葉だ。


『そんなに難しく考える必要はない。それはきみの人間としては美点だと思うが、商品としては欠点だろうね。春奈。きみは生きた人間であると同時に、作り物でもあるんだ。まだ二十歳にもならないきみには酷かもしれないが、きみは望んでこの門を叩いたのだから。厳しく言わせてもらう。必死に精巧な人形を演じてもらいたい。人間に戻りたいならば、早めに辞めてしまったほうがいい。冗談でも嫌味でもなく、そっちのほうが人間としては、大きな幸せを掴める可能性が高い、と私は思っている』

『マネージャー……』

 それはとても冷たい言葉ではあったが、春奈を気楽にさせてくれる言葉でもあった。思考を停止することほど、楽なことはない。


 もちろん口にすることはなかったが、春奈はあのひとに憧れていた。

 女性に対して、恋に近い感情を抱くのは、あの短い人生において最初で最後だった。まだ生きていた頃、いわゆる『アイドル』と呼ばれる存在だった春奈に、歩むべき道を示してくれたひとだった。彼女は私のことを悲しんでいてくれるだろうか。馬鹿馬鹿しいことを考えているな、まったく、とまた春奈は心の中で笑う。死んでしまった春奈にとってはどうでもよく、もう会うこともできないのに。この村にふと彼女が迷い込んでこない限りは。


「うん? あんたは新入りじゃないか」

 野太い声が背後から聞こえて振り返ると、佐賀さんだった。佐賀さんはこの村で診療所を開いている。本人の自称は死者だ。そして患者としてやってくるのは生者だ。死者が生者の病気を診察している。不思議な話だ。死者に指先の感覚はないので、ひとり診療所には看護師に代わるひとがいる。香川さんという生者の女性だ。指先の感覚が必要になることは、彼女が代わりに行っている。でも診療所に行くひとの大抵は佐賀さんと雑談をしに行くだけで、患者として診療所を利用するひとはいない。すくなくとも春奈は知らない。


「佐賀さん。良いんですか、お酒なんか飲んで」

 佐賀さんは手に酒瓶を持っていた。

「どうせ、俺は死んでいるから酔わんしな」

「まぁそれはそうですけど、でも酔わないなら、飲む意味ないじゃないですか」

「しかし、酒のない花見なんぞ、つまらんじゃないか。どうせ患者もおらん」

「花見に来たんですか?」

「悪いか」

「別に悪くはないですけど」

 すこし意外ではあった。そういうの、好きそうじゃないのに。

「まぁいいか。この村には慣れたか」

「いまだに戸惑うことも多いですが」

「あんたは年齢に似合わず、やけに落ち着いているから、仮に心がそういう状態であっても、全然分からんな。我慢強いんだろうな」

「自分自身では、そんな自覚はないんですが……」

「ただそういう人間のほうが医者泣かせだったりする。ここが痛い、ここが苦しい、あれが嫌だ。自己主張の多いほうが、こちらからの提案の選択肢が増えるからな。本当にしんどい時は、診療所に来るといい」


 佐賀さんが歯を見せつけるように、快活に笑う。そもそもの話としてたまに思うのが、佐賀さんは生前、医者だったのだろうか。その辺も実のところ、よく分かっていない。この村で医療の行為に資格はいらないのだから。


「私は死んでいるのですから、病院に行く必要はないですよ」

 いまでも不思議だ、と春奈は思う。死者が生者を診る、というのは。言葉を悪くしてもいいならば、正直、歪な関係だ、とさえ感じる。

「そんなこともない。病は気から、と言うだろう。だから気持ちのある死者は病む」

 佐賀さんが、春奈をじっと見すえる。心を見透かすかのようなまなざしに居たたまれなくなって、話を変えることにした。


「……話は変わるんですけど、私が来て以降、誰も新しいひとが来ている様子ってないですよね。もう結構、経つのに」

 かなり強引に話題を変えたのに、佐賀さんは気にしたふうもなかった。

「あぁ、あんたが最後だ。だから、次のひとが訪ねてくるまで、俺はあんたを新入りと呼び続けるつもりだ」

「大体、どのくらいの頻度で来るんですか」

「同時期に大量に流れ込むこともあれば、数年間、誰も来なかったこともある。生者ばかりが迷い込む時もあるし、死者ばかりの時もある。大体そういう時に限って、まとまって村から出ていくことも多いが」

「佐賀さんはかなり古くからいるんですよね」

「信濃さんの次、くらいかな。他はみんないなくなってしまった。この村に墓はない。死者は消えるだけだし、生者は死者に変わるだけだ。この村の中では」

「ここで死んだら、その……死者になるんですか?」

「そういう例を過去に数回見たことがある。そもそもこの村にいる生者の割合はあまりにもすくないからなぁ。あくまで経験を語っているだけだから、例外があるかないかは知らん。必ずしも死んだ後、死者としてこの村に留まれる、とも限らんだろう」

 生者は死者に変わる。それは春奈が初めて聞くことだった。


「本当に不思議な村ですね。……でも、せっかく死者になっても、考えて動いていられるのに、村から出ちゃうんですね。なんだか、こんな言い方が正しいのかどうか分からないのですが、もったいないような気もします」

「変わらない時間が延々と続くと、どうしても変わろうとしてしまうかもしれない。変わらずにいることが怖いのかもしれん」

「佐賀さんもそう思うんですか」

「さぁなぁ」

 と笑って、佐賀さんは桜の花に目を向ける。それが佐賀さんにとっての、会話終わり、という合図だったのだろう。会話はなくなり、春奈はその場所から離れることにした。


 春奈は死んだ後、気付いたらこの村にいた。生者はおそらく自らの足で村に踏み入るはずだ。でも、どういう形でこの村を知り、見つけるのだろう。などと考えながら、家路をたどる。


『そう言えば、ここはいわく付き物件だね』

 家に来たばかりの頃、太った身体を揺らして、千葉さんが冗談まじりに言ったことがある。千葉さんは悪いひとではないと思うのだが、タチの悪いからかいが多いところが玉に瑕だ。

『怖いこと言わないでくださいよ。当たり前じゃないですか。だって前の住人も死んでいるんですから。すべての家で』

『バレたか』


 前の住人がどういうひとだったか、春奈は知らない。信濃さんから、『最近、空いた部屋がひとつあるから、そこを使ったらいい。村外れに使われなくなった空き家がいっぱいあるが、中心部のほうが何かと便利なはずだ』と言われて以来、春奈はそこを使っている。木造の古びた平屋だ。必要な物は、定期的に一台のトラックが訪ねてくるので、そのひとにお願いすることになっている。このひとは厳密には村人ではない。そして外界に出ているので、死者でもない。村と外界を繋ぐ唯一の存在だ。群馬さんという名前で、このひともかなり謎めいている。頼むと、色々と買ってきてくれるので、村のみんなから感謝されている。


 本当に不思議だらけだ。この村は。

 自分の家が見えてきた時、春奈は思わず、「あっ」という声を上げてしまった。男が玄関の前で倒れていたからだ。うつぶせになっている。慌てて駆け寄り、大丈夫ですか、と声を掛けながら、仰向けにする。


 春奈はそのひとの顔を見て、息を呑んだ。


 このひと、知っている。

 でも、このひとは……。

 なぜか、ふと、思った。

 私を殺したひとだ、と。

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