第1話 栄光と福音の前夜

「クロノス」——その名を聞けば、誰もが畏れを抱く世界最大の製薬企業である。「製薬会社といえば、クロノスか、そうでないか」。その皮肉じみた区別が、現実に成り立っていた。クロノスは、もはやメガファーマの域を超え、テラファーマ、すなわち「地球規模の製薬帝国」として君臨していた。競合他社はもちろん、国々すらその影響下にあった。


 その頂点に君臨するのは、サミュエル・クローニス。かつて30歳の若さでとあるメガファーマのCEOに就任し、現在では40代にして世界の製薬市場を掌握している。彼のカリスマ的な手腕と異常なまでの経営センスは、もはや伝説だ。彼は一度も敗北を経験していない。メガファーマを上から10社にわたって合併し、その力を一手に握るクローニスを、誰もが恐れ、誰もが羨んでいた。


 クローニスの経営手腕は、時としてステークホルダーとの衝突を引き起こしてきた。彼は配当を大幅に削減し、R&D部門への再投資を惜しみなく行った。その決断に対しては、株主からの激しい反発があったことは想像に難くない。しかし、彼の冷徹な判断は、最終的に革新的な成果を生み出した。NANOTRYPA®の開発が実を結んだのは、単なる偶然だろうか?それは疑問だ。彼の潤沢な資金は、「顧みられなかった熱帯病」——アフリカ睡眠病やその他の熱帯病に関する研究に、確信を持って流れ込んでいった。クローニスは、無視されてきた病気こそが、次なる医療革命を引き起こす鍵だと直感的に理解していたのである。


 潤沢な資金の行き先にいたのが、クロノス寄生虫研究部門のトップに立つ、アイダ・リヴィングストンだった。彼女は飛び級を重ね、わずか20歳にして博士号を取得した天才だった。いや、天才というよりかは、彼女は猛烈な努力家だったというほうが正確だろう。彼女の専攻は「トリパノソーマの有するVSGの解析、および生体適合性ナノマシンの開発」だった。トリパノソーマという寄生虫が持つ、ヒトの免疫システムを掻い潜る——あたかも忍者のような——仕組み、それを彼女は地球上の誰よりも熟知していたのであった。


 アイダ・リヴィングストンは、クロノスの寄生虫研究部門の中でも特に注目されていた存在だった。彼女の研究室には、常に最新の技術と情報が集まり、全世界から集められたデータが日々精査されていた。ナノマシン開発の第一人者として、彼女の手には、未だ誰も到達できていない未知の領域があった。その視線の先には、常に「完璧な治療法」があった。


 「トリパノソーマ……」アイダは研究室の大きなスクリーンを見つめながら呟いた。スクリーン上には、トリパノソーマがどのように免疫回避機構を働かせるかが詳細に表示されていた。VSG(可変表面糖タンパク質)という分子が、いかにして免疫システムの監視網をかいくぐるのか。彼女はそれを数千回も繰り返し、解析してきた。その知識が、NANOTRYPA®の礎となっていた。


 クロノスが彼女に求めたのは、ただのナノマシンではなかった。それは、「がんを治すナノマシン」だった。がん細胞という「敵」を見極め、その細胞をターゲットにすることができるナノマシン。それが、アイダに課せられた使命だった。


 トリパノソーマのVSGシステムの秘密に辿り着いた時、アイダの中で何かが閃いた。あの寄生虫が持つ「適応能力」を、がん治療に応用できるのではないかと。もしナノマシンがトリパノソーマの免疫回避機構を模倣できれば、体内で最も危険な敵をも打ち破ることができるかもしれない。そうした思考が、彼女を日夜研究へと駆り立てた。


 クロノスが彼女に与えた資金は、言ってしまえば無限に近かった。無限に近い資金と時間、そして自由な研究環境。その中で彼女は、かつてない速度で結果を出すことができた。最初に開発されたナノマシンは、まだ予想の域を出ないものだったが、それでも、癌細胞にアプローチする可能性を見いだしていた。


そしてついに、NANOTRYPA®が完成した。


 その治療法は、まさに奇跡に近かった。まず、体内に注入されても、トリパノソーマ同様に異物として排除されない。そして、ナノマシンががん細胞に接触すると、数秒のうちにがん細胞の「カモフラージュ」が暴かれ、破壊される。しかし、最も驚くべきことは、この治療が従来の治療法に比べて圧倒的なスピードで成果を上げ、完全寛解率を97%にまで引き上げたことだ。しかもその成果が出たのは、膵臓がんを始めとする、従来治療が極めて困難とされていた疾患においてだった。


「アイダ、素晴らしい。」


 クローニスは研究所に設置されたモニターを目を細めて見つめながら、彼女に声をかけた。彼の声には静かな満足感が漂っていた。「君の研究が、ついに世界を変える時が来たんだ。」


 アイダはその言葉を聞き、胸に湧き上がる感情を抑えきれなかった。彼女の心には、常に冷徹な理性と情熱が渦巻いていたが、この瞬間、彼女は少しだけ人間らしく、喜びを感じた。


 アイダは、技術の成功に喜びを感じつつも、その背後に潜む影に気づいていた。ナノマシンは、絶大な力を持つが故に、誤った手に渡れば制御できなくなる可能性がある。もし、クロノスがこの治療法を軍事転用したり、商業的に過剰な利益を追求したりすれば、すべては彼女の手を離れていく。そしてその結果がどれほど多くの命を奪うことになるか——その恐怖が、アイダを夜も眠れぬ思いにさせた。


 「今の我々には、もう躊躇は許されない。」クローニスの言葉が脳裏に浮かぶ。彼がどれほど彼女を信頼しているかは、言葉以上に伝わっていた。しかし、その信頼の裏には、彼の思惑が隠れていることも彼女は知っている。クローニスは、NANOTRYPA®を世界に広め、その影響力を増すことを目論んでいる。それが、彼の次なる野望であることを。


「全ては、医療の未来を変えるために。」


アイダは静かに呟いた。彼女の瞳には、決して揺るがない覚悟が宿っていた。

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