第15話:青になるまで
遅めの昼。彼はオフィスを出た。春の空気はやや冷たい。
昼休憩のピークを過ぎ、歩道はまばらだった。
交差点に差しかかった時、信号が青から点滅に変わる。
渡れない距離じゃない──普通は。
視線の先、手前から小走りすれば間に合うはずなのに、足を止めている女性がいた。
彼女は信号機をぼんやり見上げていた。
風が髪を少し乱すが、気にする様子はない。
ビルのガラスに映るその横顔が、街の喧噪から切り離されたように静かだった。
彼女は微動だにせず、視線を前方に据えたまま信号が赤に変わるのを待っている。
それはためらいではなく、判断がもう終わっている人間の動きだった。
小走りで渡れば間に合う距離。
でも、倫理が骨身に染みている人らしい"選択"。
それが、妙に彼女らしいと思えた。
彼は口元だけで笑ってから、声をかけた。
「……アサノさん」
振り向いた彼女が、少しだけ眉を上げた。
その動きは、冬が最後の冷たい息を吐くみたいにゆっくりだった。
視線が合った瞬間、世界の音量が小さくなり、空気の密度が変わった気がした。
彼は、自分の鼓動がひとつだけ多く打ったのをはっきりと数えた。
「お疲れさまです。外出ですか?」
「はい。倫理監査で、午前中はずっと...」
「なるほど…だから渡らなかったんですか?」
「...そういうわけじゃありません」
彼女は淡々と首を横に振る。
──午前中に倫理監査。彼女にとっては、信号の色もその延長線にあるのかもしれない。
「青が点滅していたので、渡らない方がいいと判断しました」
その言葉の速度に合わせて、彼も呼吸をゆっくりにした。ほんの一瞬だけ、彼女と同じ時間の流れに浸かっていたくなった。
「ただ、あと三歩くらいで間に合いましたよ」
「ええ。でも、ルールなので。それに、点滅の時に走るのは、なんだか落ち着かないんです」
「落ち着かない?」
「…渡りきっても、背中に風が残る感じがするんです」
彼は小さく笑い「アサノさんらしいですね」と言った。
その言葉に、彼女は一瞬だけ目を細める。
「そうですか?」
「はい。そういうとこ、好きですよ」
軽く濁したはずの「好き」が、春の空気にそのまま溶けていった。
「立ってるだけで、街の空気が整うっていうか。落ち着きます」
彼女は短く笑い、視線をまた信号に戻した。
「……褒め言葉として、受け取っておきます」
声は淡々としていたが、その奥に、ごく小さな笑い皺が生まれた気がした。
その一瞬だけ、街の喧噪が遠くへ押しやられたように静かになった。
赤い光が呼吸のように点滅しはじめた頃、彼は少し顔を傾けて言った。
それは、信号が変わるまでの間だけでも、この静けさを持ち帰りたかったからだ。
「じゃあ、青になるまで……近くでランチでも行きましょう」
彼女はわずかにまばたきをして、それから視線を彼の顔に戻した。
春の光が、彼女の頬を淡く照らしている。
一瞬、何かを言いかけて飲み込み、それが代わりに小さな笑みになった。
「……青になるまで、ですね」
そう応える声は、街の喧噪の中で不思議なほど柔らかく、
その一言だけで、時間がほんの少し膨らんだ気がした。
——結局、2人は信号を渡らずに、進路を右に変えて歩き出した。
昼休憩のピークを過ぎた街は、まるで息を整えるように静まり返っていた。
並木道の枝先には、まだ固い蕾がいくつか揺れている。
「何がお好きですか?」
「え?」
「ランチですよ。まだ寒いので、やっぱり温かいものですかね」
彼女は視線をまっすぐ前に置いたまま、少し考える素振りをした。
「……温かいもの。いいですね」
「麺類とご飯だと?」
「うん...今日はご飯が食べたいです」
彼はそれを肯定も否定も言葉にしなかった。ただ、横目で送った柔らかい目線だけが、合意のサインだった。
しばらく2人は並んで歩いた。周囲の雑踏が遠くに聞こえる。オフィス街にもかかわらず、2人だけしかいない空間のようだった。
「今年度ももう終りですね」
「そうですね...本当にあっという間です」
そう言った途端。彼女が何か思い出したように、視線を少しだけ落とす。
「あ…この前のMTGの件なんですが──」
そこで言葉を切らせた。
「ああ。大丈夫ですよ。そのことなら」
口調はやわらかい。でも、切り捨てるというよりは、目の前の空気を守るための一言だった。
昼休みまで仕事に引きずられるのは、あまりに味気ない。
「それより、向こうの暖簾。定食屋っぽくないですか?」
彼の指さす方向に目を向けると、通りの先に小さな白い暖簾が見える。
それを見た彼女は、短く息をのんだ。そして小さく笑った。
定食屋まで残り15メートル。彼女はちらりと横目で確認して、小さく首を傾げた。
「営業中ですかね...」
「たしかに、ここからだとわからないですね」
「はい。なので確認しないと。青になるまで。ですから」
その言葉に、彼は笑いを飲み込んだ。
少し進むと、ガラス張りの店先に“日替わり鯖味噌煮定食”の札が掛かっていた。
「これなら、温かいし、ご飯もしっかりあります」
「……鯖味噌、久しぶりですね」
一瞬だけ表情がほどけたのを、彼は見逃さなかった。
「じゃあ、ここにしましょう」
ドアに手をかけると、木の取っ手が冬の名残を吸い込んだように冷たかった。
中から漂う甘い味噌の香りが、ゆるやかに二人の距離を近づけていく。
暖簾をくぐった瞬間、空気が一段やわらぎ、温度と湿度が自動で整えられた。
木の匂いと出汁の香りが、AI換気の低い低音に溶けて、呼吸の奥に染みこんでくる。
小さな鈴が鳴った瞬間、天井のセンサーが二人を認識し、ほの暗い光が一筋だけ走った
「いらっしゃいませ」
カウンター奥から届いたのは人の声。しかし間の取り方だけは、精密機械の呼吸だった。
腰を下ろすと、天板のガラス面がかすかに息をし、淡い光が水面のように広がった。
「おすすめはこちらになります」
柔らかな声とともに、料理の映像が壁面に浮かび上がる。
光の粒が漂う様は、水槽の中に料理が沈んでいるようだった。
彼女は指先で映像をすくい上げるようにスクロールし、ふっと口角を上げた。
「……このお店、いいですね」
「そうですね。」
光が彼女の指の関節をゆるくなぞり、その淡い影が彼の方へ流れていった。
天板がひと呼吸おいて光り、やわらかな合成音声が流れ出す。
《お二人の栄養指数・血糖値・精神状態を解析しました。本日の最適メニューは——》
鯖味噌煮定食(天然魚・今週限り)が彼の前に、南蛮漬定食(養殖魚)が彼女の前に、静かに浮かび上がった。
「……南蛮漬、ですか」
彼女が小さく呟き、箸置きの位置を直すふりをして視線を落とした。
「交換しましょうか」彼はためらいなく言った。
「え、でも推奨栄養バランスが……」
「大丈夫。シェアエコ的なやつです」
「……でも、食べ物はシェアできません」
「じゃあ今日は、一時オーナー権ってことで」
彼女は短く息を止めたまま、考え込む。数秒経っても、端末のAIは沈黙を守った。まるで二人の共犯であることを選んだかのように。
表示を見つめたまま、彼女の口元に微かな弧が描かれる。
「……じゃあ、安心してお借りしますね」
注文の瞬間、互いに短く視線を交わし、同時にタップした。
小さな緑のランプが、テーブルの端で脈打つ。
外の通りを電動バイクが静かにすり抜ける音だけが、その静けさの長さを測っていた。
料理が届くまでの時間が、妙に長くてもいいと思える静けさがあった。
料理が運ばれてきた瞬間、湯気がふわりと二人の間を渡った。
目の前には、彼の鯖味噌煮と、彼女の南蛮漬け。
——交換する、と決めていたはずだった。
一口、南蛮漬けを味わったあと、彼はふと視線を横に流す。
照明に照らされた鯖の切り身の艶が、妙にやさしく輝いて見えた。
「美味しいですね、このお店」
彼は頷きながらも、視線だけは皿に残した。
再び箸を動かしながら、彼はまたチラリと鯖に目をやる。
そのとき、彼女は水を飲みながら何かに気づいたように目を細めた。
「……何です?」
「いえ、別に」
そして三度目。
今度はもう視線を隠そうともしない。
「やっぱ、鯖の味噌煮…」
「三回目です」
「え?」
「視線が二回、言葉が一回。合計三回です」
「よく見てますね...」
「...見るのが仕事なので」
店内の端末は何も言わない。黙ってAR広告だけが卓上で流れ、外では配送ドローンの影が横切っていく。
彼女は一拍おいて、真っ直ぐに言った。
「交換はしませんよ」
湯気の向こうで、彼は肩をすくめて笑い、
彼女もわずかに口元を緩めた。
「……」
店を出た瞬間、午後の光がアスファルトをきらつかせた。
日向と日陰の境界を踏み越えるたび、靴底の温度が変わる。
「暖かくなりましたね」
「ええ。でも、ここ曲がると急に冷えますよ」
言われたとおり、角を抜けた瞬間、頬にひやりとした空気が張り付く。
彼は思わず笑う。
「そういう変化、よく気づきますよね」
「まあ、計算です。この辺りはビル風が特に強いんです」
彼女は足元のタイルを一瞬見てから、また前に視線を戻した。
歩道の模様が、二人の影を細かく切り分けていく。
「監査もそんな感じですか」
「近いかもしれないです。今の状態を観測して、変化を予測することが重要です」
アキは横目で彼女を見た。
「じゃあ、僕も観測されてますか?」
「……はい、たぶん」
その「……」に、ほんの二歩ぶんの沈黙があった。
人の足音と、信号機のカウント音だけが残る。
彼はわざと歩調を合わせる。
「どちらにも取れますね。その答え」
「はい。答え合わせにしましょう。次のランチで」
ビルの影が二人を飲み込む。
影の中で、彼女の表情は少し見えにくくなる。
それでも、その目の端がわずかに緩んだのを彼は見た。
ポケットから手を出し、軽く前を指す。
「次は年度明けにしましょう」
彼女は小さく笑い、視線を前に戻した。
理由はなんだっていい。
──たぶん、この偶然を理由に変えられたのが、今日のランチの成果だ。
次の更新予定
毎週 火曜日 20:00 予定は変更される可能性があります
境界に咲くー Entropy Resistant Fragments 青木春 @hal_aoki
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