第4話:彼女の名前を知らない

朝、いつもより少し遅い時間。

カーテンを開ける前から、部屋の照度は「朝モード」に調整されていた。


寝返りの振動で脈拍が検知され、枕元のインナー端末が光量と室温を操作する。


もう何年も、目覚ましの音を聞いていない。

起きるべき時間に、起きるべき状態で、身体が整っている。


便利だった。たしかに。

でも最近は、少し前の方が“眠れた”気がしている。


音声ニュースは勝手に点いていた。

ヘッドラインから今日のトクダネが流れる。


➖ 国民間の『親密度スコア』、過去最高を記録。AIが導入されたペアリング制度が好調」➖


「政府が運用する“対人親密度スコア”の全国平均が、前年度比+1.6ptの上昇。特に20〜30代での上昇が顕著で、専門家は“適切な相性マッチングと、過度な感情起伏の制御が浸透してきた結果”と分析しています。」


アナウンサーがいつものトーンで読み上げていた。

そして場面は街頭インタビューに移る


「親友とは、毎朝スコアを確認してますね。人間関係は大切ですから。とっても便利ですよ?」

いまや人間関係を維持することも、ノルマの一環となっている。


「人間関係が1番響くからなぁ...」

彼はボソッと独り言のように呟いた。

その言葉だけが、室内に残った。


出社すると、空調の音が少しだけ大きく感じられた。

換気も、照明も、心地いい。


プリントアウトの音や人の足音も、そのぶんだけ遠のいていた。


椅子の角度を直し、端末に向かうと通知がきた。

プロジェクトアサインの連絡だ。

──LOG-OMX/Phase3

その下には、柏木という名があった。


(柏木さんから…!)

少し胸の鼓動が奥から熱くなる感覚があった。

一筋縄ではいかない仕様、曖昧な要件定義、部署間の足並みの悪さ。


どれを取っても面倒な案件だった。だが嫌いじゃない。

むしろ、好んで引き受けていると言ってもよかった。


目的から逆算して道を敷くのではなく、そこにある素材──断片──から「何を組めるか」を考える。


与えられたパーツの特性を見極め、最も自然な組み合わせで解決策を構築する。それが仕事のやり方だった。


誰かの設計図ではなく、組織の矛盾と現場の即興性が生んだ「セッション」。


(手触りがある)

彼は添付資料をスクロールする。各所の更新タイムスタンプはバラバラで、仕様欄には3種類の表記が混在していた。誰かが全体を制御した形跡はない。


プロジェクトの規模が大きくなるほど、全体が見えにくくなる傾向にある。

ただ──このプロジェクトは、まだ誰も「全体」としては、触れられていない。


(先に全体を触ったほうが、描けるな)

そんな予感とともに、プロジェクトに着手した。


昼過ぎ、新しいプロジェクトのインプット作業がひと段落したころ。背後から声がした。


「アキくん、この資料、南フロアに届けてくれる?」

関口部長だった。


「紙、ですか?」

「ああ。一部、重要なものはアナログなんだよ、あの部署は」

「了解です」

封筒は薄いが、中身は濃かった。


いまや“紙で渡す”という行為自体が、何かの意思のようにも感じられる。

紙は消えない。編集できない。

だからこそ、残る。

誰が何を“正義”と定義したのか──その痕跡が。

その意味で、紙は“記憶”だった。

電子の履歴は消えるが、紙の皺はずっと残る。


彼はふと考える。

(この部署が扱う“価値観の設計”は、まだ誰にも書き換えられては困るということかな...)



届け先の南フロアの執務室までは2-3分の距離にある。

オフィスを歩き、南フロアの扉を開ける。

同じフロアなのにまるでクライアント先に訪問するような温度が少しあった。


執務室に入ると、整頓されたデスクが目に入った。


そしてそこに座る女性も同時に視線に入る。

動いていたわけではなかった。


彼女がゆっくり視線を持ち上げる。それだけで空気が少しだけ澄んだ気がした。

整ったというのだろうか。

彼女の目がこちらに向かう。

それに触れた瞬間、心地よさと警戒心が同じ速度で走った。鼓動が、半拍だけ遅れたように感じた。


その境界線は、誰のものでもないようで、確かに二人のものだった。

彼女は、軽く会釈をした。距離感、濃淡、温度、いずれも中庸だった。

彼もわずかに会釈を返す。


「お疲れ様です」

「……お疲れ様です」

光の反射で輪郭が柔らかく滲む。

けれど、肩から腰へ流れる曲線だけは異様に鮮明で、視界の奥に貼りつく。


1歩踏み込めば、間違いなくその体温が移る距離。

空気がわずかに温み、胸の奥で何かが膨らむ感覚。

システムはきっと拾わない。だが、確かに在る熱だった。


彼は、すぐに目を逸らした。

そして、ふと“この人の名前を知らない”ことに気づく。

それなのに、忘れられない感触だけが、なぜか残った。


資料を届け、デスクに戻ると、社内の広報資料が通知されていた。

特集タイトルはこうだった。


《部門間連携のキーパーソンたち──Vol.4:朝野 雪》

──あれが、アサノさん。

顔くらいは知っていた。かもしれない。

言葉を交わすのは今日がはじめてだった。それはたしか。


広報用に加工された写真は、現実よりも穏やかだった。

それが、少しだけ意外に感じた。


数席隣のカトウが、ぽつりと呟く。

「……この人、天才らしいですよ。倫理設計を全部一人で組んでるって……」

「誰が?」

「アサノさんです。倫理評価設計のフェーズ2、全部やったって」


「すごいよな。でも話しかけづらいわ。うちの上層部も“特別枠”って言ってたし」

小鳥遊が笑いながら言う。


「あそこまで行くと、もう“個人”ってよりそのものだろ」


倫理設計──

それは、“誰を未来に残すか”を決める作業だった。

その線引きは、論理ではなく、思想に近い。

だからこそ、通常は複数人で議論し、数か月かけて煮詰める。

たった一人で行うなど、常識的にはありえない。 


(全部、一人で──?)

仕組みを組むのではない。価値観そのものをデザインするのだ。

それを、誰にも委ねず、一人で担った。

その重さに、ようやく実感が追いついた気がした。


けれど彼女“本人”のことを誰も知らない。少なくとも小鳥遊とカトウには。

“成果”だけを知っている。

だから、“距離”だけが、先に定義されてしまう。


彼はそれを聞きながら、画面の中の“朝野 雪”をもう一度見た。

さっき目を合わせたのは、ここにいる“人物”のはずなのに、

なぜか、少しだけ違う存在に感じられた。


成果が人格を超える──

それは、便利で、残酷だった。

さらに、彼女とのやり取りの中には、成果を訴えるような痕跡はなかった。

その静けさが、いちばん恐ろしい。


帰り道、いつもの大通りではなく、少しだけ細い路地を選んだ。


夕方の光が斜めに差し込む中、レンガ調の小さなカフェが目に入った。

看板は控えめで、スマートマップにも登録されていないような佇まいだった。


ガラス張りの窓際に身をやると、奥に彼女の姿が見えた。

彼女は文庫本をめくりながら、コーヒーを飲んでいる。


指先の動きは丁寧で──時折、ページを戻すしぐさが、妙に人間くさかった。

その静けさに、空間の輪郭が変わるような錯覚を覚えた。

空気がわずかに甘く、喉に絡みつく。


彼は、そのまま視線を逸らして歩き出した。

目が合ったわけではない。気づかれたわけでもない。

でも、見てはいけないような気がした。


帰りの電車。彼女の視線と、カフェの影が重なって頭から離れない。

気づけば、端末でLiMEを検索していた。

今は存在しないはずのアプリ。当然、明確な回答は帰ってこない。


ただ、アクセスには“物理ルーター”が必要だと気づいた。

「あー、そもそも論だよな」

「明日金曜日だし、寄ってくか」

新宿から秋葉原まで、乗り換えなし。

探しものをするには、ちょうどいい距離と場所だ。


夜、布団に入ったあと、ふと思い出してカフェを検索してみた。

店の外観を思い浮かべながら何度か打ち直すが、明確な情報は出てこない。


おすすめ店や評価順リストばかりが画面に並ぶ。最近は味よりも接客が重視されているらしい。

あの場所だけが、どこにもなかった。


照明がゆっくりと暗くなる。

脈拍に合わせて、部屋が沈んでいくように。


どこかでログが送信された。眠りの準備が整った合図だった。

それでも、布団の中で彼は小さくつぶやいた。

「……今度、行ってみるか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る