第3話:神はいない?
目を覚ましたのは、アラームではなく、窓の外の光だった。
曇り空は、測光計で測ったような均一の白で、部屋全体を淡く塗りつぶしていた。
時間の境目が曖昧なまま、彼はベッドの端に腰を下ろし、カーテンを半分だけ開けた。
部屋の空気が、わずかに冷たく感じた。
キッチンへと足を運ぶと、手元の端末が声を発する。
〈血圧、脈拍、体温、呼吸数、血中酸素飽和度、意識レベル……本日も正常値です。
ちなみに、昨日“笑顔を見せた回数”は2回でした。全国平均は3.6回ですので、今日はあと2回は笑いましょう。〉
自分より自分を理解している、この小さなAI。
そろそろ「自分が何者か」も教えてくれそうだった。
ただ絶妙に的外れな、提案をしてくる時がある。
音声ニュースが次のトピックに移る。
「今朝の特集は、“好きって何?”2045年・恋愛価値観の境界線です!」
ピンクの背景に浮かぶ「共感スコアで相性マッチング」
画面ではタレントが「ログスコアが低い男性は、ないって思っちゃいます❤︎」と笑っていた。
その笑いに呼応するように、スタジオ全体が同期した呼吸を見せていた。賑やかで、どこか軽い朝。
「朝から濃いな……」
ナノミールを口にくわえ、ぼそっと漏らす。
ミュートしようか迷ったが、そのままにした。
“こういう番組も、なくはない”──
そう思えるうちは、まだ大丈夫かもしれない。
午前。向かいのデスクから、カトウがそわそわと端末を抱え、机へと近づいてきた。
「あ、あの……アキさん、ちょっと資料、見てもらってもいいですか」
声が上ずっていた。
サムネイルが7つ。どれも「最終案_仮」のまま。
「どれが最終?」
「……一応、全部……」
彼の中で、小さな“バツ印”がカチッと鳴った。けれど、それを顔に出すことはなかった。
これは、“提案の輪郭”が固まっていない時の典型。
「そもそも、構成どうなってる?」
「……“倫理監査”と“ログ遅延防止”がテーマでして……」
「じゃあ、4ページ目のグラフ、必要?」
「……あ、いらないかも……」
カトウは指を浮かせたまま、迷っていた。触れることすら、ためらうように。
彼はカトウの余剰を削り取っていく。
「意図が先にあるなら、要素は減らしていい。
削った分だけ、届くこともあるよ」
「減らす……?」
「たくさん載せると、選べなくなるから」
カトウの指先は、画面の上で2秒以上迷ってから、ようやく不要なグラフを消した。
まるで同期が遅延して、ようやく命令が反映された端末のようだった。
「ありがとうございます。なんか……目が、覚めたかも」
その声に、ほんの少し、救いを求める響きが混ざっていた。
「まだ眠ってたのか」
冗談のつもりだった──でも、カトウの真顔に、思わず息をのんだ。
思った以上に、深いところで、彼は迷っていた。
その瞬間、机の紙が空調の風でわずかに揺れた。……角度は、5度未満。
そのわずかな傾きが、彼の視界にだけ、はっきりと映った。
「カトウ、またやらかしたか?」
マグカップ片手に、小鳥遊が現れる。
「いえ、アキさんにフィードバックいただいてて…」
「そっか。気をつけろよ〜。次ミスったらまたスコア下がるかもしれないからな」
「え、小鳥遊さん、縁起でもないことを…」
「小鳥遊じゃねぇ、翔だ。あと、縁起じゃねえよ。神様はいない。あえて言うなら規範だろ」
新宿倫理特区。いや、今の日本ではそれが事実だった。
行動は“リアルタイム倫理プロトコル”により逐次スコア化され、優先度アルゴリズムが即座に更新される。
道を譲れば加点、視線を逸らせば減点──判定はAIが行い、異議申立は不可。
公共サービス、医療、住宅ローンの金利すら、その数値で変動する。
神はもういないが、規範はあらゆる場所で息をしていた。
「成功すればスコアは上がる。失敗したら下がる。単純な話だっての」
彼は言いながら、右手で上下のジェスチャーをしてみせた。
上がるか、下がるか。
カトウの姿勢は、少しだけ崩れたままだった。
「カトウ、困ったらまたいつでも言ってよ」
彼は、フォローのつもりで言った。
けれどそれは、小鳥遊の言葉よりもずっと現実的な励ましだった。
たぶん、神はいない。けれど、それでも人間関係は残っている。
そういう“温度”が、まだオフィスには微かに残っている。
やりとりの間に、未読通知が70件溜まっていた。けれど中身はどれも重要ではなかった。
夜。旧型スマホがようやく起動した。
朝の充電で、かろうじて蘇生した端末。
起動した旧型スマホの画面が、一瞬だけ脈を打つように青く光った。
「バッテリー容量27%……案外もつな」
アプリ一覧の中央。LiMEの緑のロゴは沈黙したまま、画面に沈んでいた。
懐かしいような...。でもどこか質感の違う緑のロゴ。
タップはしなかった。通知も、何も届いていない。
ただ、そこに“ある”。
それだけのことが、今日は妙に気になった。
その夜、未送信のログがまたひとつ積み上がる。
それは都市の光が作る影のように、誰にも観測されないまま残った。
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