第002話 先払い

 とにかく廊下では話ができないので、中へ入ってもらった。

 四つある椅子のうち、テーブルを挟んだ向かい側に会長とライネルが座り、リディルが俺の横に座る。

 一時代を築く英雄が三人。

 万年凡人Cランク冒険者の家で、一体いくつの時代を築くつもりなのだろう。

 ああ、胃が痛くなってきたな。仕事でもないと、耐えられん。


「凄い本だね。遠征の記録、動物・魔物・植物の生体、魔石、魔術に錬金術、地理に歴史書、心理学から経済学まで、学術と呼べるものはほぼ揃ってる。でも『猿でもできる手品入門』っていうのは必要なの?」

「俺は無魔なんで、ちょっとした小細工でもないと生き延びれないんですよ」

「ふ~ん、聞いていた通り、熱心な人なんだねぇ。僕とは正反対だぁ」


 気の抜けた様子でライネルが部屋を見渡していると、リディルが無言で布袋をテーブルの上に置いた。

 中にはリンゴがゴロゴロと入っていた。


「これは……」

「食べたそうにしていたから」


 そんな様子をこの人に見せた覚えはない。

 もしかして、千里眼か? 市場での俺を、覗いていたのだろうか。


「あと、これ」


 俺の手の平にリディルが置いたもの、それは一枚の傷だらけの銅貨だった。


「カラスから取り返しておいた」


 ああ……絶対に千里眼で見てたんだな。俺のこと、ずっと前から……。

 怖いのか、こんな美人に注目されて嬉しいのか、よくわからない感情が胸をざわつかせる。

 いや、やっぱり怖いな……この人。


「こうやってちゃんと話すのは、初めてだったかな?」

「え、あ……は、はい」


 会長の声に、俺は曖昧な返事をした。

 若い頃には幾度ともなく世界を救ったとか、国王ですら頭が上がらない大剣豪だとか、逸話には事欠かない人だ。一部は英雄譚のように語られていて、子供の頃には子守唄代わりに寝る前に聞かされていた。

 そんな生ける伝説が、「ニヤァ」と笑みを浮かべて言う。


「単刀直入に言う。お前に『勇者パーティを魔王城まで案内する役目』を任せたい」

「………………は、はぁああああああ!? お、俺がですか!?」


 撤回するなら今のうちだぞ、という意志を伝えるためにしばらく黙っていたけど、会長たちは俺が落ち着くのを待っているようだった。


「いや、あのぉ……これって、何かのドッキリですか? 俺、今ちょっと忙しいんですよね」


 簡単にできるバイト、見つけないといけないし……。


「ん? 部下にはお前の仕事は全部キャンセルするように言っておいたんだがなぁ」

「遠征に行けなかったのは、アンタらのせいかよ!?」


 つい語気が荒くなった。

 目の前にいるのが偉人であることを思い出して、咳払いで誤魔化す。


「何で自分が、という顔をしているな」

「そりゃ当然でしょう……俺は無魔ですよ? 特別なことなんて何もできない凡人です」

「でも、君には状況を覆せるだけの知識がある。仕事を果たすためなら、自分の命を捨てることも厭わない気概がある。勇者たちを正しい道へ導くのに、君以上相応しい人はいない」


 正面を向いたまま、隣のリディルが呟いた。


「そうリディルが特務大臣の前で進言した結果、鶴の一声で案内役がお前に決まった」


 お前のせいかよ!?

 こんなとんでもないことを押し付けておいて、何でそんなに平然としてらえるんだよ!?


「元々はここにいるライネルが引き受けるはずだったんだ。魔術が使えるから、サポート役にもピッタリだったしな。でも……」

「僕って基本ソロ派で、誰かと遠征に行くとかチョー面倒くさいの嫌いなんだよねぇ~」


 お前はもっとやる気出せよ……世界の一大事なんだぞ……。


「あのですね……アークテイルさんは俺のことを買い被り過ぎなんですよ。無魔の俺は魔術も魔力体術も使えません。ダークウルフ一匹にだって、自力じゃ勝てないんですから」

「心配するな。今回の依頼に戦闘力は関係ない」

「え……」

「魔物なら勇者たちだけでどうにでもなる。今回のサポート役に求められているのは、あくまでも道案内だ。遠征に必要な知識と、どんな状況でも仕事を投げ出さない胆力があればそれでいい」


 説明は理路整然としていて、理屈の上では納得できてしまう内容だった。

 ところがどっこい、俺は騙されない。

 勇者の遠征なんて、常に死と隣り合わせの危険な旅に決まってる。会長の言う「心配するな」とは、勇者パーティの中に回復・蘇生魔術を使える奴がいるから、何度でも死んで蘇れと言う意味だ。

 この話は最初から、俺の心が壊れるのが先か、魔王城に到着するのが先かの問題になっている。


「報酬は一億アーディ」

「一億……」

「世界を救う重大な役目だ。それくらいの報酬は出る」


 巨額の報酬が、依頼の難易度を証明している。

 伝説の冒険者も交渉は苦手らしい。俺のやる気はさらになくなった。


 ──断るべきだ。


 会長に逆らったらいよいよ仕事がなくなりそうだけど、心が壊れるよりはずっとマシだろう。

 女神フレーデルだって、心までは癒してくれないのだから。


「すみませんが、やっぱり俺は請け負う気にはなれません。完全に役不足ですし、もっと相応しい人材が他にいるはずです。俺より強くて賢い冒険者を探してください」

「ん~自信がないということか……そりゃ困ったなぁ……。他を当たれと言うが、それが居たら苦労しないんだよなぁ」


 退屈そうな顔をした会長は、「あ、そうだ」と楽しいことでも思い出したみたい言う。初対面の俺でも、この手の顔には嫌な予感がする。


「成功した暁にはリディルと結婚できるぞ?」

「は?」


 思わず、また生意気な口調になってしまった。

 ありえない。結婚が報酬なんて仕事、聞いたことがない。

 報酬が不足しているとか、仕事の対価として見合わないと言っている訳じゃない。

 このリディルだ。これほどの美人、報酬として十分に成立するに決まってる。

 ただ、Sランク冒険者が自分を報酬として身売りする理由が思い浮かばなかった。


「リディルはお前に惚れちまったらしい。いやぁ何があるのかわからないねぇ、人生ってものは」


 ん? リディルが、俺に惚れてる? 

 そういえば、俺のことが嫌いだったら千里眼でずっと覗いたりしないよな。リンゴも買ってきてくれたし、お金も取り返してくれた。なんかよくわからないけど、必要以上に俺を過大評価してくれてるし……あれ? そういうことなの?

 いやいやいや、何を考えてるんだ。童貞心を暴発させるんじゃない。必ず痛い目を見るぞ。


「そんなことを言った覚えはない」


 リディルは淡々と否定した。

 あぶねぇえええええ!? 喜ばなくてよかったぁああああ!

 このおっさん、色仕掛けで俺を口説き落とそうとしたな? やはり伝説だろうと中身は冒険者。隙あらば有利な条件を掠め取ろうとする。上品さなんて、あったものじゃない。


「でも、別にそれは構わない」

「え?」 「え?」 「……え?」


 俺とライネル、言い出しっぺの会長までもが、それぞれ間で、声を溢した。


「勇者パーティを魔王城まで導けたら、君と結婚してもいい」


 リディルは表情一つ変えずに、俺を見る。

 少しでも気を抜けば踏み外しそうな誘惑。なんという恐ろしい罠だろう。

 俺がちょっとでもその気になったら、城壁に設置された魔術砲台アークキャノンが、全方位から集中砲火してくるに決まっている。後には灰も残らない。

 正面から戦ってはいけない。冗談には冗談で返すのが手っ取り早い。それが世渡り上手ってものだ。


「あははー、嫌だなぁ。そんな冗談言ってると俺みたいなモテない男は真に受けちゃうんですよ?」

「いいよ、真に受けて。私は迷惑だとは思わない」


 なんなんだよ、その真顔は。世界を見透かすような、その瞳は。

 Cランク、凡人、無魔、家賃二万の家に住む貧乏人。それが俺。それがルーファス・ロッドウォーカーの誇り高くも平凡以下が約束された人生。

 顔も容姿も実力もSランクの超お金持ちの英雄。天から舞い降りてきたみたいな人生を歩むリディルが、地を這うナメクジと結婚するって、どんな罰ゲームに付き合わされてるんだよ。

 もしくはこういう筋書きもあり得るだろう──


「あーなるほどね! 俺が魔王城に辿り着く前にこの世からいなくなると思ってるんだ。なかなか冷徹な考えをお持ちのようだね、アークテイルさん。流石はSランク冒険者だ。交渉一つも抜け目ない」

「それなら、誓いのキスをしましょう」

「……どういう理屈でそうなるんですか? というか、何を誓うんですか?」

「私は『君が必ず勇者たちを魔王城へ導いてくれる』と信じてる。だから、


 肩が密着する程、リディルは体を寄せてきた。

 

「君が嫌でなければ、動かないで……」


 え、なに? どういうこと? どういうボケ? どういうフリ?

 誰かが突然部屋に乱入してきてドロップキックを俺にお見舞いするとか、実は全てが幻術で、キスした瞬間に会長に切り替わるドッキリとか、そういう感じなの?

 ゆっくり、リディルは近づいてくる。俺の太ももに手を乗せ、体重を預けてくる。

 こっちが目を閉じた瞬間に額にデコピンされて、「やっぱりキスは任務を達成するまでお預けね」とかって言いながら、可愛く笑うっていう筋書きか?

 あざといハニートラップ。

 事前に覚悟しておかなきゃ、童貞の自制心では耐え抜けないかもしれない。

 ああ、やばい……あの匂いだ。甘くて柔らかくて、優しい匂い。耳をつんざく雷鳴も、雨の冷たさも、心臓にへばりつく死の余韻すら一瞬で忘れさせてくれた匂いが、気を遠くさせる。

 リディルはまだ、近づいてくる。

 視界一杯に映っても造形の美しさが変わらない顔面。きめの細かい白い肌には、一片の皴もない。

 俺の顔にリディルの温かい吐息が当たる。なんだろう、もうこの時点で止めても、ちょっとしたご褒美みたいなものは頂いてしまっている。

 というか早く誰か止めろ! 頼む、止めてくれ! 止めろぉぉぉおおおおお!


「…………………………………………………」


 美人の唇が、ナメクジ野郎の唇に触れた。

 一、二、三、四、五、六、七、八、九秒……。生まれてから今までの苦難、困難が塵と化すくらいに濃密な九秒を経過させ、匂いは離れていった。


「これで私と君は夫婦ね」

「ふ、ふ、夫婦……」

「なんと呼べばいい? ルーファス? あなた? それとも旦那様と呼んだ方がいいかしら」

「ど、どこまでふざけるつもりなんだ!? 人の純情を弄ぶのもいい加減にしろ!」

「私は冗談で結婚を申し出るような人間じゃない」

「……」

「嫌でなければ動かないでと私は言った。冗談だと思うなら、どうして君は動かなかったの?」

「う……」

「少なからず、私との結婚をよく思ってくれたからではないの?」

「ううう……」

「報酬の先払いを受け取ったからには、君には果たすべき義務があると思うのだけれど」

「………………………………………………………………………………」


 や、やっちまったぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!


 何で俺はボーッとして、身動き一つとれなかったんだ!?

 くそっ! まんまとしてやられた!

 どうせこんなものは形だけ。

 やはりさっき考えた通り、リディルは俺が魔王城に辿り着く前にこの世からいなくなると思っているんだ。

 俺が仕事を失敗すれば、全ての契約は破棄される。婚約したって問題ないわけだ。

 交渉を締結させるためならキスも厭わないなんて……完全にSランク冒険者の度量の大きさを見誤っていた。

 凡人と評価できるかも疑わしいCランク冒険者では手も足も出ない。

 美人とのキスで舞い上がってしまって、モテない男のキモさが浮き彫りになっている時点で、俺の勝算はゼロに等しかったのだ。

 魔王城への片道切符を受け取ってしまった俺は、腕で顔を覆いシクシクと男泣きをした。


「ねぇ、ライネル。どうして私のフィアンセは泣いているの? 結婚って、もっと華やかなものではなかったの?」

「う~ん、そうだね。決断力があり過ぎるっていうのも、時として問題になるってことかな」


 彼女はどういうつもりでそんな質問をしているんだろう。会長とライネルのちょっと引き気味の表情を見れば、男の性を弄ばれたのは明白だ。

 『ほんの数日の間だったとしても、私との結婚生活をもっと喜ぶべきでしょう?』と言いたいのだろうか。

 それとも、『たとえ死んでも私の夫のまま死ねるんだから、光栄に思いなさいよ』ってことなのか?

 美しい女性には棘があるっていうけど、そんな生優しいものじゃない。

 目的のためなら手段を選ばない。氷のような女性だ。

 せめて……せめてあの唇の柔らかさと、甘い匂いだけは忘れないでおこう。

 ファーストキスの相手が世界一の美女だった。

 それを忘れずにいれさえすれば、どんな困難に直面しても、俺はきっと後悔しないはずだから。



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