第18話 香織vs美咲 1980年の熱情 キャットファイト
## 1980年の熱情
1980年のある梅雨の晴れた午後。都心から少し離れた古びた木造アパートの一室。壁には薄いピンク色のペンキが剥がれかけた跡があり、ブラウン管の小さなテレビからは流行歌が微かに漏れていた。その空間で、香織と美咲――かつては親友だった二人の日本人女性が、互いの人生とプライドを賭けて激しくぶつかり合っていた。
「あなたなんか友達じゃない! 大嫌いなのよ!」
甲高い叫び声とともに、香織の長い黒髪が振り乱された。その美しい顔は怒りに歪み、目の下には疲労の影が落ちている。
「うるさいわね! 私だってあんたのことなんて最初から信用してなかったわ!」
応える美咲の瞳にも憎悪の炎が燃えていた。二人とも白いワンピースを身につけていたが、既に香織の服の袖は裂け、美咲の襟元も大きく開いてしまっていた。
争いの発端は些細なことだった。数時間前、香織が美咲の特別なブレスレット――美咲が愛する男性から贈られた唯一無二の品――を誤って床に落としてしまい、それが完全に砕けてしまったのだ。だが、その出来事は長年にわたる二人の間に蓄積されていた感情の爆発点となった。香織の仕事上の冷たい態度、美咲の恋人に対する独占欲……全てが雪崩のように押し寄せていた。
「あんたみたいな打算的な女と付き合ってるのが馬鹿だったわ!」
香織の拳が空を切り、美咲の頬を捉えた。乾いた音が狭い部屋に響き渡る。
「痛っ……! よくもやったわね!」
負けじと美咲も手を振り上げ、香織の肩を掴む。二人はもつれ合いながら畳の上に倒れ込んだ。
「私が何をしたっていうの? あなたが勝手に私の物を壊したんじゃない!」
「だから謝ったでしょ!? そんなことでいちいち怒らないでよ!」
言葉とは裏腹に、二人の肉体は激しく衝突し続けていた。香織は美咲の髪をつかみ、強く引っ張る。痛みに耐えかねた美咲は香織の首筋に歯を立てた。鋭い痛みに香織が悲鳴を上げる。その隙に美咲は香織の胸ぐらをつかみ、力任せに引き倒した。白い生地がぴりっと音を立てて破れ、香織の豊かな胸元が露わになる。
「見てなさいよ! あなたなんかに負けないんだから!」
劣勢を感じた香織が突然態度を変え、美咲の胸元に指を這わせた。予想外の動きに美咲の体が一瞬硬直する。
「何をする気!?」
その反応を見て香織は不敵に笑うと、さらに深く指を滑らせた。
「ふふ……あなたの体も綺麗ね。でも、これであなたも終わりよ」
しかし、それは一瞬の混乱でしかなかった。次の瞬間、美咲の怒りは頂点に達し、香織の腹部に容赦ない膝蹴りを叩き込んだ。
「最低よ! こんなことまでして……絶対許さない!」
苦痛に呻く香織を押しのけ、美咲は立ち上がると足元にあった花瓶を振り上げた。反射的に香織がそれを払いのけると、花瓶は壁に当たって大きな音を立てて砕け散った。飛び散った水と破片が二人の肌を汚す。
「これでも食らいなさい!」
今度は香織が近くにあった洋服掛けをつかんで振り回した。美咲はかろうじてそれを避けたが、バランスを崩して畳の上に倒れ込んだ。
「卑怯者! 武器なんか使うんじゃないわよ!」
起き上がりながら美咲が叫ぶ。二人は再び距離を縮め、至近距離での取っ組み合いが始まった。
長い攻防の中で、二人の体にはいくつもの痣や擦り傷ができていった。香織の白い太ももには赤い爪痕が刻まれ、美咲の頬には涙のように血が流れていた。それでも二人は止まらなかった。むしろ、お互いの弱さや脆さを見せつけられるたびに、憎しみは増幅していった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。二人の息は荒く、汗と涙で化粧はすっかり流れ落ちていた。それでも香織は最後の力を振り絞り、美咲の首に両手をかけた。
「これで終わりよ……! 私が正しかったってことを思い知りなさい!」
しかし、次の瞬間、美咲の鋭い肘打ちが香織のみぞおちに入った。予期せぬ強烈な一撃に香織の体は折れ曲がり、畳の上に崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……これで……終わりにしてあげるわ……」
肩で息をしながら美咲は立ち上がった。足元には敗北した香織が横たわり、苦しそうに咳き込んでいる。
「二度と私に関わらないで……」
そう言い放つと、美咲は踵を返し、部屋を後にしようとした。だがその時、背後からかすかな声が聞こえた。
「……絶対に……忘れないわよ……あなたの……顔…」
美咲は振り返らずに歩き続けた。廊下に出ると、閉め切った部屋の中から微かな啜り泣きが聞こえてくるような気がしたが、それはおそらく聞き間違いだろう。二人の間には最早友情も愛情もない。あるのは深く根付いた憎しみと、消えない傷跡だけだった。
外に出ると湿った夏の空気が美咲の肌を包み込んだ。アパートの窓を見上げると、一つの窓に人影があった。香織だ。窓際に座り込み、こちらを見下ろしている。その目にはまだ憎悪の光が宿っていた。
美咲は何も言わず、ただ冷たく微笑んだ。
「永遠にお別れよ」
口には出さずに呟くと、美咲は振り返らずに歩き出した。二人の間にあったものは、こうして完全に崩壊したのだ。二度と修復されることはないだろう。
## 裏切りの再来
あれから五年が過ぎた。1985年。街の景色も人々のファッションも少し変わったが、あのアパートのあった場所には新しいマンションが建ち、過去の記憶を塗り替えようとしていた。
その日、香織は久しぶりにかつて住んでいた地域へと足を運んでいた。共通の友人だった佐藤さんの告別式のためだ。佐藤さんはかつて二人の仲裁役のような存在だったが、今は癌で亡くなった。香織は喪服に身を包み、深い悲しみと共に昔のアパートがあった場所を見上げた。
式場に着くと、香織は胸騒ぎを覚えた。受付に見覚えのある後ろ姿があったからだ。肩までの長さに整えられた髪、タイトなパンツスーツ。かつての親友であり、今は天敵と呼べる存在──美咲だ。
「……来てたのね」
香織が低い声で言うと、美咲はゆっくりと振り返った。化粧は薄くなっていたが、相変わらず整った顔立ちは変わっていない。
「あなたこそ。てっきり来ないと思ってたわ」
その声には明らかな棘があった。
式が終わると、他の参列者が去っていく中で二人だけが残された。沈黙が重くのしかかる。
「……あの人は優しい人だったのにね」
先に口を開いたのは香織の方だった。
「そうね。私たちのこともよく心配してくれたわ」
美咲の声には複雑な感情が混じっている。
「ねぇ」
突然香織が声を震わせた。「あなたが……あなたがもっと早くあの人に相談していれば……」
そこまで言って言葉を詰まらせる。五年前のあの事件──ブレスレットの破壊を巡る争いで、佐藤さんがどれほど心を痛めていたかを思い出す。
「……何よ、また私のせいにする気? 私はただ自分の気持ちを正直に言っただけ」
美咲の眉間に皺が寄る。
「でもそれが全ての始まりだったじゃない!」
香織が声を荒げる。二人の周りの空気が緊張に満ちる。
「大体ね」美咲が鼻で笑うように言った。「今のあなたの生活の方が信じられないわ。旦那さんと子供たちのために身を粉にして働いてるって聞いたけど……」
その言葉に香織の表情が硬くなる。
「だからどうしたのよ? 安定した幸せを手に入れることが悪いこと?」
「悪くはないわ。でもあの時の情熱はどうしたの? 自分の夢を追いかけるって言ってた香織はどこに行ったのよ!」
美咲の目に憐れみのような光が浮かぶ。
その瞬間、香織の中で何かが弾けた。美咲の腕を掴むと、「もう我慢できない!」と叫んだ。二人はそのまま庭園の方へと引っ張り合いながら移動する。周囲の人々が驚いて振り返るが、二人にはそんなことは見えていない。
「離しなさいよ! あなたなんかと関わりたくないって言ったでしょう!?」
美咲が香織の手を振り払おうとする。
「それなら最初から余計なこと言わないでよ! 今の私は幸せなのよ!」
香織が美咲の胸ぐらをつかむ。白いブラウスがきしきしと音を立てる。
「嘘よ! 本当は自分の才能を潰してることに悩んでるくせに!」
その言葉が香織の急所を突いた。彼女の手が一瞬緩む。だがすぐに反撃に出る。
「あなたこそどうなの!? 有名デザイナーになったって聞いてたけど……」
香織の声に非難の色が滲む。「最近は仕事が減ってるみたいじゃない」
今度は美咲が言葉に詰まる番だった。確かに最近の彼女はスランプに陥っていた。
「何よ……人のことばかり覗いて……」
その言葉と共に美咲の手が香織の頬に向かって振り下ろされた。乾いた音が響く。
「ふざけないでよ! あなたなんか……!」
香織も即座に反撃し、二人は本格的な取っ組み合いに発展した。お互いの髪をつかみ、引っ張り合う。香織の爪が美咲の頬を引っ掻き、美咲の指が香織の腕に食い込む。
「こんなはずじゃなかったのに!」
香織が泣きそうな声で叫ぶ。
「私もよ! でもあなたが邪魔をするから……!」
美咲の声も震えていた。
その時、遠くから「何やってるんだ!」という男性の声が聞こえてきた。係員の一人が駆け寄ってくる。二人は同時に相手を突き飛ばし、距離を取る。
「大丈夫ですか?」
係員が心配そうに尋ねる。
「ええ……大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
美咲が平静を装って答える。
香織は顔を伏せたまま何も言わなかった。その姿を見て係員は「医務室に行かれますか?」と申し出たが、美咲はそれを断った。
「いえ、本当に大丈夫ですから。ちょっと古い知人と意見の食い違いがあっただけです」
そう言うと美咲は香織の方を睨んだ。「行きましょう」
香織も無言で立ち上がる。二人の間には以前よりも深い亀裂が生まれていた。そしておそらく、この亀裂は一生消えることはないだろう。
二人は黙って葬儀場を後にした。同じ方向へ歩きながらも決して視線を合わせようとしない。
「次に会うときがあれば……」
突然美咲が呟くように言った。「その時はもう一度徹底的に話しましょう」
香織は何も答えなかった。ただ心の中で誓った。次に会うときは、きっと今日以上の憎しみを持って臨むのだと。
二人の背後で葬儀場の扉が静かに閉まっていく。それはまるで、二人の間に閉ざされた過去と未来の扉のようだった。
## 浴槽の底で踊る憎悪
1986年冬。香織が暮らす小さなアパートの浴室に湯気が立ち込めていた。一人暮らしを始めたばかりの香織にとって、久しぶりの贅沢な入浴タイムだった。疲れた体を温かいお湯に沈め、彼女は目を閉じた。
その時だった。
「鍵かけてないの?」
突然響いた声に香織は凍りついた。恐る恐る目を開けると、脱衣所に美咲の姿があった。手には買い物袋を提げている。
「……どうしてここにいるの?」
香織の声は震えていた。二人の家は隣同士だったのだ。引っ越してきた美咲は知らなかったらしい。
「ごめんなさい。鍵がかかってないと思ったから……」
美咲は申し訳なさそうに言ったが、その目は笑っていない。
「出て行ってよ」
香織は顔を紅潮させた。恥ずかしさと怒りが入り混じる。裸の自分と、完璧に着飾った美咲。その対比が惨めだった。
「でもね」美咲は浴室に入ってきて戸を閉めた。「偶然とはいえ会えたんだから」
その言葉に香織の血が逆流する。
「会いたくないって何度も言ったでしょう!?」
湯船から立ち上がろうとするが、美咲が素早くタオルで体を覆った。そのまま香織は湯の中に戻るしかない。
「落ち着いて。私も謝りたかったのよ」
美咲の声は冷ややかだった。「あの日のこと。あれは私も少しやりすぎたと思ってる」
嘘だ。香織は直感で分かった。
「……出て行って」
その時だった。美咲が突然行動に出た。買い物袋から取り出したのは……まさかの液体石鹸だった。それを浴室全体に撒き散らす。
「何するの!?」
香織の悲鳴が狭い浴室に響く。床一面が泡に覆われていく。
「ちゃんと話し合いましょう」
美咲は妖しい微笑を浮かべた。「二人きりだし、誰にも邪魔されないわ」
香織は悟った。これは単なる再会ではない。新たな戦いの開始なのだ。
美咲は服を着たまま浴室の扉を閉めた。蒸気に覆われた空間は一気に緊迫感を増す。
「あなたの人生に私が必要なんだって教えてあげる」
その言葉と共に美咲は香織に向かって石鹸を投げつけた。それは見事に香織の額に当たり、割れて粉々になった。
「やってくれるわね!」
香織は反撃に出た。お湯を汲み上げて美咲に浴びせる。服が濡れ始めるが、美咲は平然としている。むしろ喜んでいるようだった。
「ほら、もっと本気出して」
美咲の挑発に香織はついに我慢できなくなった。湯船から飛び出し、泡だらけの床に足を取られそうになりながらも美咲に突進する。
「離れろ!」
香織の拳が美咲の頬に命中。美咲がよろめく。その隙に香織は相手の服を掴む。
「いい加減にして!」
美咲も負けじと反撃。香織の髪を掴み、頭を揺さぶる。二人は浴室の床で絡まり合い、転げ回った。泡とお湯が跳ね上がり、タイルの上で滑る。
「あなたなんか友達じゃないって言ったでしょう!」
「だから何!? 今さら何を期待してるのよ!」
お互いを罵倒しながら、二人の体は濡れそぼっていく。美咲のジャケットが水を吸って重くなり、香織のバスタオルはほとんど意味を失っていた。
「ずっと私を妬んでたんでしょ? 才能がある私のことが羨ましかったんでしょう?」
美咲の言葉が香織の神経を逆撫でする。
「違う! あなただって本当は寂しかったくせに!」
香織が返すと、美咲の顔色が変わる。
「黙れ!」
美咲は香織の首を絞めるように腕を回す。呼吸が困難になり香織の顔が青ざめる。だがすぐさま香織も反撃し、美咲の腕に噛みついた。
「痛っ……!」
美咲の腕が緩む。その隙に香織は相手の体を押し倒し、浴室の床で馬乗りになる。美咲の濡れたシャツのボタンがいくつか弾け飛ぶ。
「これが現実よ!」
香織が叫ぶ。美咲は唇を噛み締める。二人の呼吸は荒く、泡立った水面のように波打っている。
「まだ終わってないわよ……」
美咲は突然身を起こし、香織を横に薙ぎ倒した。二人は浴室の壁に激突する。美咲の手にはいつの間にかバススポンジが握られている。それを思い切り香織の顔に叩きつけた。
「あなたなんか!」
泡が舞い上がり、香織の目に入る。痛みに悶えながらも香織は反撃しようとする。だが美咲はすでに次の動きに出ている。浴室の排水口カバーを武器のように使って香織の肩を突いた。
「いい加減諦めたらどう?」
美咲の言葉に香織の怒りが頂点に達する。
「諦めるわけないじゃない!」
二人は再び床で取っ組み合いになる。濡れた床は摩擦を奪い、二人の体は滑るように転がった。香織の爪が美咲の背中に赤い線を刻み、美咲の肘打ちが香織の脇腹に沈む。
浴室はまるで嵐の海のようだった。
動画はこちらhttps://x.com/nabuhero
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