『それでも、恋をして』

杉見未希

第1話 耳を塞いでも、世界はうるさい

発達障害と聴覚過敏を抱える三十歳の女性・美羽。

彼女の毎日は、「静かに生きたい」という願いとの戦いだった。

そんな日々の中で、ほんの少しだけ心が動く瞬間が訪れる──。



「また……イヤホン、忘れた」


片下美羽は、静かにため息をついた。

通勤電車の中は、いつも戦場だ。


アナウンスの音、ブレーキの金属音、誰かの笑い声──。

そのすべてが、まるで鋭い針のように耳を刺してくる。


普通の人には「うるさい」程度の音も、美羽には“攻撃”に感じられる。

耳が良すぎるというより、「音が、避けられない」のだ。


駅に着くと、いつものように耳栓を入れて、その上からイヤーマフを装着する。

それがなければ、職場の雑談も機械音も、美羽には耐えられない。


作業所では、小さな部品を組み立てる単純作業が中心だ。

黙々と手を動かすこの時間だけが、美羽にとって少し安心できる。


昼休み。スマホに繋いだイヤホンから流れるのは、中森明菜の「ミ・アモーレ」。

胸の奥に熱を灯すようなあの声が、彼女を現実から少しだけ遠ざけてくれる。


そんなとき──。


「……それ、同じの使ってる」


不意に横から聞こえた低めの声に、美羽は肩をびくりと震わせた。

振り返ると、同じ職場の別の作業グループにいる男性が立っていた。


黒縁メガネにマスク。表情は読めない。

でも、その目はやさしかった。


「音、つらいよね。俺も……話し声、苦手で」


それだけ言って、彼は自販機で缶コーヒーを買い、そのまま立ち去った。


たったそれだけの会話。

でも、美羽の胸の奥に、じんわりと何かが残った。




💬 今日も少しだけ、世界がやさしく見えた気がする。

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『それでも、恋をして』 杉見未希 @simamiki

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