第2話『マカロンとノスタルジア・ブルー』





夕暮れのオレンジ色が、街路樹の影を長く伸ばしている。映画のチケットの半券を指でいじりながら、私、高橋美咲は、隣を歩く彼、拓也の横顔を盗み見た。今日のデートも、もうすぐ終わりだ。名残惜しさが、胸に重く募る。


「楽しかったね、今日の映画」

私がそう言うと、拓也は少し照れたように「ああ、うん」と頷いた。


改札がもうすぐそこに見えてきた、その時だった。勇気を振り絞って、私は立ち止まった。


「ねえ、私の部屋、寄ってかない?」


その言葉は、拓也の思考回路を焼き切るには十分すぎた。

「え?」

彼の目が、見たこともないくらい大きく見開かれる。嬉しいとか、そういう感情の前に、混乱がその顔に浮かんでいた。


「いや、あのさ、急に押しかけても悪いし…」

我ながら、なんて律儀な人だろうか。頭に浮かんだ、一番模範的な断りの文句が、そのまま口から滑り出たみたいだ。私は、ぱあっと顔を輝かせる。

「え? 全然悪くないよ! ちょっとお茶するだけだって!」


「ハハハ……」

食い下がる私に、拓也は乾いた笑いを漏らすしかなかった。頭をガシガシとかきながら、天を仰ぐ。

「まいったな……いや、そういうことじゃなくて」


「じゃあ、なんで?」

「……女の子の部屋に、さ。男がいきなり上がるのって」

拓也は、自分でも驚くほどか細い声で言った。

「……まずいだろ?」


彼のその古風なまでの誠実さが、手に取るように伝わってきた。でも、それだけじゃない。彼の中にある「男だから」「女だから」という見えない壁。私を大切にしたいという気持ちと、その壁の向こう側にいる私を、本当の意味で理解できるだろうかという不安。その両方が、彼の言葉を重くしていた。


私の笑顔が、すっと消える。掴んでいた彼の袖の力が、少し弱まる。さっきまで気にならなかった電車の通過音が、やけに大きく耳に響いた。


「……それって」

私は、わざと俯いて震える声で呟いてみた。

「もしかして、私を『女の子』だからって特別扱いしてる? 私のこと、対等に見てくれてないってこと…?」


「違う! 全然違う!」

咄嗟に、拓也は私の両肩を掴んでいた。一番言わせたくない、というか、彼自身が気づいていなかった核心を突いてしまったようだった。

「そうじゃなくて! 大事だから…美咲のことが、すげえ大事だから、だからこそ、どう接したらいいのか…分からなくなるんだ」


顔が熱い。何を言っているんだ俺は、とでも言いたげな彼の表情。それでも、本心を伝えてくれたことが、たまらなく嬉しかった。


私はしばらく目を丸くして、ぽかんとしていた。そして、ふっと息を吐き出すと、次の瞬間、くすっと笑った。


「拓也って、ほんと面白い」

夕日に照らされた彼の頬は、私の顔と同じくらい、赤く染まっているように見えた。

「……じゃあ、行こっか」

「え?」

「拓也が壊そうとしてる『壁』の向こう側、見せてあげる」

悪戯っぽく笑う私に、拓也はもう、白旗を上げるしかなかった。



「お、おじゃまします…」

玄関で靴をそろえ、拓也は石像のように固まっている。

「あれ? 意外と片付いてるんだな」


当たり前だ。いつ拓也が来てもいいように、毎朝コロコロをかけているなんて、口が裂けても言えない。私は動揺を隠すように、キッチンへ向かった。


「なにか飲む?」

「あ、ああ!」と、リビングから緊張した声が聞こえる。


よし。おもてなしだ。

(紅茶だ。まずは落ち着いて…いや、その間拓也を一人にするのは…)

(じゃあコーヒー?インスタントしかないし…)

思考が完全に袋小路に入る。もてなしたい気持ちと、一秒でも彼のそばから離れたくない気持ちが、脳内で激しい綱引きを演じていた。

「ああ、もう、ダメだ!」

半ばパニックで冷蔵庫を開けると、先日自分へのご褒美に買った、可愛い箱詰めのマカロンが目に飛び込んできた。

これだ。これしかない。お皿に乗せるだけ。3秒で出せるし、可愛いし、間違いがない!

私はまるで救いの神を見つけたかのように、その箱を両手でそっと取り出した。


リビングに戻ると、案の定、拓也が本棚のある一点を食い入るように見つめていた。ガラス扉の向こう、私の聖域(サンクチュアリ)。人生の半分を捧げてきたと言っても過言ではない、廃盤になった少女漫画の全巻セット。


審判の時が来た。私は息を呑んだ。


「うわ、これ…! 『ノスタルジア・ブルー』の初版全巻セットじゃん! しかも応募者全員サービスの番外編小冊子まで! お前、これ持ってたのか!」


「……え?」

聞こえてきたのは、想像しうる限り、最もありえない言葉だった。まるで、万に一つの奇跡が、目の前で起きているかのような。


「な、なんで知って…」

「え、俺、妹の影響で昔から大好きなんだよ! この主人公の最後のセリフとか、今でも全部言えるもん!」


そう言って、拓也は少し照れながら、作中の名台詞を呟き始めた。


私は、手に持ったマカロンの箱がほんのり温かくなっていくのも忘れ、その場で固まっていた。

彼を縛っていた「男だから」という呪縛が、私の「好き」の前で、いとも簡単に解けていく。


照れくささと、自分の不甲斐なさと、そしてどうしようもない愛しさを隠すように、少しぶっきらぼうな声で言った。

「ほら!」


箱を差し出すと、拓也はようやくこちらへくるりと振り返った。私が差し出したのが色とりどりのマカロンであることを見ると、一瞬きょとんとし、それから全てを察したかのように、ふふっと吹き出した。


「紅茶でもコーヒーでもなく、マカロンなんだな。美咲らしいや」

花が綻ぶような、満開の笑顔で彼は言う。

「ありがとう、美咲」


不器用な自分も、テンパった自分も、この人には全部お見通しらしい。


この部屋に、彼がいる。

そして、私の一番大切なものを、同じように大切に思ってくれている。

カラフルで甘いマカロンを手に、私は、性別なんて小さな壁を軽々と飛び越えてしまう、幸福な幻想(ファンタジー)の真っ只中にいた。


現実の世界は、もっとたくさんの「らしさ」に縛られているのかもしれない。

でも、今はそれでいい。

こんな奇跡みたいな瞬間が一つあるだけで、きっと、私たちはもっと自由になれる。


部屋に呼んで、本当に良かった。

私はマカロンを一つ、彼の口元へ運びながら、心からそう思った。

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