『君の部屋まで、あと何センチ?』

志乃原七海

第1話『ミネラルウォーターとアストロランサー』





夕暮れのオレンジ色が、街路樹の影を長く伸ばしている。映画のチケットの半券を指でいじりながら、俺、宮下拓也は、隣を歩く彼女、美咲の横顔を盗み見た。今日のデートも、もうすぐ終わりだ。名残惜しさが、胸に重く募る。


「楽しかったね、今日の映画」

美咲がふわりと笑って、俺の心を見透かしたように言った。

「ああ、うん。面白かった」


改札がもうすぐそこに見えてきた、その時だった。美咲が立ち止まり、俺の服の袖をきゅっと掴んだ。


「拓也の部屋に行ってもいい?」


その言葉は、俺の思考回路を焼き切るには十分すぎた。

「え?」

心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。嬉しいとか、そういう感情の前に、混乱が押し寄せてきた。


「いや、あのさ、部屋、散らかってるしさ?」

我ながら、なんて陳腐な言い訳だろうか。頭に浮かんだ、一番ありきたりな断りの文句が、そのまま口から滑り出た。すると美咲は、ぱあっと顔を輝かせる。

「え? なら、お掃除! 片付けしてあげる! 私、そういうの得意なんだから!」


「ハハハ……」

腕まくりでもしそうな勢いの彼女に、俺は乾いた笑いを漏らすしかなかった。

「まいったな……そうじゃないんだな、本当は」


「じゃあ、なんで?」

その無邪気な瞳が、やけに眩しい。違うんだ。散らかってるとか、そういう物理的な問題じゃなくて。俺が暴こうとしているのは、もっと根源的な恐怖だ。


「……部屋にあげるってことはさ」

勇気を振り絞って口にした言葉は、自分でも驚くほどか細かった。

「俺の全部を、見せるってことだろ。……まずいだろ、それは」


色々と。社会的にとかじゃなく、俺の剥き出しの魂が。君を大切にしたいっていう気持ちと、このありのままの自分を拒絶されたらもう立ち直れないっていう恐怖が、ぐちゃぐちゃになってしまいそうで。これはギャンブルだ。俺のすべてを賭けた、あまりにも分が悪いギャンブル。


俺の言葉に、美咲の笑顔がすっと消えた。掴まれていた袖の力が、少し弱まる。さっきまで気にならなかった電車の通過音が、やけに大きく耳に響いた。


「……それって」

俯いた美咲が、震える声で呟く。

「私のこと、信じてないってこと…?」


「違う! 全然違う!」

咄嗟に、俺は彼女の両肩を掴んでいた。最悪の問いを言わせてしまった。

「逆だ! 信じたいんだよ! でも、もしダメだったらって思うと…俺が、俺でいられなくなりそうで…怖いんだ」


顔が熱い。何を言っているんだ俺は。それでも、もう本心を伝えるしかなかった。


俺の告白に、美咲はしばらく目を丸くして、ぽかんとしていた。そして、ふっと息を吐き出すと、次の瞬間、くすっと笑った。


「拓也って、ほんと面白い」

夕日に照らされた彼女の頬は、俺の顔と同じくらい、赤く染まっているように見えた。

「……じゃあ、行こっか」

「え?」

「拓也の全部、見てみたいから。そのギャンブル、私も乗る」

悪戯っぽく笑う彼女に、俺はもう、白旗を上げるしかなかった。



「おじゃましまーす」

玄関で靴をそろえ、美咲はきょろきょろと部屋の中を見渡した。

「あれ? 部屋、散らかってないじゃん」


当たり前だ。いつ美咲が来てもいいように、毎朝掃除機をかけているなんて、口が裂けても言えない。俺は動揺を隠すように、キッチンへ向かった。


「なにか飲むか?」

「うん!」と、リビングから楽しそうな返事が聞こえる。


よし。おもてなしだ。

(お茶だ。まずは落ち着いて…いや、その間美咲を一人にするのか?)

(じゃあコーヒーか?豆を挽いて…何分かかるんだ!)

思考が完全に袋小路に入る。もてなしたい気持ちと、一秒でも彼女のそばから離れたくない気持ちが、脳内で激しい綱引きを演じていた。

「ああ、もう、ダメだ!」

半ばパニックで冷蔵庫を開けると、整然と並んだミネラルウォーターのペットボトルが目に飛び込んできた。

これだ。これしかない。3秒で出せるし、健康的だし、間違いがない!

俺はまるで救いの神を見つけたかのように、そのミネラルウォーターを二本、力強く鷲掴みにした。


リビングに戻ると、案の定、美咲が本棚のある一点を食い入るように見つめていた。ガラス扉の向こう、俺の聖域(サンクチュアリ)。人生のすべてを捧げてきたと言っても過言ではない、限定生産のロボットアニメのフィギュアたち。


審判の時が来た。俺は息を呑んだ。


「わ、これ…! 『アストロランサー』の最終決戦バージョンでしょ!? しかも初回特典のダメージパーツ付き! うわ、すごい! 拓也、これ持ってたんだ!」


「……え?」

聞こえてきたのは、想像しうる限り、最もありえない言葉だった。まるで、万に一つの奇跡が、目の前で起きているかのような。


「な、なんで知って…」

「え、私、お兄ちゃんの影響で大好きなんだよ? このシーンのBGMとか、今でも全部歌えるもん!」


そう言って、美咲は完璧な節回しで主題歌を口ずさみ始めた。


俺は、手に持ったペットボトルが結露で冷たくなっていくのも忘れ、その場で固まっていた。

最大の不安が、最高の喜びに反転する。

差し出した俺のすべてを、彼女は完璧な形で受け止めてくれた。


照れくささと、自分の不甲斐なさと、そしてどうしようもない愛しさを隠すように、少しぶっきらぼうな声で言った。

「ほら!」


ペットボトルを差し出すと、美咲はようやくこちらへくるりと振り返った。俺が差し出したのがただの水のペットボトルであることを見ると、一瞬きょとんとし、それから全てを察したかのように、ふふっと吹き出した。


「お茶でもコーヒーでもなく、お水なんだね。拓也らしいや」

花が綻ぶような、満開の笑顔で彼女は言う。

「ありがとう、拓也」


不器用な自分も、テンパった自分も、この子には全部お見通しらしい。


この部屋に、彼女がいる。

そして、俺の一番大切なものを、同じように大切に思ってくれている。

無色透明な水のペットボトルを手に、俺は、ありのままの自分を100%受け入れてくれるという、甘く幸福な幻想(ファンタジー)の真っ只中にいた。


現実の恋は、もっと複雑で、困難なことの方が多いのかもしれない。

でも、今はそれでいい。

こんな奇跡みたいな瞬間が一つあるだけで、きっと、これからのどんなことも乗り越えていける。


部屋に呼んで、本当に良かった。

俺はペットボトルの冷たさを感じながら、心からそう思った。

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