第2話「金四郎の勘」
朱鞘の影
北町奉行所の書物蔵は、墨と古紙の匂いに満ちていた。
その奥で、一人の男が山と積まれた調書を前に、深く長い溜息をついた。
遠山金四郎景元(とおやまきんしろうかげもと)。
怜悧な目元と、役人らしからぬどこか粋な風情を漂わせるこの男は、しかし今、その眉間に深い皺を刻み、心底うんざりした顔で天井を仰いでいた。
「またか……」
手にした一件書類には、昨夜神田で起こった傷害事件の詳細が記されている。被害者はごろつきの三次。肋骨数本にひびが入るも命に別状なし。しかし、意識が戻った三次は「朱鞘の女にやられた」とだけ繰り返し、怯えるばかりで要領を得ない。供述の最後に、こう追記があった。『そいつは、俺の刀を一瞥すると、つまらなそうに息を吐いた』と。
ここ一月で、同様の事件はすでに五件。
被害者はいずれも博打打ち、ゆすりたかりを生業とする小悪党。誰も彼もが、刀傷一つなく、打撲や骨折で半殺しの目に遭っている。そして、口を揃えて「朱鞘の使い手」の存在を口にするのだ。
「遠山様、また例の朱鞘でございますか」
年配の与力、渡辺が心配そうに声をかけてきた。
「ああ、手口は同じだ。金品の強奪もなし。ただただ、完膚なきまでに打ちのめす。一体、何の目的だ」
幕府の上層部は、泰平の世をことさらに誇示したがる。市中での抜刀沙汰は、その泰平に泥を塗る痴れ者の所業として、見せしめのように厳しく罰せられる。金四郎たち奉行所の役人は、そのお達しを遂行すべく日夜目を光らせているが、この「朱鞘」の起こす事件は、その網の目を嘲笑うかのようにすり抜けていく。
斬っていないのだ。
刀を抜いていない以上、幕府が最も声高に叫ぶ「抜刀禁止令」には抵触しない。これは傷害事件であり、辻斬りや切り合いとは一線を画す。だが、江戸の町を騒がせていることに変わりはない。
「遠山様、市中では妙な噂が広まっております」
若い同心が、おずおずと口を挟んだ。
「曰く、『無抜刀のサヤ』。決して刀を抜かず、朱塗りの鞘のままに悪党を叩き伏せる謎の女がいる、と」
「無抜刀のサヤ、か」
金四郎は、その響きを舌の上で転がすように呟いた。馬鹿げた噂話だ。だが、その噂は、手元の調書の内容と不気味なほど一致していた。
渡辺が腕を組む。
「義賊の類でしょうか。被害者が悪党ばかりとなると、町民の中には快哉を叫ぶ者もいるやもしれませぬ」
「だからこそ厄介なのだ」金四郎は舌打ちした。「町民がこれを是とすれば、法の意味がなくなる。たとえ相手が悪党だろうと、市中の狼藉は狼藉だ。見過ごせば泰平の世にひびが入る…と、上は言うだろうな」
その言葉に滲む皮肉を、老練な与力は気づかぬふりをした。
金四郎は顎を撫でる。
(犯人は金品ではなく、相手の持つ刀に興味を示している。まるで、何かを試しているような……そうだ、目利きが刀の出来を確かめるような手口だ)
金四郎の脳裏には、一つの仮説が形を結びつつあった。
抜かないのではない。あえて抜く必要がないほどの手練れ。そして、相手の刀そのものに用がある。
「渡辺、被害者たちが持っていた刀を調べ直せ。拵え、銘、入手経路、どんな些細なことでもいい。すべてだ」
「はっ、しかし、それが何か?」
「俺の勘だ」
金四-郎は立ち上がると、無造作に羽織を肩にかけた。その目には、先程までの退屈そうな光ではなく、獲物を見つけた狩人のような鋭い光が宿っていた。
「退屈でかなわんと思っていたが、どうやら江戸の闇には、面白い化物が棲み着いたらしい。この遠山金四郎が、直々にその化物の正体を拝んでやる」
型通りの捜査では尻尾は掴めない。ならば、こちらも型を破るまで。
金四郎は、奉行所の息苦しい空気から逃れるように、活気と喧騒に満ちた江戸の町へとその身を投じた。
(無抜刀のサヤ、か)
法で裁けぬ悪を裁く義賊か。
それとも、ただ己が業を満たすためだけに牙を剥く、人斬りのなりそこないか。
(どちらにしても、この江戸に棲む以上、てめえの好きにはさせられねえ)
口の端に浮かんだ不敵な笑みを、金四郎は夕暮れの喧騒に隠した。
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