無抜刀サヤ
志乃原七海
第1話「 私は、刀を喰らう鬼。」
泰平の世とは、まやかしの名だ。
江戸中期、八代将軍の治世。幕府による市中の取り締まりは年々厳しさを増していた。ことに窃盗や傷害はもとより、辻斬り、抜刀沙汰には即刻お縄となるご時世。武士ですら、ひとたび鞘から刀を抜くことは、己の家と命を懸けるに等しい。町人であればなおのこと、刃傷沙汰は死罪と心得よ、とのお達しが繰り返し出ていた。
だが、奇妙なことに、刀を持つこと自体は咎められない。
護身用だと言えば、町人ですら立派な拵えの刀を腰に差して歩けた。名のある刀匠が打った業物も、金さえ積めば誰でも手に入る。
抜刀は厳禁。しかし、誰もが凶器をその手にできる。
この歪で息苦しい泰平が、時代の何かを狂わせ始めていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。
***
月もない闇夜。神田の裏通り、どぶ板の腐臭が立ち上る中、一人の男が壁際に追い詰められていた。ごろつき風の出で立ちだが、その顔は恐怖に引きつり、脂汗が玉となって浮いている。
「ひぃ、た、助けてくれ! なんだってんだ、あんた!」
懇願する男の前に立つのは、一人の女。
洗いざらしの藍染の着物をまとった、線の細い影。闇に溶けてしまいそうなほど頼りない姿だが、腰に差した一振りの刀だけが、異様な存在感を放っていた。濡れたような光沢を放つ、朱塗りの鞘。
「名は?」
女が問うた。鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声だった。
「お、俺か? 俺は三次だ! だから何だってんだ!」
「違う。その刀の名だ」
女――サヤは、男が震える手で握りしめている脇差を、顎で示した。
「こ、こいつか? こいつは…備前長船の…」
男がしどろもどろに答える。サヤは男の手元を一瞥し、小さく息を吐いた。
「見掛け倒しだな。柄糸の巻きが甘い。その刀は、お前を主とは認めていない」
「なっ…!」
男が虚を突かれた瞬間、サヤの体は霞のように揺らいでいた。腰の刀の鯉口にかけた親指が、キリ、と音を立てる。だが、刀身が鞘走りを見せることはない。
次の瞬間には、サヤは男の懐深くに踏み込んでいた。手に握られているのは、鞘に収まったままの朱鞘の刀。
ゴッ、と肉を打つ鈍い音が響いた。
鞘の先端、石突(いしづき)が寸分違わず男の鳩尾を捉えていた。男は「ぐ」という声にならない呻きを漏らし、白目を剥いて崩れ落ちる。
「……違う。これも、違う」
サヤは倒れた男を一瞥もせず、夜風に消え入りそうな声で呟いた。
脳裏に蘇るのは、炎と槌音に満ちた工房の記憶。汗と鉄の匂い。そして、誰よりも尊敬し、恐れた父の背中。
『――真に斬れる刀とは、なんだと思う』
伝説の刀鍛冶、幻斎と呼ばれた父の声が聞こえる。
『死人を斬るのは、ただの試し斬りだ。儂が目指すのは、活きた人間、その覚悟、怨念、業(ごう)、その魂魄のすべてを断ち斬る一振りよ』
父の言葉が、呪いのように心を縛る。
サヤは朱鞘の刀を握りしめた。父が最後に遺したという、至高の一振り。その刀が、この江戸に流れているという。
まだ見ぬその刀の気配を、彼女は夜の闇の中に探し続けていた。
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