銀治と、わたしたち

浅野じゅんぺい

銀治と、わたしたち

エアコンの風は、部屋の隅で力尽きたように止まり、扇風機だけがけいれんするように首を振っていた。

外では蝉が、誰かに怒っているような声で鳴いていた。

その鳴き声は、家のなかの薄い静けさを何度も破っていく。



美佐子は掃き出し窓に腰を下ろし、汗ばんだ頬にビールの缶を押し当てた。

昼の熱気がまだ抜けきらず、向かいのアパートのトタン屋根は夕陽を跳ね返している。


その上に、銀治がいた。

背中をだらりと伸ばし、片目を閉じたまま、こちらを見ているのかいないのか。


「また来たんだ……」


声に出すと、少しだけ胸が楽になる気がした。

銀治の左耳は裂けていて、痩せた体には古い傷があった。

たぶん、どこかでひとりで生き抜いてきたんだろう。


その姿に、気づけば自分を重ねてしまう。

身動きが取れないまま、ただ静かに耐えているだけの毎日。


「……我慢してるの? あんたも」


缶の冷たさが、もうほとんど消えていた。



玄関のチャイムが鳴って、美佐子は少し遅れて立ち上がった。

扉を開けると、義母が立っていた。

買い物帰りらしい紙袋を片手に、薄く笑っている。


「近くまで来たけん、ちょっと寄ったと」


以前夫と暮らしていたこの部屋には、美佐子ひとりが今も住んでいる。

合鍵を返す返すと言いながら、義母は時おりこうして訪ねてくる。


美佐子はうなずき、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


「雅樹は、まだ帰ってこんと?」


ソファに腰を下ろすなり、義母が言った。

スマホの画面には、未読のメッセージが点滅していた。


「仕事が……忙しいみたいです」


乾いた声で答えると、義母が缶ビールのプルタブを引いた。

パシッという音が、ひどく大きく感じられた。


「向こうで誰か、おるっちゃなかと?」


「そんなこと……」


言いかけた言葉は、途中でしぼんだ。

否定の言葉すら、もう芯を失っていた。


義母は、ベランダの欄干に肘を置いたまま言った。


「わたしも昔、そげん思いよったと。お父さんが浮気しよったときね」


語尾は淡々としていたけれど、その静けさの奥には、濁った水みたいなものがあった。


「……あんた、どこまで我慢するつもりなん?」


美佐子は答えなかった。

義母の肩がほんのわずかに震えているのが視界の端に映った。

怒りか、それとも哀しみか、それは分からない。


「『好きだから、一緒にいる』って……わたし、本気で言ったんです」


呟いたその声は、誰にも届かず、自分にも返ってこなかった。



銀治が屋根の上で、のそりと伸びをした。

夕陽のなかで、影だけが長くなっていく。


「……あの子、うちらみたいやねぇ」


義母がぽつりとつぶやいた。

声ににじむのは、自嘲か、それとも理解なのか。


しばらくの沈黙が落ちる。

風が止まり、蝉の声すらどこかへ遠ざかった。


そして、義母が言った。


「もう、鍵ば返すけん」


それだけの言葉が、体の奥に鈍く響いた。


「もう限界っちゃ。……あんたも、自分のタイミングで、よかけんね」


義母はそう言うと、タバコに火をつけた。

煙の匂いが、どこか懐かしかった。


「……私、実家に帰ります」


声が、自分のものじゃないみたいに震えた。

でも、ようやく吐き出せた一言だった。


義母は、何も言わずにうなずいた。

それがすべてだった。



ふと目を上げると、銀治の姿が消えていた。

どこかに滑り落ちたのか、もっと過ごしやすい場所を見つけたのか。


屋根には、彼がいた痕のように、じっとりとした熱だけが残っている。


美佐子は空になったビールの缶を見つめた。

冷たさも泡も、どこにも残っていなかった。


それでも、そのぬるさを、悪くないと思った。


「……あの日々の匂いも、ここに置いていく」


そう口にした瞬間、背中の重みがすっと和らいだ気がした。


別に、強くなる必要はない。

でも、自分の足で歩く場所は、選んでいいはずだ。


すぐには立ち上がれなかった。

でも、心の奥にひっかかっていた何かが、

静かに、ほどけていく音がした。




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銀治と、わたしたち 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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