銀治と、わたしたち
浅野じゅんぺい
銀治と、わたしたち
エアコンの風は、部屋の隅で力尽きたように止まり、扇風機だけがけいれんするように首を振っていた。
外では蝉が、誰かに怒っているような声で鳴いていた。
その鳴き声は、家のなかの薄い静けさを何度も破っていく。
*
美佐子は掃き出し窓に腰を下ろし、汗ばんだ頬にビールの缶を押し当てた。
昼の熱気がまだ抜けきらず、向かいのアパートのトタン屋根は夕陽を跳ね返している。
その上に、銀治がいた。
背中をだらりと伸ばし、片目を閉じたまま、こちらを見ているのかいないのか。
「また来たんだ……」
声に出すと、少しだけ胸が楽になる気がした。
銀治の左耳は裂けていて、痩せた体には古い傷があった。
たぶん、どこかでひとりで生き抜いてきたんだろう。
その姿に、気づけば自分を重ねてしまう。
身動きが取れないまま、ただ静かに耐えているだけの毎日。
「……我慢してるの? あんたも」
缶の冷たさが、もうほとんど消えていた。
*
玄関のチャイムが鳴って、美佐子は少し遅れて立ち上がった。
扉を開けると、義母が立っていた。
買い物帰りらしい紙袋を片手に、薄く笑っている。
「近くまで来たけん、ちょっと寄ったと」
以前夫と暮らしていたこの部屋には、美佐子ひとりが今も住んでいる。
合鍵を返す返すと言いながら、義母は時おりこうして訪ねてくる。
美佐子はうなずき、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「雅樹は、まだ帰ってこんと?」
ソファに腰を下ろすなり、義母が言った。
スマホの画面には、未読のメッセージが点滅していた。
「仕事が……忙しいみたいです」
乾いた声で答えると、義母が缶ビールのプルタブを引いた。
パシッという音が、ひどく大きく感じられた。
「向こうで誰か、おるっちゃなかと?」
「そんなこと……」
言いかけた言葉は、途中でしぼんだ。
否定の言葉すら、もう芯を失っていた。
義母は、ベランダの欄干に肘を置いたまま言った。
「わたしも昔、そげん思いよったと。お父さんが浮気しよったときね」
語尾は淡々としていたけれど、その静けさの奥には、濁った水みたいなものがあった。
「……あんた、どこまで我慢するつもりなん?」
美佐子は答えなかった。
義母の肩がほんのわずかに震えているのが視界の端に映った。
怒りか、それとも哀しみか、それは分からない。
「『好きだから、一緒にいる』って……わたし、本気で言ったんです」
呟いたその声は、誰にも届かず、自分にも返ってこなかった。
*
銀治が屋根の上で、のそりと伸びをした。
夕陽のなかで、影だけが長くなっていく。
「……あの子、うちらみたいやねぇ」
義母がぽつりとつぶやいた。
声ににじむのは、自嘲か、それとも理解なのか。
しばらくの沈黙が落ちる。
風が止まり、蝉の声すらどこかへ遠ざかった。
そして、義母が言った。
「もう、鍵ば返すけん」
それだけの言葉が、体の奥に鈍く響いた。
「もう限界っちゃ。……あんたも、自分のタイミングで、よかけんね」
義母はそう言うと、タバコに火をつけた。
煙の匂いが、どこか懐かしかった。
「……私、実家に帰ります」
声が、自分のものじゃないみたいに震えた。
でも、ようやく吐き出せた一言だった。
義母は、何も言わずにうなずいた。
それがすべてだった。
*
ふと目を上げると、銀治の姿が消えていた。
どこかに滑り落ちたのか、もっと過ごしやすい場所を見つけたのか。
屋根には、彼がいた痕のように、じっとりとした熱だけが残っている。
美佐子は空になったビールの缶を見つめた。
冷たさも泡も、どこにも残っていなかった。
それでも、そのぬるさを、悪くないと思った。
「……あの日々の匂いも、ここに置いていく」
そう口にした瞬間、背中の重みがすっと和らいだ気がした。
別に、強くなる必要はない。
でも、自分の足で歩く場所は、選んでいいはずだ。
すぐには立ち上がれなかった。
でも、心の奥にひっかかっていた何かが、
静かに、ほどけていく音がした。
銀治と、わたしたち 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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