ばからしい話
楸
ばからしい話
◇
難易度の低い課題だと思った。苦労した部分を強いて挙げるのであれば、それは応用とされている箇所くらいであり、実際に苦労した部分としては字体や筆跡を友人に似せようとしたところが一番かもしれない。
三枚ほどになる課題の用紙。それぞれの上部に加えられるべき記名欄には私のものではない名前が記されている。その文字の癖をなんとなく真似られたことを書いた字体と比較して、ようやく私は息をつくことができた。
「別に、そんなの誰も気にしないよ?」
私が文字をそれぞれで比較する度に、目の前にいる彼女はそう言った。
彼女の手元には携帯があり、覗ける画面には庭のようなゲームアプリが広がっている。きれいにガーデニングをしたり、モノを飾ったりするだけのアプリをするくらいなら、この課題くらい自分でやればいいのに、と思いはしたけれど、結局それを口に出すことはなかった。別に、どうでもよかったから。
「ユウヤさんはあんまり字とか見ないから。結果だけなんだよね。結局今日もばれないと思うし」
「……それでも、なんだかね」
私の中には不安があった。私が彼女の課題を手伝っている、もとい手伝う以上のことをしてしまっている事実が誰かにばれてしまったのならどうしよう、というそんな不安。実際、誰かにばれたところで家庭教師から配布されている課題についてを誰かが思うことはないのだろうけれど、それでも不安は心の中に残っている。そんな言い知れない不安を、やはり目の前の彼女は笑った。
「本当なら焦るべきなのは私じゃん。でも、私が焦ってないんだから、ミキはもっと気にしなくていいの」
「……はは、そうかもね」
そう言葉を返して、誤魔化した笑いを浮かべてみる。それでも自分が悪いことをしている、それに加担しているという不安だけは拭いきることができない。
結局、それ以上に彼女と話せることは思いつかなかった。
◇
じゃあね、という言葉に見送られながら、私は門限の数十分前に彼女の家から追い出されることになった。
いつも通りに決まった時間帯、そして曜日。今日は彼女の両親が雇った家庭教師が来る日らしく、日中の学校で彼女は私に声をかけてきた。
『今日も、お願いしていい?』
お願い、という風にあいまいで優しい言葉をかけてはいるものの、それを私は命令としか感じられなかった。断ることもできないまま、私はそれにとりあえずという感じで頷いてしまう。
それも結局いつも通りのことだ。私は彼女の頼みを断れない。弱みを握られているわけでも、彼女に権力があるわけでもない。単純に私が断る勇気を持てないだけ。別に断るほどの理由もない、と言い訳を心の中で繰り返しながら、命令と感じてしまうお願いに今日も私は彼女の家へと赴いた。それが今日の一日の流れだった。
彼女はあまり勉強が得意なほうではない。特に理数系については苦手であることを周囲に誇示しているくらいであり、その類の課題については一切自分からはやろうとはしない。
せっかく配られた課題であるのならば彼女自身がやるべきだろう。そもそも彼女の苦手である科目ならなおさらでしかなくて、私はそれを手伝うことには抵抗があった。それでも断れない自分が悪いから、結局すべてをやってしまう、という結末をたどってしまうのだけれど。
『ユウヤさんに不真面目だって思われたくないからさ』
彼女は少し照れたような表情でそう語っていた。照れているように見えたのは、もしかしたら窓から差し込んでいた夕陽が頬を赤く染めただけかもしれないけれど、それでも言葉の欠片の中には感情が含まれているような気がした。憧れとか恋慕とかに近いような、そんな思春期らしい感情が。
「……ばっからしい」
そう、声を出してみる。
もうその声が誰かに届くことなんてない。自分だけにしか届かない。だからこそ、より空しい感情が心の中に広がるような感覚がある。誰にも伝えられない言葉を独りで吐き出して何の意味があるのだろう。
私は、息を吐いた。
◆
いいな、と思うことはやめようとしていた。
うらやむようなことがあったとしても、それが私にかなうものではないことを、私はよく知っている。うらやんだところで悲しさや空しさしか抱かないことを知っているのに、いちいち考えてしまうなんて無駄でしかない。
だから、なにも思わないし、考えない。
そう思おうとしていたはずだけれど、それでも心の中には彼女に対する羨望が欠片だけ存在していた。
別に、彼女の家庭教師という存在が、彼女が憧れを持てるような存在がうらやましいわけではない。ただ、自分では手に入れられない環境を、望んでいる環境を彼女が手にしていることに、親から与えられていることに、いいな、という気持ちを抱いてしまう。
あと数か月もすれば一月になる。なってしまう。一月を迎えれば、私たちはどうしたって受験というものに向き合わなければいけない。なんならもう既に向き合って、そのうえで誰もが勉学に励んでいるのだろう。
それはレベルの高い志望校かもしれない、それは憧れている人の母校かもしれない、それは環境として優れている高校かもしれない。
各々がそれぞれの目標に対して努力をしている。なんなら、その努力を報われるものにするため、保護者である親が資金を使って支援さえしている。家庭教師なり、塾なり、その他もろもろ。
でも、私にはそれがない。
私の両親には優しさがある。けれど、優しさしかない。
お金がない。経済力がない。財力がない。私が塾なり家庭教師なりで勉学に励むためのお金はどこにもない。
周囲の人間は滑り止めで私立を受けると聞いた。けれど、私の家の経済状況を鑑みれば、そんな滑り止めさえ受けることさえ私にはできない。
別に、私の成績は悪くはないほうだと思う。そう思いたい。だから、私立が受けられなくともどうでもいい。公立で受かればいいだけの話だから。
でも、私には保険がない。滑り止めが存在せず、真っ向から受験というものに立ち向かわなければいけない。そのための保険を用意するのであれば、自らの力で、自らの環境だけでそれに向き合わなければいけない。
それ故に、すべての言い訳は自分からしか生まれない。
ほかの人間はいいよな、と思ってしまう。思いたくないし、本当に考えたくもないけれど、それでもそんな気持ちを抱いてしまう。
友人の彼女であれば、もし成績が悪くなったとしても他人のせいにできてしまう。家庭教師の教えが悪かった、課題が悪かった、ほかの選択肢があった、と言い訳が重ねられる。
でも、私にはそれができない。
結局、勉強するしかない。それしか選択肢はない。だから、どうでもいい。
「……ばからしい」
そんな言い訳のための理由、言い訳のための言い訳を考えている自分がばからしい。
私は茜色に染まる帰路を見つめながら、今日やるべき勉強の内容を頭の中で精査した。
ばからしい話 楸 @Hisagi1037
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