第21話 はじめての音楽とのであい

 幼い頃からの記憶が残っている。最初の記憶は妹が生まれたときだから、2歳半か。お気に入りの桃太郎の絵本を手に病院の階段を上っているおぼろげな記憶だ。


 それから1年が経ち、3歳になると記憶はより鮮明になってくる。

 ある日、父が言った。

「恭太朗、ピアノ習ってみる?」

 私は即座に返答した。

「うん!」

――普段、触らせてもらえないピアノを弾ける!

 その一事だけで、心が弾んだことを覚えている。


 当時、私の家では近所の子どもを集めてピアノを教えていた。教師は父だ。彼は昼間はサラリーマンとして働いていたから、教えるのは夕方もしくは土日だけの変則的なピアノ教室だ。母はピアノが弾けないので平日の昼間は楽器が空いている。それならばと、幼児の私がピアノに近づいて触ろうものなら叱られた。理由は聞かなかったが、父が大切にしていた楽器だったからだろう。


 憧れのピアノに触れる。それだけで嬉しかった幼児の心情、おわかりいただけるだろうか。


■少々バックグラウンドについて触れておこう


 家でピアノ教室はともかく、先生が父親って何ごと? と思われるかもしれない。その頃、ピアノの先生といえば一般的には女性だったから。今でも男性のピアノ教師は珍しいように思う(偏見?)。


 私の父は音楽大学で声楽を学んだガチのクラシック音楽家だった。しかも驚くべきことにピアノを学ぶために別の音楽短大も卒業している。本人はプロの声楽家になりたかったそうだが、結婚を機にサラリーマンの職を得て、定年まで勤めあげている。上に記載したように自宅でピアノ教室を開いたこともあったが、夜勤シフトが入ることもあり、教室は長くは続けられなかった。彼が長年の努力の末に身に着け学んだ音楽の知識・技術は、結局活かされずに終わる。


 想像してみてほしい。そんな家庭に生まれた子どもに対し、父は何を期待するだろうか?


■1234って何?


 音楽を学ぶなら早いほど良い。そう父が思ったかどうかは知らない、しかし、よわいわずか3歳の息子にピアノを教えようとしたのだから、そんな想いはあったのだろう。ひょっとするとモーツァルト親子の逸話が念頭にあったのかも知れない。


 (おそらく)子どもに自分の音楽ノウハウを伝授したい父と、ピアノに触れられることにワクワクする息子。両者がそれぞれの想いを抱いて始まったピアノ教室は、結論から言えばすぐに終わった。


 なぜなら、最初の「ドレドレドレドレドー」の最後の「ドー」が問題だった。

出だしのドレドレは良い。私は小さな親指と人差し指とを交互に動かして、そこそこうまく弾き、ほめられた。


 しかし、終わりの「ドー」がいけない。なぜか、そこに差し掛かると父は「いち、に、さん、し」とカウントを始めるのだ。しかも、適当なところで指を離すと「違うよ」と指摘される。それが無性にイヤだった。


――なんで?

 そう言葉に出して質問できるほど、3歳の私はコミュニケーションに長けていなかった。何度やっても「ドー」のところで叱られる。いや、今思い返しても父は強い言葉は使わなかったはずだが、ドを弾いている間、カウントされるのもイヤだった。理由が分からないまま、ダメと言われることが悔しかった。


 だから、私は泣いた。ピアノの前で肩を落とし、両の眼からポタポタと涙をこぼす息子を見て、父はどう思っただろうか?


 それきり父は私にピアノを教えることを諦めた。今思えば、私は良い教育を得る機会を失ったわけで、たいへん残念なことをしたと思う。


 でも、父よ。3歳の子どもにいきなり楽典を教えるのは時期尚早だと思うぞ。あのとき、四分音符と全音符についても教えられたことを覚えている。


 なお、小学6年の時「このままじゃいかん」と何か(何だろう?w)に目覚め、独学でピアノを弾き始め、中、高、大学とピアノばっかり弾いていたことを補足しておく。その際、父が音大で使った楽譜や楽典がたいへん役に立った。


 子守歌がオペラのアリアだった話など、いくつか逸話があります。また改めて別のエッセイにまとめたいと思います。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小説から作曲 柴田 恭太朗 @sofia_2020

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ