第5話 満ちる月の下で
満ちゆく月は、夕刻の空に早くも白銀の輪郭を浮かべていた。
タタン村の中央広場では、朝から若者たちが杭を打ち、縄灯りを渡し、布飾りを木に結びつけている。村の家々の軒先には乾いたハーブや穀束が飾られ、小さな鈴が風に触れてちりんと鳴る。晩秋の入口に行うこの祭りは、収穫への感謝と冬越えの祈りを兼ねた古い習わしだ。
夕餉の時刻を前に、広場の炉台に火が入る。薪はブラムの訓練場から分けてもらった乾いた樫。火はするすると上へ伸び、やがて丸い炎の塊が、徐々に紫がかった空を橙に染めた。
エルは桶で運んだ水を炉の脇に置き、母サラと一緒に土鍋の蓋をつまみ上げる。湯気がふわりと立ち上り、根菜と香草の匂いが鼻腔をくすぐった。
「うん、いい煮え具合だよ」
母の声は機嫌が良い日のものだ。エルは思わず頷く。
「配る手順はいつも通り。年寄りたちに先に回してから、子ども、働き手。覚えてる?」
「覚えてる」
「よし、頼りにしてるわよ、剣士さん」
冗談めかした母の言葉に、エルは照れ隠しに笑って、鍋の底から具をすくう長柄の杓文字を握り直した。
空の東から白い丸がじわりと昇った。満ちる月。月光が村の屋根や井戸の縁を静かに撫で、黒髪の人々の頭に淡い輪を描く。
タタンの人々は皆、漆黒の髪と黒い瞳だ。祭りの日は普段より髪を水で整え、油を少しだけ塗る。灯りと月に照らされた黒は深く、光を飲み込みつつ、輪郭だけが柔らかく縁取られる。その同じ色が、ここに生まれ育った者同士の親密さを、ことさらに確かにしていた。
やがて、笛が鳴った。
細長い木の笛を持つ青年が輪の中心に立ち、隣では太鼓を抱えた少女が腰を落として構える。太鼓の皮を叩く「ドン」という低音が地面を伝い、笛の旋律がその上を跳ねた。
古い歌が始まる。最初は老人が静かに、次に女たちが追い、やがて全員が声を重ねる。言葉は簡素で、季節と畑と川と風と、そして互いの名前を讃えるだけだ。だが、それがいい。タタンはそういう村だ。
踊りの輪に誘われ、子どもたちが笑いながら飛び込んでいく。ミーナがエルの袖を引っ張った。
「ほら、行くよ」
「お、俺は配膳が――」
「配膳は皆でやるから! ほら、手!」
強引に引かれ、エルは輪に入る。足を交差し、手を掲げ、くるりと回る。ブラムに叩き込まれた足運びとは違い、これはどこまでも軽やかで、間違えても誰も責めない。笑い声がすぐにミスを包む。
「エル、足! 右、左、はい回って!」
「わ、わかってる!」
ミーナの黒髪が月を受けて赤く縁取られ、目元が楽しげに細くなっている。エルはその顔につられて笑った。木靴の音が石畳に弾み、太鼓が高く打たれるたび、輪は波のように広がって、またまとまった。
輪の外では、グレンおじさんが大鍋の世話をしている。
「エル、交代だ!」
「はーい!」
踊りの隙を縫い、エルは鍋の前に戻る。杓文字を構え、器に具を、汁を注ぎ分ける。蒸気が黒髪にまとわり、汗が首筋を伝う。
「いつものお前の手際だな」とグレンが笑う。「剣もいいが、杓文字も板についてきたじゃないか」
「剣と杓文字、どっちが強いかな」
「腹が減ってちゃ剣は振れん。杓文字は世界最強さ」
「それは、まあ……」
言いながら、エルの胸の中で、ブラムの「本気でやれば強くなる」という声がふっとよぎった。
老人たちが丸太の腰掛けに座り、スープを啜っている。
その中の一人、白い髭を胸の前で結ったオルト爺が、背を丸めて火を見つめた。
「……平和が長く続けばいい」
ぽつりとこぼれたその言葉は、火の爆ぜる音に紛れて、しかしエルの耳にははっきり届いた。
オルト爺は続けない。ただ、その一行だけを炉にくべるように口にし、それ以上は湯気に目を細めている。
ミーナが器を持って戻ってきて、エルの隣に腰を落とした。
「ね、エル。月、きれいね」
「きれいだ」
「満ちる夜は、願いを一つ叶えてくれるんだって。おばあちゃんが言ってた」
「願い?」
「うん。言葉にしないで、胸の中で一度だけ。欲張っちゃだめ。ひとつだけ」
ミーナは器を両手で包み、目を閉じた。長い睫毛に月が落ちる。
エルも同じように目を閉じた。胸の中に浮かんだ願いは、思ったよりも澄んでいて、短かった。――守りたい。
言葉にすると軽くなる気がして、やめた。月が、熱を静かに冷ます。
広場の端で、ブラムが若者相手に腕相撲の相手をしている。片耳のない老人は、笑ってはいるが目が笑っていない。肘の置き位置、肩の角度、足の裏の重心――全部見抜いて、軽く勝つ。
「ずるい!」と若者が声を上げると、ブラムは肩をすくめた。
「ずるい、じゃねぇ。知ってるほうが勝つ。それだけだ」
エルはその言葉に、また胸の奥が熱くなるのを感じた。知ること。覚えること。繰り返すこと。ブラムの教えは、祭りの喧噪の中でも消えない。
やがて、獣皮の太鼓のテンポが変わる。子ども向けの遊び歌が終わり、大人の踊りへ移る合図だ。
輪は少し解け、男女が二列に並ぶ。右へ、左へ、踏み出し、すれ違いながら掌を触れ合わせ、また戻る。手が触れるたびに鈴の音が鳴り、笑い声がこぼれた。
ミーナは照れくさそうにエルの前に立ち、掌をそっと出した。
「……はい」
エルも掌を出し、二人の手のひらが合わさる。冷えた指先がすぐに温かくなる。
列が動き、別の相手と手が触れる。戻ってくる。もう一度、ミーナと触れる。何度も、何度も。
その反復が、不思議と胸の奥に安心を積み重ねていく。言葉ではない約束が、掌を経由して少しずつ形になっていくような気がした。
広場の反対側、臼のところでは、若い衆が餅を搗き始めた。杵が臼に当たると、ドン、と低い音が夜の空気を震わせる。息を合わせ、交互に打つ。合間を縫って手返しが入る。
「指、気をつけろよ!」
「わかってる!」
やがて出来上がった餅は小さく千切られ、甘い豆と混ぜられ、皿で配られる。蒸気が上がり、子どもたちが歓声を上げた。
ミーナが一つ摘んで、半分をエルに渡す。
「熱っ……!」
「ふふ、ふーふーして」
二人で息を吹きかけ、もちもちを頬張る。歯にくっつき、甘さがじんわり広がる。なんてどうでもいい会話を、二人は延々と続けた。どうでもいいことが、今夜は世界でいちばん大事だと思えた。
祭りの中ほど、村の古老たちによる短い祈りがあった。
輪の中央に置かれた小さな石台の上に、祈りの火が移される。オルト爺がゆっくりと立ち上がり、皆に聞こえるように朗々と声を出した。
「川に感謝を。畑に感謝を。森に感謝を。互いに感謝を。――冬を越し、春にまた集わんことを」
その一言一句は、幾世代も前から受け継がれてきた言葉だ。声の高さも抑揚も、ほんのわずかの間も、若いときのオルト爺が古老から習った通りなのだろう。
全員が頭を垂れ、静寂が広場を覆った。太鼓の皮が冷え、笛の指穴に夜露が触れ、火の爆ぜる音だけが聞こえる。
オルト爺は祈りの最後に、他の誰にも聞こえないほどの小ささで、もう一度だけ呟いた。
「――平和が、長く続けばいい」
静寂がほどけると、再び笑いが溢れた。
若者が競う投げ輪遊び、子どもたちのかけっこ、年寄りは昔話。酔いの回った男たちが肩を組み、女たちがそれを笑いながら引きはがす。
エルは合間合間に鍋の様子を見、薪をくべ、器を洗い、また踊りに戻る。ミーナは年下の子の髪を結い直し、女たちの歌を一節教え、戻ってはエルの腕を引いた。
ブラムは広場の外れで空を見上げることが多かった。月の高さ、風の向きを読む癖がしみついているのだろう。エルが近づくと、ブラムは顎で空を示した。
「雲が薄い。良い夜だ」
「うん。……こんな夜が、ずっと続けばいいですね」
「続く夜なんざ、ない」ブラムは笑った。「だから火を絶やさない。人はそうやって続ける。――覚えとけ」
夜が深まり、月は天頂へと上った。縄灯りは火の粉のように揺れ、影は短くなり、白い光が石畳を冷たく洗う。
ミーナとエルは広場を離れ、井戸の脇に腰かけた。
「足、痛くない?」
「少し」
「わたしも。……でも、まだ踊れるよ」
「じゃあ、もう一曲」
「うん」
立ち上がろうとしたミーナの袖口が、井戸の縁でひっかかった。
「あ」
「待って。……ほどく」
エルがそっと指先で結び目を外す。ミーナが小さく礼を言う。ふたりの影が井戸の黒に重なって、輪郭が一つになった。
まるで、何かの前ぶれのように。
そのころ、村のずっと南の空。
森の向こう、丘のさらに向こう、目には見えない線の彼方を、何かがかすめた。
遠い遠い距離。夜気を裂いて走る一本の筋。
赤。
燃えるような、だが一瞬で消える、細い、細い赤。
それは月の白に掻き消され、誰の瞳にも正しく映らなかった。見上げる者がいなかったからではない。見えても、目がその異物を“流星”と誤読したからでもない。ただ、まだこの村にとって、それは「言葉」を持たない印だったのだ。
広場では、笛が高く澄んだ音を伸ばしている。
エルとミーナが輪に戻ると、皆の足が同じリズムを刻んだ。右、左、回る、手を触れる。
エルはミーナの掌を受け取って、ほんの一瞬、握る力を強くした。
「……どうしたの?」
「いや。なんでもない」
言葉にするほどの理由はない。けれど、胸の奥に、細い弦が一本張られたような感覚が生まれたのだ。ぴん、と無音で鳴る弦。張力がほんの少しだけ増した。
ミーナは微笑んで、握り返した。「じゃあ、次の曲まで、離さないで」
その合図のように、太鼓が三度、ゆっくりと鳴った。新しい歌が始まる。
オルト爺は火の側でうとうとと舟をこいでいる。グレンは鍋の底をさらい、子どもたちは餅の残りを取り合って笑っている。ブラムは腕を組み、広場の端から中央までを一望し、それからまた空を見上げた。
彼だけが、ほんの刹那、視界の端に「何か」を捉えた気がして、目を細めた。
だが、何もない。白い月、薄い雲、凪いだ夜。
「……気のせいか」
ブラムは鼻を鳴らし、視線を人の輪に戻した。笑いがあるところに、剣は要らない。今はそういう時間だ。
夜はさらに更けた。
火は小さくなり、縄灯りに虫が集まり、歌はゆるやかな子守唄めいてくる。赤子が母の肩で眠り、犬が人の足元で丸くなる。
ミーナが欠伸を噛み殺し、エルの肩に頭を預けた。
「眠い?」
「ちょっと」
「送るよ」
「じゃあ、もう一曲だけ」
「……うん」
最後の曲は、春を呼ぶ歌だった。季節は秋で、冬はこれから来るのに、歌は春を約束する。古い人たちの知恵だ、とエルは思った。寒くなる前に、春を口にする。口にした約束は、冬の底で凍らない。
ミーナの指先が、エルの袖口をきゅ、とつまんだ。
――満ちる月は、願いをひとつ叶える。
夜空の白は、何も知らない顔で村全体に降り注ぎ、石も木も人も、黒い髪も瞳も、等しく淡く照らしていた。
祭りはやがてお開きになった。
火は灰になり、鍋は洗われ、縄灯りは巻き取られ、鈴は外される。
最後まで残った若い衆と一緒に片付けを終えると、エルはミーナと家路についた。
土道は白く、月影が二人分並んで伸びる。
「ねえ、エル」
「ん?」
「今日、すごく楽しかったね」
「うん」
「また来年も、同じように――」
ミーナはそこまで言って、言葉を飲み込んだ。
エルは横目でミーナの黒髪を見る。月が縁取る。
「来年も、同じように」
エルが代わりに言うと、ミーナはうなずいた。
「約束」
「約束」
その背後、遥か南の稜線のさらに先で、夜は静かに形を変えつつあった。
だがタタンの夜は、その気配をまだ受け取らない。
満ちる月は、ただ静かに、ただ優しく、村を包み続けた。
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