第2話 市場の日

 朝靄が晴れきらぬうちから、タタン村の中央広場はざわめきに包まれていた。

 今日は月に一度の市の日。丘を越えて、サリアス連邦の獣人族行商たちがやって来る日だ。


 エルは家の前で桶の水を替えていると、遠くから牛車の鈴の音が聞こえてきた。木製の車輪が土道を軋ませ、数頭の毛並みの良い牝牛がゆっくりと進む。その荷台には、色とりどりの袋や木箱が積まれ、陽光を反射して布地や金属がちらりと輝く。

 車の先頭には、長い耳と尻尾を持つ獣人族の男が立っていた。毛並みは灰色で、首には色褪せた赤いスカーフ。鋭い琥珀色の瞳が道沿いの村人を見回し、にっと笑う。


「おお、ルガさんじゃないか!」

 井戸端にいた男が声を上げる。

「久しぶりだな、グレン!」獣人は手綱を片手に、片腕を大きく振った。「相変わらず朝から井戸に張り付いてるのか」

「水は命だぞ、命!」と笑い返す村人。

 そんなやり取りを聞きながら、エルの胸は弾んだ。ルガというこの獣人商人は、何度か村を訪れたことがあり、エルにとっては「遠い世界」を垣間見せてくれる存在だった。


 広場に辿り着くと、行商の荷解きが始まった。大きな天幕が手際よく張られ、布の下には木の台が並べられていく。木箱の蓋が開けられるたび、見慣れぬ色と形の品々が顔をのぞかせた。

 黄色く細長い果物――先がくるりと曲がっており、甘い香りが漂う。赤紫色の小さな実が山のように積まれた籠。銀の装飾が施された短剣や、真鍮の留め具付きの皮袋。


 エルは思わず足を止め、目を輝かせた。

「……これ、なんて果物ですか?」

 すぐ近くにいた獣人の若い娘が、柔らかな耳をぴくりと動かして笑う。

「バランっていうの。南の海沿いで採れる甘い果物だよ。ひと口食べたら、もう木苺には戻れないって言われてる」

「へえ……」エルは鼻先を近づけ、ほんのりとした香りを吸い込んだ。

 その香りは、これまで嗅いだどんな果実よりも濃厚で、鼻の奥に甘い余韻が残った。


 手を伸ばしかけたところで、背後から大きな声が飛ぶ。

「こら、エル! 食い物はちゃんと金を払ってからだぞ!」

 振り返ると、ルガが太い腕を振りながら歩み寄ってきた。

「わ、わかってますよ!」

 エルは頬を赤らめ、慌てて手を引っ込めた。

「冗談だ。今日は来てくれて嬉しいぞ」ルガは笑い、エルの肩を軽く叩いた。「相変わらず元気そうだな。薪割りの腕も上がったか?」

「ええ、まあ……」

 会話の間にも、ルガは周囲の村人たちと手早く取引をこなしていく。小麦粉一袋と干し肉、革袋一つに果実を数個。金貨や銀貨の代わりに、毛皮や干魚との物々交換も多い。


 昼近くになると、広場はさらに賑わいを増した。パン屋の女将が焼き立てのパンを抱えてやってきたり、子どもたちが獣人職人の木彫り細工を物欲しそうに眺めたりしている。

 エルはルガの手伝いとして、木箱の運搬や商品の並べ替えを任された。汗をかきながら働くうちに、広場の隅でふと耳に届く声があった。


「……南方で、また魔族が動いているらしい」

 声の主は、ルガだった。相手は村の年長者で、二人は布袋の影に身を寄せ、小声で話している。

「確かな筋か?」

「港町から上がってきた噂だ。兵を集めているって話だが……」ルガは尾をゆっくりと揺らした。「まだ信じきれるわけじゃない。だが、今のうちに北へ物資を運び込んでおく連中もいる」

「この辺りまで来ることは……」

「そう願いたいがな」


 エルは木箱を抱えたまま、思わず耳を澄ませた。

 魔族――その言葉は、つい昨日も老人たちの雑談で聞いたばかりだ。しかし、ルガの声は冗談めかしていなかった。低く抑えられた声の底に、何か重い響きがあった。


 昼食の時間になると、ルガは行商仲間たちと天幕の奥で簡素な食事をとり始めた。焼いた獣肉を薄いパンに挟み、香草をたっぷり乗せたものだ。

「ほら、エルも食え」ルガが手招きし、半分に切ったパンを差し出す。

「いいんですか?」

「働き手には礼をしないとな」

 一口かじると、肉汁が口いっぱいに広がった。香草の清涼感が脂の重さを和らげ、噛むたびに香りが鼻に抜ける。エルは夢中になって食べた。


 食事を終えると、ルガは少し表情を曇らせた。

「エル、お前……村の外に出たことはあるか?」

「この森の外へは……ないです」

「そうか。……俺はお前に、あまり怖がらせたくないんだがな」

 ルガは声を落とし、周囲を一瞥した。「南の方で、確かに戦の影が動いている。人間と魔族の間でだ」

 エルは喉がひゅっと鳴るのを感じた。「村まで……来るんですか?」

「わからん。ただ、こういう噂は、火のないところには立たん」ルガの琥珀色の瞳が真剣に光る。「覚えておけ、エル。平穏な時ほど、足音は静かだ」


 午後になると、広場の喧噪も少し落ち着き、取引を終えた村人たちが品物を抱えて帰っていった。エルはルガの荷台の片付けを手伝い、木箱を紐で縛る。

 別れ際、ルガは腰の袋から小さな包みを取り出した。

「これは……?」

「バランだ。お前がさっき欲しそうに見てたやつだ」

「でも……金は……」

「礼だ。噂を聞いたお前の顔が、まるで戦士みたいだったからな」

 エルは少し戸惑いながらも、包みを受け取った。温かい果実の香りが漂い、胸の奥の何かが静かに揺れた。


 ルガたちの牛車が村を離れ、遠ざかる車輪の音が森の向こうに消えていく。

 エルは包みを握りしめながら、広場の片隅で立ち尽くしていた。

 ――足音は静かだ。

 ルガの言葉が、耳の奥で何度も反響した。


 その夜、家の窓から月を見上げながら、エルは包みを開いた。

 黄金色の果実は、月明かりに照らされて柔らかく輝き、甘い香りが部屋いっぱいに広がった。

 一口かじると、舌の上で溶けるような甘さと、ほんのりとした酸味が広がる。

 だが、同時に、南の空の向こうに潜む影を思わずにはいられなかった。

 その影は、まだ遠いはずなのに、なぜかすぐ背後に迫っているような気がした。

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