Chapters 2 上陸 後編
会場が、飛行船内が悲鳴で溢れかえっている。もうすでに、宴会場に生きている人間は俺ら以外存在しない。
「………逃げて。」
そう言う自分の声がひどく震えていることが、手に取るようにわかった。今、立っているだけで恐怖で崩れ落ちそうなのに。
この人を守ることが、俺にできるのだろうか。
「早く、逃げて!」
今まで出したことのない大きな声。佐倉さんは返事をすることもなく、少し遅れて頷いた。俺はもう一度前へ向き直る。
「あ………あ、あ。」
黒い体をした化物は、「脚」を震わせながら立ち上がる。その頭部には、テーブルに置いてあったフォークが深々と刺さっている。さっき、俺が割り込んだ時に刺したものだ。………きっと、「脳」まで到達しているはずなのに。化物の動きは止まらない。だとしたら、急所として考えられる部位は………。
「心臓………。」
後ろで佐倉さんの足音が遠ざかってゆく。これで、巻き込むことはない。………俺は、逃げない。ここは、俺がなんとかするんだ。化物がこちらへ駆けてくる。俺は武者震いとともに、攻撃へ備えた。
「緊急事態発生、『個体』が確認されました。至急、駆除と避難を急いでください。繰り返します………。」
機械のアナウンスの声が警報音と共に鳴り響く。しかし、それを聞いている人はいない。廊下にいる人物の割合は、ほとんどが死体を占めている。
「はあ、はぁ………っ。」
あの化物は、何体いるのだろうか。どこかを見れば必ず同じような物を見つける。何度か遭遇し、途中で追いかけられたこともあった。今私が生きているのは、ただの運でしかない。
「………火災発生、操縦室・厨房で火災が発生。一番遠い部屋への避難をお願いします。」
ふと、隣に見えた調理室を覗く。黒煙が混ざったオレンジ色の火が渦巻いている。その中に、あの化物を見つけ、目があわないうちにそこを去った。もう、化物を見つけても、頸がなくなった死体を見ても、何も感じない。感情が麻痺し、赤い血を踏みつけながら今も走っている。
「生存者はパラシュートを使い、飛行船から脱出してください。命の危険が迫っています。」
消えないアナウンス。私はそれでも走らなければいけない。どこで覚えたのかもわからない、生存本能のまま。
「ここだ………!」
ここは、銃器や戦地で使う道具の保管庫。もちろんそこに人は見つからず、あるのは飛び散った血だけだ。そんな倉庫の鍵を乱暴にこじ開け、立ち入り禁止を無視して進んでゆく。「Bomb」「Rifle」「Gun」。そんな文字が多い中、私は迷わず携帯用のリュックサックを手に取った。その場でリュックの中へ手を突っ込み、銃器の中を必死に探る。
「あった………!」
取り出した手にあるのは、やっと手形をはみ出すくらいの丸められた布。………パラシュートだ。これがあれば、飛行船から脱出できる。
「………脱出。」
いざ声に出した時、ちくりと心の中で引っ掛かる出来事を見つけた。
『早く、逃げて!』
吉田さん。彼は、脱出したのだろうか。だけど、この状況からして、もう………。そう考えたその瞬間、普段の私だったら、考えつかないことを思いつく。もしかしたら、間に合わないかもしれない………けど。震える足を強く叩く。再び倉庫を飛び出した。………今の私が、すべきことは決まっている。
頬が、熱い。それは、さっき化物に切られた傷と、辺りで燃え盛る火のせいだろう。厨房で起こった火の手は、宴会場までに及んでいた。火の熱が肌に食い込み、煙を少しでも吸うと、肺がズクっと疼く。
「………あ、ああ、あ。」
そんな中でも、この化物は立ち上がって襲ってくる。もはや、こいつは生き物ではないのだ。
「………うっ。」
右腕が、痛い。見下ろすと、その腕からは大量に黒い血が滴り、床に滴となって、落ちる。頬についた傷も深いけど、こちらは治らなければ最悪出血多量で死ぬかもしれない。
「………だけど。」
また、襲ってくる。何度も心臓を狙ったが、毎回ずれてしまう。訓練ではダガーなどの扱いは教わらなかったからな。こんな時に、あの黒ずくめの日々を思い出してしまう。教官からも、同僚からも見放され、都合のいいように利用される日々。訓練以外での日常は、上司の機嫌取りや仲間からの暴力に潰されていたことを覚えている。気が弱いと言うだけで兵士の日常がこんなにも苦痛なものになるなんて、思いもしなかった。
………だけど、いつも感じていたことがある。生涯を諦めながらも、自分を攻撃してきた人々に、いつか謝らせたいと願っていたこと。薄暗がりで暮らしながらも、人との関わりを求めたかったこと。
————それを誰にも否定させたくないと、思っていたこと。
こちらに向かってくる化物に対して、俺は手にした食事用ナイフを握りしめる。そして、爪での攻撃を顔ギリギリで避け、白い刃を「右胸」に突き刺した。ああ、どうか止まってくれ。ここが急所であってくれ。
「ぁ、ぁ………。」
化物の動きは次第に鈍くなり、ついにその体は床へ崩れ落ちた。急所は、心臓で合っていた。やっと、壊れたんだ。
「やっ、た。」
不意に、視界がぼやけて転びそうになる。ギリギリで体を起こしたが、目眩は治らない。怪我のせいでもあるが、部屋に充満した黒い煙も原因の一つだろう。
「早く、出な、いと。」
重い足を引きずり、宴会場から出ようとする。しかし、揺れる体と視界のせいで、前へ進めない。時間が経つと、肺の痛みが増し、頭がぼんやりしてくるようになった。まずい。煙を吸いすぎた。早く。出な。いと。死————
………死ねばいいのに。
硬い地面に無造作に倒れ、体を止める。頭の中で、何か声がする。
………あんたなんて、死ねばいいのに。産むんじゃなかった。
母親の声だ。どうやら俺の脳内では「走馬灯」というものが始まっているらしい。声の直後に受けた、右頬の痛み。母親に幼い頃から理由もなく身体中を殴られ、学校から家に帰るのが怖かった。止めてくれる人もいない。俺や母親に友人なんていなかったし、父親もずっと家にいないことが多かったから。
………あの人と結婚しなければ、あんたは生まれなかったのに。
俺の父親は、特に長く仕事をしているわけではなかった。ただ、家に帰ってくるのが遅かったのは、仕事仲間と浮気を楽しんでいたから。それでも、生活費の多くを賄っている父親を手放すことができない母親は、離婚を決めなかった。ますます俺に対して母親は暴力を振るってくる。
………マジで、死ねばいいんじゃねえの?
唯一の避難所であった学校での生活も酷かった。こんな性格のせいで学校一の不良グループに目をつけられ、散々財布をたかられ、いじめや暴力に遭った日々。そのせいで、俺に近づく人は気づけば誰もいなくなってきた。
………吉田くん?なんで睨んでるの?殺されたいの?
睨んでなんてない。その言葉はやつらからの暴力にかき消されて消える。学生兵として訓練所に徴収されても、何も変わらずに残ったのは周りからの非難だけ。
………死んでくれないかな。
マジで存在が邪魔。
消えて?
産まなければ。
殺してあげよっか。
真面目に、死ね。
死ね。死ね。死ね。死ね。死ね!死ね!死ね!
————生きて!
どこから届いたのかわからない、白く、確かな温度を持った声。なんだ、これは。こんなこと、誰にも言われてない。じゃあ、実際に、聞こえている声?
………まだ大丈夫。吉田さん、頑張って。まだ死なないで!
この声、どこかで、聞いたことがある。確か、飛行船で、俺は体調が悪くて。彼女も、同じで。
………死なせない。絶対に死なせないから。生きて!
段々と意識に色がついてゆく。回復したわけではない。そう感じただけ。………佐倉さん。君は、なんで………。そこでぷつりと、意識が途切れた。
煙の中で、大きく咳をする。ハンカチを使っていても、口には辛い空気が入り込んで来る。私は、飛行船の宴会場にいる。パラシュートは二つあるから、窓から脱出できるだろう。私は片手でハンカチを口に押し付けながら、吉田さんの体を背に負った。ただでさえ私よりも体が大きいのに、煙のせいで立ち上がれないこの空間で彼を負って進むのは、困難よりも困難だった。それなのに、強くもない私が進めているのは、潜在能力のおかげの他ないだろう。
「まだ大丈夫。吉田さん、死なないで!」
口に敷いたハンカチの下で叫ぶ。さっき脈はとった。吉田さんはまだ生きている。………私が死なせない。この人は、私が守る。だから。
「生きて!」
宴会場の窓を思い切り開ける。黒煙の渦が窓の外へ逃げ、消えてゆく。
私は、気を失った吉田さんにパラシュートをつけて窓の近くへ身を寄せた。きっと、生きてまた会える。私たちは、まだ死なない。
「また、会いましょう。」
それだけ行って、吉田さんの体を突き落とした。
その頃。先に到着した兵士たちの戦地では。
「早く、撃って、撃って!」
「クソ、死なねえぞあいつら!」
情報を何も知らされていない学生兵の一番隊は、善戦も虚しく、全滅。
「あああああああああ!」
銃を持った女性の学生兵が、頭を砕かれ、脳の一部を出される。逃げる兵隊たち。それでも、化物には敵わない。頭を撃っても死なない兵器は、困惑状態の学生兵たちには攻略ができないものだった。
「せ、先輩!」
「だめだ、見捨てろ!俺たちまでああなるぞ!」
「どこに行けばいいんだよ!」
学生兵たちを無能とみなした陸軍は、指示を出すこともなく、彼らを放置した。そのせいで、犠牲者は一層増えた。
「いやだ、先輩………うあああああああ!」
化物に向かってナイフを振り回す学生兵。その腕が折られ、悲鳴を上げる間もなく頭を同じように噛み砕かれた。
「ああ、もうだめだ。」
「畜生、こうなったら………。」
手にされた手榴弾。多くの人間を巻き込んで、それが爆発する。化物は、それでも死なない。死んでいった学生兵らはその事実を知ることはなかった。
………一番隊に続いた二番隊、三番隊も全滅。それ以降の隊でも多くの犠牲者を出した。そして、吉田、佐倉らが兵隊として所属する七番隊は、飛行船内で実験用の化物の個体が数個脱走し、確認された生存者は、ゼロ。
また、日本だけでもこの混乱で確認された死者は約三十万人。世界で見ると、約一千万人。そして、出動された学生兵の犠牲者は、合計で三百万人に及ぶ。もうこの時点で、世界は未来を迎えることを諦めていた。
「痛ったぁ………。」
顔を歪めながら、体を起こす。パラシュートで降り立った地点が海だったらどうしようかと思っていたけど、なんとか陸地に降りたみたいでよかった。着陸した時、あまりに安心したせいで、転んでしまったのだ。
「あ………吉田さん。」
すぐ立ち上がって、地面を駆ける。辺りは緑が生い茂っていて、どうやら市街地ではなく、ただの無人島みたいだ。思うほど離れたところにはいないはず。着陸する前彼の姿は見なかったが、きっと大丈夫。少し歩くと、地面で横たわり、目を閉じた吉田さんを見つけた。急いで駆け寄り、脈を測る。彼の手首に手を当てると、小刻みな振動と生者の温もりがしっかり感じられた。
「よかった………生きてる。」
この人を見ていると、なぜか彼がすぐ自分から死んでしまいそうな錯覚をするのだ。だけど、私の願いを彼も現実も受け入れてくれた。………それにしても。
「ここは、どこだろう。」
この地点がどこだか確認もせずに飛び降りたから、今どんな島にいるかさっぱりわからない。日本海辺りらしい気はするが、島を全部覚えているわけがない。………こんな、救いのないところで。私たちは、どうやって生きていけばいいのだろうか。急にそんな不安が私の体を支配する。自分の中にある弱さが体を飛び出そうとする。それでも。
「何か、一時止まれそうな場所を探そう。」
とりあえず、生きてみる。多くの仲間が死んだ中、生き延びた私たちは卑怯かもしれない。兵隊は、死ぬ運命なのかもしれない。この島に来たところで、もう生きられないのかもしれない。だけど、生きる。だからこそ、生きる。その中にある、希望を見つけるために。
————だよね、吉田さん。
そう言いかけて、やめる。私はもう一度吉田さんを背中に負って、知らない土地を歩き出した。
二人が上陸する、一分前。⚪︎×島に、人影があった。
「あれ、なんだ。鳥か?」
双眼鏡の先には、二つの飛行体が見える。パラシュートだろうか。なぜかと思い、上を見てみると、黒煙に巻かれた雲が見える。
「飛行機の事故でも起こったのか?」
人だったら別に何の問題もない。だけど。もし、「hope」だったら。
「始末するしかねえか。」
ようやく、双眼鏡から目を離す。顔が現れた男性は、空から目を離し、手元に目をやる。そこには、古型のライフルがある。弾はいつでも込めているため、すぐに撃てる。だけど、殺したのは人じゃない。彼が、殺したのは………。
「………ありゃ、積乱雲か。」
見た先にあるのは、青空を支配するように大きく浮かぶ、巨大な雲。あの中の水蒸気を集めたら、何日分の飲料水になるだろうか。彼はぼんやりとそんなことを思いながら、ライフルを置く。その右指の薬指にはまった白い指輪が、暗がりの中で一筋の光を放つ。………元の持ち主は殺された。あいつらに。
「今日は大雨になるな。」
独り言を呟き、雨水を溜めようと動き出す。その指の光が闇の中を駆け回り、揺れる。その光を無視するようになってしまったのがいつからなのか、彼はまだ知らない。
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