肆、酒呑童子の秘蔵酒
無事に秘蔵酒を取り返すことができた芒たちは、日が傾かないうちに酒蔵「
この白い酒瓶で間違いないかと蔵人たちに問えば、彼らは何度もうなずき、頭を下げて感謝を表す。
「ひとまず無事に取り返せてよかったです。それで、あの、一つお願いがあるのですが……」
そのお願いとやらを、芒は蔵人の一人に耳打ちする。
どんなものがくるのかと少々身構えていた蔵人だったが、内容を聞いた途端に全身の力を抜いた。
「何だ、そんなのでいいのか? 元々そのつもりだったみたいだし、問題はないぞ」
「よかった、ありがとうございます」
安堵した芒は頭を下げる。そして背後に控えていた
吃驚し目を開く彼に向かって「行きますよ」と声をかける。
「む? ん? 少し待て。いったいどこに行くというのか」
「秘蔵酒を造った大旦那のところです」
そう、先ほど芒がお願いしたこと――それは、大旦那に会わせて欲しいということだった。
大江の手をつかんだまま、芒は捌の方へ顔を向ける。
「すぐ戻ってくるんで、待っててください」
「う、うん……」
まだ状況を整理できていない顔で捌はうなずく。
よくわかっていなくとも了承してくれる彼の優しさがうれしくて、芒は顔をほころばせたのだった。
作業場から通路に出て左に曲がる。そこからまっすぐ進み、階段を昇った先にある滝が描かれた襖。そこが大旦那の部屋だという。
同行してくれた蔵人が中にいる大旦那に声をかけると、「入ってくれ」としわがれた声が聞こえた。蔵人が襖を開け顎をしゃくる。芒と大江は会釈し、敷居をまたいだ。
その瞬間、強い薬の香りに襲われる。
捌が言っていた病床に臥せっているという話は本当だったようだ。そこまで広くない部屋に布団が敷いてあり、そこに黒い着流し姿の老人が座っている。彼は芒たちの方に顔を向けると、ゆっくり頭を下げた。
「あんたらが秘蔵酒を取り返してくれたんか……。まずは礼を言わせてくれ」
真白な髪、筋が浮き出る首筋、骨と皮だけの身体、そして絞り出すようなその声は、彼の限界が近いことを示す。
蔵人から秘蔵酒を受け取った大旦那は、それを自分の子どものように抱きしめた。しばしの沈黙の後に大旦那は口を開く。
「儂が直接礼を言いたいだけかと思っておったが、どうやらそちらも何か用があるようだと聞いてな。いったい何だね?」
くぼんだ目でこちらを見る彼に、芒は息を吸って告げる。
「――このたび、『酒吞童子の秘蔵酒』だけでなく、あなたの探し人も連れてまいりました」
その言葉を聞くと大旦那は目を見開き、布団の隣に並ぶような形で座った芒と大江を交互に見やった。
それをわかりながら、芒は言葉を続ける。
「秘蔵酒をかけた今回の弟子入り募集。見つけたい人がいたから、こんな大掛かりなことをしたのでしょう?」
弟子入りしてから、ずっと疑問だったのだ。
なぜ酒蔵に貢献してくれている蔵人たちではなく、ぽっと出の弟子の中から一番弟子を選ぶのか。一番を選ぶだけなら新たに弟子を募集せずとも蔵人の中から選べばいい。わざわざ募集をかけるなんて面倒なだけである。しかし、大旦那はその面倒な一手を選択した。それはいったいなぜなのか。
芒は大旦那が抱えている「酒吞童子の秘蔵酒」を指さす。
「――その酒の噂を聞けば、自分でも造ってみようと考えてしまうほど酒好きな探し人は必ず現れる。そう思ったのではありませんか?
大江の盃に湧き出た液体を口に含んだときのことだった。
聞こえたのは、青年と少年の、かつての記憶。
酒が好きすぎるがゆえに己で造ろうと思った青年に、人生の在り方を決められてしまった哀れで、それでいて眩しい少年。
――うぬの生涯は美味な酒を一つでも多く造ることなり。
きっとこの一声で、少年の生き方は決まってしまったのだ。
芒に流れ込んできた少年の星熊と、目の前にいる病人の星熊。
そしてその星熊は、人生をかけて造り上げた最高の酒に、彼の名を入れた「酒吞童子の秘蔵酒」と名づけたのだ。
「……ほしぐま、ほしぐま……、ほしぐま」
大江は何度も大旦那の名を紡ぐ。忘れてしまったものを思い出すように。
「――あぁそうか。うぬは、あのときの小僧か」
ずい、と大江は星熊に顔を寄せた。
「ふむ、面影があるかは……わからんな。それにしても、もうこんな死にかけになってしまったのか。人の生はまこと一瞬よな。これではいい酒を造れる者がまた減ってしまうではないか」
元の位置に戻った大江は眉を寄せ、人の短い一生に苦言を呈する。どうにもならないとわかっているからこそ腹が立つのだろう。
「……だがまぁ、小僧は吾との約束を果たしたようだ」
大江は、星熊の背を支えるようにして座る蔵人を見た。
「この酒蔵にいる蔵人たちは、うぬが育て上げた精鋭であろう? 皆いい腕をしていた、ちと洗い物には厳しいがな」
それには芒も同意する。本当に大変な日々だった。最初のころなんて毎日筋肉痛に悩まされたのだ。
「つまりだ、小僧。うぬはその短き人生を吾のために走ったのだ。うむ――あっぱれだ」
その言葉を聞いて、星熊は少年のようにくしゃりと笑う。そして、
「……ずいぶんと時間かかっちまったがよ、こりゃあんたのために造った酒だ。飲んでくれ」
と、震える手で白い酒瓶を差し出した。
だが、大江はそれを断る。
「――え、なんで、」
思わず声がもれてしまい、芒は自分の口を手で塞いだ。星熊も断られたことを理解できていないのだろう、口を開いたまま固まっている。
そんな中、大江は一つ息を吐いた。
「忘れたのか小僧。吾は美味なる酒を好む。そして、うぬが造ったそれは最高傑作なのであろう? ここで飲んでしまってはそれで終わりではないか。一度しか楽しみがないのは許せん。だから――」
細くてきれいな指が、差し出された酒瓶を押し戻す。
「――もっと大量に造れ。具体的には、吾が飲み切れないほどだ。そのときまで楽しみは取っておく。安心しろ、吾の気は長い」
妖独特の無茶ぶりに、星熊は驚愕の表情を浮かべる。
「あ、あんた、言ってることの意味わかってんのか……?」
「うむ、わかっているとも」
薄紫色の瞳が細まり、心底楽しそうに口角が上がった。
「――意地でももう少し長く生きて吾を楽しませよ、ということだ。死にかけの小僧」
芒は大江を置いて、星熊の部屋を後にする。階段を下り切ると、
「おかえり」
と、言葉を投げられた。
見なくたってわかる。お願いした通り、待っていてくれたのだ。
「ただいま帰りました、捌殿」
二人並んで通路を歩く。酒蔵内は、やけに静かだった。
「『酒吞童子の秘蔵酒』、味はどうだった?」
捌の問いに、芒は首を振る。
「飲みませんでした」
「え? 飲まなかったの? どうして?」
「酒呑童子専用のお酒だったんで。あ、でもいいこと知れましたよ」
「いいこと?」
「はい。近いうち、秘蔵酒はどこでも買えることになりそうです」
大妖怪である酒吞童子にあそこまで言われたのだ。きっと星熊は意地でも長生きして、「酒吞童子の秘蔵酒」を世に売り出すだろう。
今回は入手失敗に終わったが、今後売り出されるとわかれば秋月やほか女房たちの機嫌もそこまで悪くならないはずだ。
後宮に戻ったときのことを考え、ふと思いついたことを口に出す。
「捌殿、秘蔵酒が売り出されたら二人で飲みませんか?」
その誘いに、捌は口をすぼめた。
「男と二人っきりで飲むのは控えた方がいいって、前に言わんかったっけ?」
「もちろん、捌殿にだから言ってます。――というわけで、どうです?」
試すような目で捌を見る芒。
どうやら捌は言葉が出ないようで、口をぱくぱくと開閉させている。
「答えは秘蔵酒が売られるまで待ちますから。よく考えておいてくださいね」
そう言った芒は、悪がきのような顔で笑った。
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