弐、酒呑童子の秘蔵酒

 こうして弟子入りせざるをえなくなったわけだが、酒蔵さかぐら伊吹いぶき」を訪れた芒は啞然とした。

 見渡す限りの人、人、人。そう、集まった弟子志望者は裕に百人を超えていたのだ。

 ――こんな大勢の中からたった一人しか選ばれないのか。

 そう思っていたのも束の間、十日も経てば弟子志望者は半数以下に減っていた。

 それもそのはず。弟子になったからといってやることは、朝から晩まで洗い物と材料や器具の準備ばかり。酒造りに関わる工程すら見せてもらえない。

 たしかにこれでは逃げ出したくもなるだろう、と芒は思う。なぜなら、弟子に志願した者たちのほとんどが酒造り経験者だったからだ。指示されたようなことは下積み時代に嫌というほど経験したはずである。

 彼らは初心を思い出すために来たのではない。この酒蔵に伝わる技術を盗みに来ているのだ。大旦那の作った最高傑作「酒吞童子の秘蔵酒」は二の次だ。

 この雑用が初日だけならまだよかったのかもしれない。しかし、一向に酒造りに触れさせてもらえないとなれば、時間を無駄にしないためにもすぐ見切りをつけて出て行くだろう。

 何はともあれ、秘蔵酒のために弟子入りしている芒にとって競争相手が少なくなるのはありがたい。

 そう思っていると、今日何度目かわからない自分に割り振られた番号――九十七番と呼ばれる。

 当初は弟子入り志望者が多かったため、わかりやすいように名前ではなく番号が割り振られることとなったのだ。それは弟子が少なくなった今でも変わらない。


「九十七番! 洗い物追加! 桶十個最優先!」

「はいっ!」


 厨でやっていた皿洗いよりも忙しいが、この無駄のない指示にも慣れてきた。

 最優先と言われ投げられた桶を拾い、水場に置かれているたわしでこする。

 そしてそんな芒を、隣で眺めている男がいた。


「さぼらないでくださいよ。あなたも洗い物担当でしょ」


 目を向けずそう言えば、


「あいにく、われの番号は呼ばれなかったゆえな」


 と、冬の雨のような落ち着いた声が芒の耳朶を打つ。


「この屁理屈へりくつ野郎が」

「ここ数日でわかっていたことであろう?」


 芒はため息をついた。

 弟子入りしてから友人と呼べる者はできていないが、共にいる者はいる。

 黒い長髪を一つに結い、薄紫色のつり目を持った、例えるなら蛇のような色男。

 それがこの男、四十八番――大江たいこうだった。

 この名前は、洗い物の最中に雑談のついでで教えてもらったものだ。そこで本人から聞いた話によると、何でも、大江は仕事をしていないらしい。とにかく美味な酒を求めて旅をしているそうだ。今回は「酒吞童子の秘蔵酒」の味を知るために、弟子入りを決めたという。そのため芒と同じく、酒造りはど素人なのだとか。

 蔵人くらびとはそれを察してか、芒と大江の二人には洗い物ばかりを任せるようになってしまった。もはや水場の番人だ。

 だが、ここで一つ困ったことがある。

 ――この男、何もしないのだ。比喩ではない、本当に何もしないのだ。

 番号で指名されれば渋々やるが、先ほどのように何かと理由という名の屁理屈を言ってはさぼっている。

 猫の手を借りたいくらい忙しいときは、ぶん殴ってやろうかと思うほど腹が立つ。

 一昨日、荷運びを指示されたときなんて「吾は筋肉を酷使する動きは好かん」とか言い出しやがった。

 いったいどこのお坊ちゃんだ、親の顔が見てみたいわ、と内心怒鳴り散らすのも無理はないだろう。

 でも、悪い奴ではないのだと思う。


「……ふむ」


 大江は、桶を洗う芒の手を見る。


「丁寧ながらも素早い動き。いつもながら感服するものがあるな」


 彼は毎日、こうやって素直に褒めてくるのである。


「褒めても何も出ないんで、手伝ってもらえます?」


 そう告げると、大江は首を横に振った。

 本当に、こいつは……。

 いらっとしたので、手についた水滴を大江の目に向かって飛ばす。奴が細く情けない悲鳴をあげたとき、蔵人の一人がこちらに来た。


「なぁ、七十五番を知らないか?」


 七十五番――たしか禿頭の男性だったはずだ。


「いや、知らないですね」

「こちらには来ていないが?」

「そうか、作業の手止めて悪かったな」


 後頭部を掻きながら蔵人は去って行く。


「……はぁ、また逃亡者か」


 どうやら、今この瞬間にも弟子が減ったようだ。





 本日もようやく全てのやるべきことが終了した。

 あくびを噛み殺しながら、真っ暗になった酒蔵「伊吹」を後にする。

 提灯の灯り、男女の笑い声、強すぎる酒の匂い。今日は満月なのに、それすら明るく見えない。

 眠らない西部を、芒は肌で感じていた。

 ふと、後宮にいる秋月を思い出す。彼女であれば、この騒がしさすらも詩に変えてまうだろう。いや、秋月でなくとも、上級貴族であれば口が勝手に動いてしまうのかもしれない。

 央都おとに住む上級貴族たちは教養があるからか、美的感覚に優れている者が多いのだ。

 それに比べて芒は美しい月を見たこところで何も思わない。

 今に至っては、洗い物のしすぎで腕がだるいだの、腹が減っただの、そんなことしか考えていなかった。


「――あ」


 思わず、喜色をにじませた声がもれる。

 見慣れ始めた大通り。そこには黒い法衣を身にまとった男性がいた。――捌だ。

 彼はこちらに気づくと手を振る。それに応えるように芒も手を上げ、彼の元へ駆けた。


「おかえり」

「ただいま帰りました」


 ここ最近、二人はいつもこのやり取りをしている。夜遅くまである作業にあわせて、捌が迎えに来てくれるからだ。

 大変だから毎日でなくともいい、と伝えたのだが、これくらいしかできないからと彼は続けてくれている。

 ……正直、うれしい。

 今日あった出来事を話しながら歩くなんて、何だか夫婦のようではないか。そう一人浮足立っているのは芒だけだが。


「……ねぇ相棒」


 そんな彼女の耳に声が届く。


「一緒に来たのに、何もできてなくてごめんね」


 捌を見ると、口角は上がっていたがどこか気落ちしているような雰囲気を感じた。

 理由はだいたい予想がつく。捌が酒蔵「伊吹」に弟子入りできなかったからだろう。

 だが、それはしかたないことだと芒は理解している。彼は弟子入り手続きの際、顔当てはとってもらわないと困ると言われてしまったのだ。

 見えているらしいし、おそらく目を怪我しているわけではないと思うが、きっと外せない理由があるのだろう。ならば自分だけで弟子入りする、と芒は胸を叩いて言った。代わりに、捌には二人が宿泊する宿屋での食事を頼んだ。格安であるため、食事の提供など気の利いたものはないからだ。

 加えて、こうして遅くまで作業していた芒を迎えに来てくれる。何もできていないという言葉は相応しくない。

 芒は首を振って口を開いた。


「捌殿はご飯作って待っててくれるじゃないですか。それで十分です。だから、秘蔵酒のことはわたしに任せてください。厨で皿洗いを手伝ってたことがここでようやく実を結ぶんですから」

「……うん、ありがと」


 捌の小さなお礼を聞いて、芒は内心頭を抱えた。

 こういうとき、どのような行動をとるのが最適なのだろうか。

 慰め方すらわからない。というか、慰めるということが正解なのかもわからない。だって、それができるほど彼を知らないのだ。

 どうして顔当てをしているのか、どうして陰陽法師になったのか、好きな食べ物は、嫌いなものは、家族構成は。本当に、何も知らない。

 もう二つも季節を共にしているというのに。

 捌にばれないよう小さく息を吐く。


 ――あなたのことを知りたいと、どのように伝えるべきなのか。


 女房たちから学んでおけばよかった、と後悔した。

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