奇人姫の鬼食い役

福島んのじ

奇人姫の鬼食い役

 神が宿るとされている食に、毒を仕込む者がいた時代。

 ある少女が鬼の間と呼ばれる一室から出てきて、御上おかみ屠蘇とそを試飲したという。

 それ以来、貴人が食事をする際には必ず毒見役がつくこととなった。

 それから数百年が過ぎ、毒殺という殺害方法がめっきり減った今でもこのならわしは続いている。

 そして、そんな上級貴族の毒見役を、人々は「鬼食おにくい」と呼んだ。



◇◇◇◇◇



 毒見とは、見ることから始まる。記憶に残る食材の色を思い出し、見比べていく。

 次は香りだ。馳走から立ち昇る湯気を鼻から吸い込む。問題なしと脳が判断すれば、唾液が口の中にあふれた。

 最後に味。これが一番重要だ。庶民が数年間休みなく働いてやっと買えるであろう値段の箸で、皿に乗せられた白身魚をほぐす。身がとてもやわらかく、ほぐしたところから出来立て特有のあたたかさが感じられた。唾液を飲み込み、口を開く。舌の上に乗せた白身魚をしばし味わい、咀嚼を開始した。歯が当たるだけでほろほろと崩れる。塩で味付けされており、魚介類特有の生臭さは一切感じない。

 十分に噛んでから嚥下すると、ほぅ、と満足そうな息がもれた。


「見た目、香り、味。とくに問題はないかと」


 毒見を終えた鬼食おにくい役――すすきが落ち着いた声で言う。それを聞いた年増の女房はうなずきを返し、己の主の方へ向き直ると口を開いた。


「姫様、問題はないようですが遅効性の毒である可能性も考えられるため、今しばらくお待ちくださ――」

「うん、――飽きたね」

「え、」


 女性にしては低めの、凛とその場を支配する声が響く。

 声の主である女性は鴉のような漆黒の瞳で、毒見を終えた馳走を見下ろしていた。


「飽きた、と言ったんだ――この食事にね」


 艶やかな黒い垂髪をかき上げ、その女性は同じ言葉を口にする。周りにいた女房たちは未だ理解が追いついていない様子だ。


「芒。ここにあるもの、全部食べていいよ」

「なっ⁉ 姫様⁉」


 いったい何を言っているのです、と女房たちは己の主に瞠目し声をあげる。通常であれば主に意見するなど許されたことではないが、姫と呼ばれた女性は大して気にした様子もなく芒に向かって、早く食え、と顎をしゃくった。


「では、姫様の命に従い……いただきます」

「あなたもあなたで食べ始めないの! ……ちょ、こら! 食べるのをやめなさい芒!」

「ですが姫様が食べていい、と」

「だからって食べない! ちょっと姫様、何を笑っておられるんですか!」


 注意をしていた女房の矛先が再び姫に向かったことを確認し、芒は咀嚼を再開、そして次の皿に箸をつけた。女房たちが食事の大事さを姫に説いている中、皿の上にあるものが次々と消えていく。

 芒は口を動かしながら、まるで景色でも眺めるかのように騒ぎの中心に目を向けた。

 息を呑むほどに美しい漆黒の髪と瞳。薄い眉の下にあるつり上がった目尻は男にも引けを取らない強さを感じさせる。だがそんな男らしい部位とは反対に、女性らしく盛り上がった衣袴姿きぬばかますがたの胸元は多くの目を引くだろう。

 彼女の名は秋月あきづき。現みかどである御上おかみの娘――内親王とも呼ばれるお方である。

 そんな大層な身分を持った姫が、はしたないほどの大口を開けて笑っていた。


「まぁまぁ、皆落ち着きなさい。なにもは『食べない』とは言っていないさ」


 青筋を浮かべた年増の女房に向かって、秋月は白魚のような手を上げる。


「……では、いったい何を食べるおつもりで?」


 女房は顔を引きつらせながらも、先ほどより声量を落として尋ねた。すでに嫌な予感がするのだろう、この場にいる使用人たちは皆眉間にしわが寄っている。――今もなお食事を続けている芒を除いて。

 秋月は女房の質問に対し、待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべて口を開いた。


「――あやかしを食べようと思っているんだ」


 その言葉を聞いた途端、女房たちは一斉に頭を抱えた。顔には、ふざけるのも大概にしてくれ、と書いてある。


「……恐れながら姫様。姫様は今年で齢二十二の女子おなごでございます。妖など食べられたものではないとご存じのはずでしょう?」

「いや、これがそうでもないんだ」


 一瞬にしてげっそりした女房たちとは反対に、秋月は意気揚々と話を続ける。


「最近陰陽殿おんみょうでんに来た陰陽法師おんみょうほうしがいてね。妖を退治した後に食べることで、欠片も残さず祓うという変わった派閥の者らしい。……うん、皆の顔を見ればわかるよ、興味が出てきたのだろう?」

「………………」


 興味どころか、女房たちは言葉を無くし、ただ口を開閉することしかできないのである。

 そんな状況を一人蚊帳の外で眺めていた芒は口の中にあったものを嚥下し、姫のお世話係である女房は我が儘に振り回されて大変だな、などと思っていた。

 ついこの間も、やれ動物の睾丸が食べてみたいだの、遠方の呪物が欲しいだの、我が儘を言っていたが、今回は陰陽法師関連の話ときた。これはほかの我が儘よりも輪をかけて厄介である。

 陰陽法師とは、通常見ることも触ることもできない妖魔を人ならざる力で退治する者たちの総称だ。妙な力を使うためか、変わり者が多いと聞く。

 しかも秋月の言っていた「陰陽殿」とは、御上の命によって国中から集められた優秀な陰陽法師が集う場だ。変わり者だけでなく、気難しい者や高慢ちきな者もいるだろう。そんな者たちに「妖が食べたいから力を貸してくれ」と言ったところで協力してくれるとも思えない。

 さすがは「奇人姫きじんひめ」の異名を持つお方だ。言うことがぶっ飛んでいる。

 ……さて、女房たちはどうやって姫に諦めさせるだろうか。

 もはや見世物でも見ているような気分である。芒は小鉢に盛られたたくあんを噛み砕いた。

 それと同時に、ある一人の女房の発言によって沈黙が破られる。


「た、たしかに姫様のおっしゃる通り、その一派の陰陽法師にとって妖は食材なのでしょう。……しかし! 我々女房としては、姫様にそんななど食べさせるわけにはいきません!」


 その言葉に女房たちは顔を上げた。


「そ、そうです!」

「よく言いました!」

「その通りです姫様! 今までも変わったものは食べてきたでしょう? 様々な動物の睾丸や呪物など、それで満足してくださいまし」


 勇気ある発言をした女房の背を押す言葉が次々と飛び交う。

 紛うことなき正論だ。米を口に運びながら、芒は一人納得する。

 今までも我が儘を聞いてやっただろう、だから今回は諦めてくれ。女房たちから暗にそう言われているわけだが、秋月はどう反論するのか。それともこれで決着がつくだろうか。

 そう思い秋月に目を向けた瞬間、


「――ッ⁉」


 芒の息が止まった。

 秋月が、それはもう心底楽しそうに、こちらを見据えている。

 理由はわからない。だが、本能的によくない未来を想像してしまう。


「――なるほど、得体が知れていればいいわけだ」


 白魚のような細く長い指が、芒の食べていた御前を指す。


「あの魚のように、生きているときの姿がわかれば……ね」


 何がそんな面白いのか、口角を上げたまま秋月は言葉を紡いだ。


「――では芒、お願いね」


 両手を合わせて、秋月は淡々と言い放つ。

 その言葉に頬が引きつるのを感じながら、芒は無理やり笑みを浮かべた。


「……な、何をでしょうか? 姫様」

「何をって決まっているだろう? 妖を食べて祓うという陰陽法師に会いに行って――」

「あ、会いに行って……?」

「妖退治の場に同伴させてもらい、その後本当に妖が食べられるのかを確認してほしいんだ」


 妖がどんな姿をしていたかも報告しておくれ、と続ける秋月に、先ほどの女房たちと同じく言葉を無くす。

 何を言っているんだこの姫は。芒は引きつった笑みのまま思う。自分はただの鬼食い役、毒見をするのが仕事だ。調理される前の食材がどんな姿をしているか、さらには退治する工程まで見るなんて、お門違いもいいとこである。

 そもそも鬼食い役なんて危険な仕事をしている理由は、仕事中でもご飯が食べられるからだ。大食らいの自分は、朝夕に配給される食事だけではまったく足りないのである。

 だのに、それ以外の仕事が増えるなんて堪ったものじゃない。

 左右に顔を向け女房たちに助けを求めるが、誰一人として目を合わせようとしない。もう諦めたのだ、この姫の無茶ぶりに対抗することを。

 ……こうなったら、自分でやるしかない。


「……お、恐れながら姫様。もし、妖を食べたことでわたしに腹痛や吐き気などが出たらどうするおつもりですか? 日々の毒見が困難となりますが……」

「それなら心配いらないさ。かしこまった食事でもない限りは青女房の葛花くずばなに任せるとしよう。……でもそうだな、お前が苦しむのは可哀そうだね」

「で、でしたらっ――」

「――よし、腕のいい薬師に声をかけておいてあげよう」


 そう言った秋月は、これぞ名案とばかりに微笑む。

 ――違う、そうじゃない。

 大声で言いたい言葉は、終ぞ音になることはなかった。

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