第11話 氷室透花
少女を抱えたまま、俺はダンジョンの坑道を引き返していた。
一歩進むごとに、胸元のライトが揺れる。中途半端な明かりのせいで『夜目』の効果は薄れていたが、彼女が目を覚ましたときに真っ暗な中で運ばれていたと知れば、余計な不安を与えるだけだ。だから、灯りは消さなかった。
腕の中から伝わる体温と、かすかな呼吸音。そのぬくもりと気配が、自然と俺の足取りを慎重にさせていた。
帰路では、戦闘らしい戦闘には一度も遭遇しなかった。
どうやら、ダンジョンのコアを破壊したことで、ゴブリンたちはこの巣を放棄したらしい。
地上の気配が近づくにつれ、周囲に漂っていた瘴気も、ゆっくりと薄らいでいく。
しばらく歩いたそのとき――
腕の中の少女が、わずかに身じろぎした。
「……ん……」
かすれた声に続いて、少女の瞼が薄く開いた。
「目が覚めたか」
立ち止まり、静かに声をかける。彼女は状況を飲み込めないまま目を瞬かせていたが、やがてその蒼い瞳を動かして、俺を見つめた。
「あなた、は……」
「心配するな。もう最奥じゃない。今は地上に戻る途中だ」
少女は小さく頷いた。意識ははっきりしてきているようだ。
俺は少し間を置いて、問いかける。
「名前は?」
一瞬だけ迷ったあと、彼女は小さく唇を動かす。
「……氷室、透花……です」
「氷室透花か。俺は――」
「赤坂さん、ですよね。昨日、お会いしました」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
「身体の具合は? どこか痛むところはないか」
「大丈夫です。たぶん、動けます」
俺は慎重に彼女を下ろし、地面に座らせた。
「起きられるか?」
「……はい」
少女は――透花は、壁に手をつきながら、ゆっくりと体を起こした。不安定な動きではあったが、意識はしっかりしているようだ。
「無理はするな。歩けなくなったら元も子もない」
「……ありがとうございます」
透花は俯き、少しだけ唇を噛んだ。
「ボスは……あの魔物は、どうなりましたか? 戦っていたと思ったら、突然すごい音がして……それから……」
「アイツなら逃げたよ」
俺はさらりと嘘をついた。真実を話せば、あの制約に抵触する可能性がある。
「逃げた?」
「ああ。たまたま響砕石に攻撃が当たって、爆音に驚いて逃げたらしい。俺が着いたときには、すでに姿はなかった」
「そう、ですか」
透花は特に疑う様子もなく、ほっと息を吐いた。
俺はその顔を見ながら、静かに問いかけた。
「どうして、あんな場所にいた?」
透花は少しの間沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「昨日の夜……黒木さんが困っているのを、聞いたので」
「黒木?」
「この畑の持ち主のおじいさんです」
「ああ」
どうやら、あの老人との会話を、どこかで聞いていたようだった。
「それで、一人でダンジョンに入ったのか。無茶が過ぎる」
俺がたしなめようとしたところで、透花が小さく言葉を挟んだ。
「私……A級覚醒者なんです」
その言葉で、思考が止まった。
「……A級?」
「はい。誰にも言わないようにって言われてましたけど、本当です。剣も魔法も、まだちゃんと使えないし、訓練もろくに受けてないけど……覚醒したとき、そう告げられました」
(―――…誰にも言わないように、か)
俺は少女の言葉を口の中で転がした。
なるほど。ようやく合点がいった。
島の覚醒者たちが、俺を過剰に警戒していた理由は、これだ。
(こいつの存在を、俺に知られたくなかったんだな)
もし協会の人間にA級覚醒者の存在が知られれば、その覚醒者は即座に本部の監督下に置かれることになる。島の人間は、それを恐れていたのだ。
あの時、俺が「協会の派遣者だ」と名乗った瞬間、彼らの態度が一斉に変わった理由はきっと、彼女を守るためだったのだろう。
(しかし、A級ね……)
俺は内心そう呟きながら、彼女の姿を改めて観察した。
もしその話が事実なら、彼女がダンジョンの最奥にいた理由も、ようやく合点がいく。
A級覚醒者といえば、S級に次ぐ存在だ。
S級が「人類の最終兵器」と呼ばれるのなら、A級は「国家規模の戦力」とされている。
たとえ剣や魔法の扱いが未熟でも、E級ダンジョンの魔物程度なら、適当に剣を振るだけである程度は対処できるはず。
だが、それはあくまで雑魚相手の話にすぎない。
巣穴を守るボス級の魔物が相手となれば、状況は一変する。
どれだけ潜在能力が高くとも、戦い方を知らず、武器や魔法の扱いすらままならない状態では、容易く足元を掬われる。
ボスとは、そういう存在だ。甘く見れば、即座に命を落とすことになる。
俺は小さなため息を吐き出すと、言った。
「お前がA級だろうがなんだろうが、関係ない。剣の握り方も知らないなら、ただの素人だ。素人が遊び半分でダンジョンに入るな」
自然と語気が強くなっていたが、透花は俯いたまま反論しなかった。
「お前みたいな新人が、こんな場所に一人で来るのを……誰も止めなかったのか?」
「……誰にも言ってません。言えば、止められるって分かってたから」
落とされた声には、諦めが滲んでいた。透花は足元を見つめ、唇を噛みしめる。
「みんな、私のことを過保護に扱うんです。A級覚醒者なのに、誰よりも力があるはずなのに……戦わせてくれない」
「戦わせてもらえない?」
俺は眉をひそめた。
「A級なのにか?」
常識では考えられない話だった。
A級の覚醒者であれば、まず戦場に送り出されるのが通例だ。潜在能力を持つ者を遊ばせておけるほど、この国に余裕はない。
にもかかわらず、この少女は、戦うことを固く止められているという。
思い返せば、最初から違和感はあった。
広場で見かけた彼女の動きには、訓練を積んだ痕跡も、実戦の経験も感じられなかった。
当初はただの新人だと思っていた。だが、もし本当にA級覚醒者なのだとすれば、話はまるで変わってくる。
「私なら、きっと役に立てるのに……。でも、誰も信じてくれないんです。剣を取るだけで、みんなに止められるんです」
その声に滲んでいたのは、怒りというより、戸惑いと寂しさだった。
「理由は?」
「……教えてもらえません。ただ、『戦わせられない』って。それだけです」
「戦わせられない、か」
俺は小さく呟き、言葉を止めた。
島ではいま、魔物との戦いが続いている。
昨日、集落を見て回った印象でも、この島の覚醒者たちに余裕がないのは明らかだった。
本来であれば、A級覚醒者がいると分かれば、その力を頼りにするのが当然だ。
(やはり、おかしい)
A級という強大な力を持ちながら、その存在は伏せられ、戦うことすら禁じられている。
氷室透花――この少女は、明らかに〝特別扱い〟されていた。
それも、過保護という言葉では収まらない。
より深く、根の張った〝忌避〟のような感情が、島全体に漂っている。
(こいつが戦ってはならない、理由がある)
俺は無言で、透花を見つめた。
透花はそんな俺の視線に気づかぬまま、そっと頭を下げる。
「あの……助けてくれて、本当にありがとうございます」
「俺は何もしていない」
「でも、気を失っていた私を、ここまで運んでくれました。もし放置されていたら……きっと、私はもう――」
その先は言葉にならなかった。
俺は小さく鼻を鳴らし、短く返す。
「そう思うなら、命を粗末にするな。次も同じように助かるとは限らない」
「……はい。そうします」
透花はこくりと頷いた。
それからしばらく、俺たちは言葉を交わすことなく、坑道を進んだ。
瘴気はすでに引き始めており、空気は以前より澄んでいる。耳を澄ませば、風の通り抜ける音と、岩肌から滴る水音が、静かに反響していた。
やがて、前方に淡い光が見えた。
自然の通気孔から漏れる、昼の陽光だろう。地上が近い証だった。
「……赤坂さん」
背後から届いた声に、俺は足を止めて振り返る。
「どうした?」
透花は立ち止まり、少しためらうように口を開いた。
「勝手にダンジョンに入ったこと……謝ります。自分がA級だからって、慢心してました」
「……別に怒ってはいない」
素直にそう返す。
怒るには、彼女はまだ幼すぎた。あまりに未熟で、そして、あまりに必死だった。
「ただ、自分の命の重さは、覚えておくべきだ。それを捨ててまでやるべきことは、この先いくらでもある。その時が来るまで、軽く使うんじゃない」
「……はい」
透花は小さく返事をし、俺の隣に並んで歩き出す。
その顔には、さっきまでの怯えや焦りはもうなかった。
そのまま俺たちは、魔物に遭遇することなく地上へと帰還した。
陽の光が目にしみる。
俺は後ろを振り返り、透花に声をかけた。
「もう大丈夫だな? 先に戻っててくれ。俺は別の巣穴を潰してから戻る」
「別の……巣穴に? あの、でしたら私も――」
「は? 何言ってんだ」
予想外の申し出に、思わず眉をひそめる。
「さっきまで死にかけてたのを忘れたのか? 子供の冒険はここまでだ。今日は帰れ」
「でも……このまま帰ったら、私は何も変われないままです」
「だからどうした」
ぴしゃりと返すと、透花の肩がわずかに揺れた。
陽光の下でも、彼女の姿はどこか儚げだった。
白銀の髪が風に揺れ、頬にかかる。小柄で華奢な身体は、鎧越しでも頼りなさが伝わってくる。青く澄んだ瞳が、不安と決意の入り混じった光を宿しながら、まっすぐ俺を見つめていた。
どう見ても、まだ幼い少女にしか見えない。
――そんな彼女がA級覚醒者だなんて、信じろという方が無理がある。
「それが俺に、何の関係がある。F級覚醒者がA級のお守りなんてできるはずがないって、お前自身が一番わかってるだろ」
「……でも、このままじゃ、私……」
「そもそも、なんで俺なんだ。他にも教えてくれるやつはいるだろ」
「だって赤坂さん、詳しそうですから」
「詳しい?」
「ダンジョンや魔物のこと……F級の人が、E級ダンジョンを単独で攻略してるなんて、おかしいです。危険すぎます」
透花は少し考えるように間を置き、慎重に言葉を選んだ。
「つまり、赤坂さんは……ただのF級じゃないってことですよね」
なるほど。俺がひとりで行動しているのを見て、疑問に思っていたわけか。
握りしめた拳をじっと見つめながら、透花はぽつりとつぶやいた。
「だから、赤坂さんのような人のそばで学びたい。どうか、私にダンジョン攻略の基本を教えてください」
その瞳は、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
昼下がりの陽を受けて、青の瞳が淡く、不思議な色を湛えて揺れている。覚醒者に特有の魔力の輝きが、迷いなく俺を見据えていた。
俺はその視線を受け止めながら、胸の内でそっと呟いた。
(……確かに、素質はある。きちんと訓練さえ積めば、一人でB級ダンジョンを攻略できるだけの力にも届くだろう)
だが――
「ダメだ。一緒には行けない」
「どうしてですか!」
「どうしてもだ。新人に何ができる。俺がお前の面倒を見る義理はない」
透花の顔に、影が差した。
「……でも、私、もっと強くなりたいんです」
その言葉を遮るように、俺は手を軽く振った。
「ダンジョンは訓練所じゃない。実戦の場だ。経験を積みたいなら、まずは基礎を叩き込んでもらえ」
「でも、誰も教えてくれません。みんな私を……過保護に扱って……。だから……」
「それは俺の知ったことじゃない。戦いたいなら、どんな手を使ってでも基礎を固めろ」
しばらくの沈黙ののち、透花は小さく頷いた。
「……わかりました」
未練を抱えながらも、素直に引き下がるあたり、聞く耳はあるようだった。
「それじゃ、またな」
軽く手を振って背を向けた俺を、少し遅れて現れたテルミナが出迎えた。
どうやら最初から、ずっと様子を見ていたらしい。
透花の去っていった方向を眺めながら、テルミナがぽつりとこぼす。
「なかなか、使えそうな子じゃない」
「気に入ったのか?」
「そうね。あなたがいなければ、あの子に契約を持ちかけていたかも」
「契約を更新するなら、今からでも――」
「それは無理な相談よ」
クスクスと笑いながら、テルミナは言った。
「私、これでもあなたのことを気に入ってるの。あなた以外に、私と契約できる覚醒者なんて後にも先にも、いないわよ」
随分な高評価だ。
俺は鼻を鳴らし、彼女の言葉を軽く受け流した。
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