18,ミズナの記憶


 そしてミズナは語り始める――

 あたしはかつて、黄泉の王だった。名前も、姿も、感情すらも、今のあたしとは似て非なる存在だった。けれど、いま胸の奥で脈打つ感覚は、紛れもなくその記憶のすべて――断片ではなく、一本の流れとして蘇ったものだった。

 黄泉とは、死者の魂が安らぐ場所などではない。管理され、循環を装った、永遠の停滞を強いる装置。あたしはその中枢に君臨し、ただ世界の均衡を守ることだけが役目だった。誰をも愛さず、誰にも愛されず、ただ滞りのない循環を維持する歯車として、永い時を過ごしてきた。

 そのはずだった。だが、ビカク――終焉を誘う者が現れたことで、すべてが変わった。一度は死を拒絶し、現世に執着し、魂の規律をねじ曲げてまで歩みを止めず、ヴァルキュリアのユカリまでも現世に根付かせた。その異常性に、あたしは知らず惹かれてしまっていた。気づけば、彼を見つめていた。王としてではなく、一人の存在として。これをあたしは「愛」であるのか判然とせず、確かめたい。知りたい。そう思ってしまった。

 あたしは彼に騙された。あるいは、自ら騙されたふりをして、現世に行きたかったのかもしれない。記憶を封じ、力を封じ、ただの女として新しい生を歩むようにと、彼はあたしをこの世界に送り出した。そうすれば本物の「愛」を知れる、と。そんな人としての感情が芽生えてしまったのは、ビカクという異質な存在、あるいは異質なRAに触れてしまったからなのかもしれない。

 涙ぼくろ――それが封印だった。「腕力」、「RA制御能力」、そして王であった「記憶」。この三つの封印は、ビカクが現世へ行ったときに上手くやっていけるように意図的に封印してくれたもので、あたしもそれを了承した。

 そしてその封印はビカクには黙って、時が来たら解放するよう、自らに仕組んだ。死を司る魔獣との接触、生を実感する人間の感情との接触、そして黄泉の使途ヴァルキュリアとの接触。これらはすでにあたしが現世へ舞い降りたときから定めていた。

 だが、今は悟っている。黄泉の王の座を、ビカクが奪ったのだと。あたしを黄泉から追い出し、ビカクが新たな黄泉の王として君臨し、思惑を成し遂げようと。だが、その思惑が、まだあたしにも見えてこない。

 ビカクの話をしよう。あの男のRAは、言葉にするなら「色欲」のようなものだった。だが、浅はかな意味ではない。引力に似た、深い場所から引き寄せる力だ。人の心に、魔獣の本能に、そして我ら黄泉の者の魂にすら作用する、奇妙な共鳴だった。ビカクはそれを使い、あたしを魅了した。

 セッカの母――ユカリ。もともとは黄泉のヴァルキュリアだった存在だ。彼女が現世に降り、命を宿し、そして自らを犠牲にしてまで子を救ったのは、あのRAが引き金だった。ユカリはビカクに求心され、心を動かされ、黄泉の使途として現世から魂を拾うという役割を捨てた。あれほど誇り高いヴァルキュリアが、だ。

 あたしは気づいていた。あのRAの異常さに。だが、それを制止することはしなかった。むしろあたしは、そのユカリまでもが魅せられた、“愛”と呼ばれるものに興味を抱いた。命をかけて誰かを想うというその感情が、どうして人をそこまで突き動かすのか。なぜ、その苦しみと痛みを美しいとさえ人は言うのか。理解などできるはずもなかった。なにしろ、黄泉に属する者にとって、“感情”というものは欠けた機能でしかないのだから。

 だが、それでもあたしは知りたかった。見たかったのだ、その“尊さ”というものを。ビカクが作り出した世界の中で、あたしはそれを追いかけた。けれど今になって思えば、あたしが抱いた好奇心もまた、彼のRA-Oの干渉によるものだったのかもしれず、自らの内から湧き上がる感情ではなかったのかもしれない。おそらくすべてはビカクの手のひらの上で転がされていたのだ。気づいたときにはもう遅かった。あたしは、自ら黄泉の王としての座を降り、現世に身を投じていた。ミズナとして。

「して、アビスレイン」と、ミズナが一歩、アビスレインに近づいた。その声音は凪のようだったが、氷の刃のようでもあった。「お前は、ビカクと共謀していたな。その思惑とはなんだった?」

 アビスレインは沈黙する。そして瞳を伏せ、少しだけ目を細めると、答えた。

「選択の日が来たら――この世界の在り方を変えず、存続させる。それが我らの望みだった。すなわち、不変を誓ったのだ。死があり、生があり、また死が巡る。それを望むと誓い合った」

 ミズナは小さく頷いた。けれど、それは納得ではなく、確認だった。彼女の瞳にちらついた怒気を、俺は見逃さなかった。

「では、こういうことだな。王なき黄泉の国に、ビカクが王の代理として居座っている。あたしが封じられている間に。つまり、ビカクは――あたしを排し、王座を奪い、黄泉を手中に収めた。ここまではお前たちの狙い通りというわけか」

 問いかけというには鋭すぎた言葉に、アビスレインはわずかに眉を寄せた。そして、苦々しさすらにじませて言う。

「……そうだ。だが、我は、そもそも黄泉に“王”がいたことすら知らなかった。ただの秩序と力による均衡。それだけの世界だと認識していた。だが、それをビカクが知っていたというのであれば――そうだな。奴の中では、とっくに筋道はできていたのかもしれん」

 風が吹いた。誰も言葉を継げない沈黙があった。あのアビスレインでさえ、手のひらの上で踊らされていたとしたら――その男、コウノ・ビカクという存在が、いったいどこまでを見通していたのか。俺には、想像もつかない。

 ミズナの表情は読めなかった。ただ、すべてを見透かしたような瞳で、空の向こう――もうひとつの世界を見つめていた。

「RAとはなにか――おまえたちは知らないのだろう?」

 誰も答えないことを見越していたかのように、ミズナは言った。その声は、あくまで淡々としていた。だが、語調の奥に、確信のようなものが滲んでいた。

 RA――Radiation Arcanaレディエーション・アルカナ。それは“力”ではない。ましてや“魔法”でもない。RAとは、目に見えない、極微の量子の動きを制御する技術だ。

 この世界のすべては、粒で構成されている。目に映るもの、聞こえる音、肌に触れる温度、さらには感情や記憶の断片すら。それらは、量子的な振動や波動の束として存在しているにすぎない。

 RAはその“振る舞い”に干渉する。粒の動きを速めれば熱となり、制止すれば氷となる。波長を揃えれば物質を同調させ、逆に干渉すれば消滅させることすらできる。それこそがRAの正体。

 この世界において“起こりうること”の可能性を掴み、それを現実へと確定させる介入行為。だから、炎を操るRAがあれば、観測こそしていないが、時間を止めるようなRAすら存在しうる。ビカクのRAは、「引力」と呼ぶべき干渉だった。

 人の心、魂、そして存在そのものを引き寄せ、縛りつける力。それは物理的なものではない。精神領域の波長に対し、強烈な共鳴を生じさせるRA。魔獣も、ヴァルキュリアも、黄泉の理すら、その求心力には抗えなかった。

 そして、セッカ。お前のRAは、他のすべてとは原理を異にする。初期段階では“透明化”と呼ばれていたが、それは単なる視覚的遮断ではない。お前のRAは、あらゆるRAとの回路を断絶する。

 この世界におけるRAとは、“共鳴”によって発動する。量子に働きかけるためには、対象との接続が必要だ。だが、セッカのRAは、自己を完全に“量子のネットワーク”から隔離することで、すべての干渉を遮断する。つまり、RAによる攻撃も無効化する。お前が言う透明化は、その無効化の過程でしかなく、未熟なものだった。本来、存在そのものが“観測不能”の領域に移るため、攻撃の対象にすらなりえない。

 そして今――セッカは他者のRAそのものに干渉できるようになった。対象のRA回路を探知し、遮断し、無効化する。

 それは、RAの源流にアクセスし、力の使用そのものを封じる異端の能力。通常のRAが“選択肢を掴む”力であるならば、セッカのRAは“選択肢そのものを無効化する”力。RAの存在が世界を変える力ならば、セッカの存在は、世界の理を否定する力に等しい。

 セッカ、そしてビカク。彼らはRA-Nullとされてきた。無能力者。だが、それはこの現世の観測できる域を超えていたからこそ、観測機では感知できない領域の“粒”を操っていたということ。一般的に人間が操るRAは粒が粗い。その粗い粒しか干渉することができないからだ。だが、アビスレインはさらに微細な粒にも干渉できる。そしてさらに微細な粒に干渉できるのが、勇者の血筋、コウノ家の血を宿すもの。それが、RA-Oの正体。

 原初のRA。この世界の始まりと終焉を司る、唯一の異端。

 終焉の時は、まもなく訪れるだろう。現世に実体を持ったヴァルキュリアが現れた。という、それそのものが兆しだ。この世とあの世の境が崩れかけている。死者の国が裂け、魂の通路が開きはじめている。すべての世界の堺が、いま、曖昧になりつつあるのだ。

 そしてやがて起こるのが、世界の再構築。それはこの世界に古くから組み込まれた理。世界は幾度となくその運命に抗い、あるいは従い、編み直されてきた。形を変え、意味を変え、輪郭を変えて、再び生まれる。再構築とは乱暴に言えば、統一か分離か。

 今の世界は、直近の終焉の際に「分離」が選ばれた結果だ。その証拠に、現世と黄泉の国とでは明確な線引きが存在している。死のある世界である現世と、死のない世界である黄泉。これがふたつに引き裂かれ、別々に存在するようになったというのは、過去の終焉でそれを選択した存在がいるということ。

 この世界は一定の周期で再構築されるようにできている。それが、理だ。そして、コウノ家がその鍵を握る。コウノ家が72の周期を迎えたとき、この世界は終焉を迎えると定められた。

 そこに意味などない。

 黄泉とて、魂の選別を行い、その優秀な魂を保管しているに過ぎないが、それに目的はなく、価値もない。ただ行われてきた慣習。まるで水が川を下り、海へ注ぎ、やがて蒸発して雨となり、また山に戻るかのように。生命がその循環に恩恵を見出すことがあろうとも、それはただの無意味な現象の積み重ねに過ぎない。

 世界とは、まず無意味に始まり、その中に意味を見出そうとする“生命”が生まれ、その意味に踊らされながら、また新たな無意味を孕んで終わっていく。意味は後からつけられるものであり、最初から世界に組み込まれていたものではない。世界には、究極的に、目的も意味も存在しない。

 なぜ、72なのか。なぜセッカなのか――。

 あえてそれに意味を見出してみよう。あたしも人間らしくなったものだ。おそらく72という数字がただの数ではないからだ。世界がこのかた、すべてを“周期”で成り立たせてきたことを思い出してみろ。春夏秋冬をさらに細かく分けた七十二候。命の循環と調和。地上のすべては、72の段階を経て変化し、再び芽吹く。

 この構造は、単なる暦ではない。これは“秩序”であり、“法”だ。魂もまた同じ道を辿る。生まれ、死に、還り、巡る。それを72度、繰り返す。72とは、ひとつの巡りの完成した値として、世界を回している安定した特別な数字。

 無論、この72という数字が36であったとしたら、仮に4だとしても、そこに意味はない。ただ意味が見出されるのみだ。これは詭弁でしかない。ほんの人間の言葉遊びだろう。

 戯れが過ぎた。話を戻そう。

 この世界に“勇者”という制度を与えたのもまた、黄泉の技術と意思だった。RA――この力を操る適応者を選び、循環の役割を演じさせる。その血脈を72代にまで紡ぎきったのが、コウノ家。だからこそ、コウノ・セッカは、ただの個人ではない。72回目の“問い”そのものなのだ。

 一代で英雄となる者もいよう。奇跡の力を持つ者もいよう。だが、彼らは選ばれない。選べない。“終焉の選択”は、あらゆる才能を超えた先に血をもって積み上げられたもの。ただ世界と共に、律動を重ねてきた者――それが唯一、分岐の鍵を持つ。コウノ・セッカに託されたのは、力ではない。だからこそ、あえて言おう。

 それは「意味」だと。

 無意味だった世界に、意味を落とす行為。それをこの世界は否定する。意味も目的も、なにもかも必要ない。だが、それが不必要であるからこそ、無から有を生み出す創造であるからこそ、そこに生命の営みがあり、尊い。それこそが「愛」だ。今ならあたしもわかる気がする。

 誰かがこの世界に「こうあるべきだ」と、願いを重ねる。無数の因果に名をつけ、記憶に意味を持たせ、過去に価値を与える。その瞬間、世界ははじめて“語られる”。混沌は物語になり、循環は意志になる。生と死のあわいに置かれたこの舞台は、誰かひとりの決断をもって書き換えられる。

 そして、終焉の先にあるのは、終わりではない。意味を宿した新たな世界の営みだ――。

 

 地鳴りが走った。大地が、隆起を始めた。まるで何か巨大な胎動が地の底から這い上がってくるような、深く重たい震え。空が軋み、空間がひずみ、見慣れた地形が歪みはじめる。世界の再編が、ついに始まったのだ。

 ヴァルキュリアがぽつりと呟いた。

「いよいよです」

 ミズナはその言葉に特別な反応を見せるでもなく、ただ当然のこととして受け入れたように、肩の力を抜いた。そして、どこか懐かしい記憶に手を伸ばすように、小さく頷き顔つきが途端に柔らかくなった。

「じゃ、セッカの父さん問い詰めにいこっか」

 ミズナのその笑顔は、まるで遠足の相談でもするような軽やかさを帯びていた。だがその瞳の奥には、王の記憶をすべて取り戻した者の覚悟が宿っている。だからこそ、俺は思わず口にしていた。

「やっぱ、お前はそのほうがいい」

「そう?」

「そっちのほうが、可愛いからな」

 地面が――いや、世界そのものが、天に吸い込まれていった。空と地の境が崩れ、上も下もなくなったような感覚。足元がふわりと浮き、何もかもが光の粒になってほどけていく。

 その瞬間、視界が、ブラックアウトした。まぶたの裏ではなかった。何かの遮断、あるいは――終焉の暗闇だった。

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