17,王都急襲
しばらく沈黙が続いたあと、クレイモアが口を開いた。声は冷淡だった。そこにはもはや議論の余地など残っていなかった。
「敵対の意志があるのなら、やはり斬るしかあるまい」
広場の空気が変わった。風が止まる。取り巻きの兵たちの肩が上がり、甲冑の音がカシャリと鳴った。武器が上向く。
俺も刀に手をかける。
「なら、その喧嘩、買うしかないな」
ノアールも腰を一段落とし戦闘態勢を取る。その目は怒りも悲しみもすでに超えて、まっすぐにクレイモアを見据えていた。
ミズナが「うへぇ、まじぃ?」と言いながらも、袖をまくって火球を錬成。ミズナを中心に火球が惑星のようにいくつか回っていた。
「下がっていろ」
クレイモアが兵たちに指示すると、ひとりの兵が「しかし」と口ごもる。
「下がれと言っている」クレイモアが冷淡に言い、「死ぬぞ!」と自らの兵を威圧すると、その殺気に兵たちは後退し、圧迫感のあった輪が徐々に広がり、クレイモア、バルディオ、ゴドリゲスの三者のみ残した。無駄に死人を出さないその心意気は歓迎だ。
「ゴードン家、来い」俺がそう言うと同時に、二つの影が前に出た。
ゴドリゲスが剣を引き抜き、地を蹴った。バルディオも構えを取る。どちらも、対話の選択肢を捨てていた。
「覚悟はあるんだろうな」ゴドリゲスが言う。「お前たちが俺たちを敵に回すってのは、そういうことだ」
「敵に回す? いや、ただ斬るだけだよ」ミズナが飄々と答えた。火球が躍動し、その前進を退ける。
周囲の兵たちは息をのんでこの戦況を望む。この戦いに、凡百が踏み込める余地など、微塵もない。
ゴドリゲスが再び地を蹴った。速度は速い。剣も重い。RAによって身体強化された斬撃は、通常の人間なら一合で吹き飛ばされるだろう。
だが、甘い。最終試験で戦ったときの俺とは違う。もはや透明化など必要ない。ゴドリゲスの剣が閃き、俺の喉元に迫るはずだが、それはなかった。ゴドリゲスの斬撃をいなし、俺の頬のすぐ横を通過するところでゴドリゲスの身体に触れ、RAの流れを制御する。
「……なっ」
驚いたのはゴドリゲスだった。自分の力が“抜けた”ように感じたはずだ。だが、その理由にはまだ気づけない。
ノアールが両手に風と雷の術式を同時展開し、連結させるようにしてRAを構成する。
「――貫け」
雷光が走り、風が鞭のように捻れ、ゴドリゲスは避けようとするが、再び身体強化RAが働かない。俺の干渉に捕まっている。雷光がゴドリゲスに直撃し、たまらずゴドリゲスは膝まづく。
バルディオが反応し、斜め後方からノアールへ迫る。が、そこにミズナの声が飛んだ。
「ねぇねぇ、こっちも見て?」
彼女の手には、もう高密度の火球が形成されていた。しかもそれはただの熱塊ではない。青白い炎が粒子を巻き込み、重力を歪めるように宙を揺らしている。魔獣すら避けて通る、死の球体。
「ま、当てないけど。焼けるよ?」
ミズナが火球を“落とす”。それは正確に、バルディオの足元を狙ったものだった。回避行動で飛び退いた彼がいた足元には、地面がごっそり抉れていた。砂すら融解していた。
兵がざわめいた。恐怖と畏怖が混ざった反応。そのときようやく、ゴドリゲスのRAが消えていた理由に、彼自身が気づいたようだった。俺を見る目が、変わっていた。
「お前……何をした?」
「別に何も。RAを、止めただけだ」
攻撃力はない。ただ、それだけで戦況は変わる。俺はもう、自分の力が“ただの透明化”ではないことを、はっきりと理解していた。
RAの根幹に、俺は干渉できる。それは戦いにおいて、つまり“力の定義”を塗り替えることを意味していた。そして今、この戦場で、俺たちは完全に“上”に立っていた。
斬撃が交差し、火球が爆ぜ、雷が地を走る。俺たちの優位は誰の目にも明らかだった。ゴドリゲスもバルディオも、完全に制圧されていた。
バルディオからしてみれば、弟のゴドリゲスをここで葬ってほしいという思惑もありそうだが、残念。俺はお前らゴードン家の茶番にすら付き合っている気はない。圧倒的にお前らは、格下だ。
そのとき――クレイモアがゆっくりと歩み出た。
剣を抜くこともせず、鎧の腹部を外し、懐から一振りの短刀を取り出す。何をする気なのか。ゴドリゲスが反応しようとしたが、クレイモアはそれを手で制した。
「もうよい」
その声は、どこか安らぎさえ感じさせた。クレイモアは、正座に似た姿勢で地に膝をつき、衣の胸元を裂いた。
俺たちの力量は圧倒的だと気づいたのだろう。降参の姿勢を取るものとばかり考えていたが、いや、違う。それ以上だった。
クレイモアは寸分の迷いなく、自らの腹に刃を突き立てる。
「――っ」
何が起きているのか理解できなかった。敵も味方も、声を失っていた。剣ではなく、言葉でもなく、自らを切るという選択。血が溢れ、赤が地に染まる。その中で、クレイモアの顔は何かを達成したように、穏やかだった。
……だが、それは“終わり”ではなかった。
混乱する戦場を置き去りに、空が鳴った。
雲一つない空から、突然、強い光柱が降り注いだ。それはまるで、神の審判であるかのように神々しさを纏った、異質な光の柱だった。
その光柱から白い羽を羽ばたかせながら舞い降りてきた。羽を畳み、シルエットが浮かび上がる。光がすっと引いた。そこに立っていたのは、白銀の鎧をまとい、翼を持つ一人の女だった。母さん? いや、違う。
――ヴァルキュリア。
その姿を見た瞬間、無意識に“死”の匂いを感じ取った。
彼女は、クレイモアのほうを見つめていた。それは、迎えに来たのか。あるいは、導きに来たのか。わからなかった。ただ、確かに言えるのは、戦場の空気が完全に変わったということだった。
ルシエラすら、動かなかった。空の上で、ただその光景を見ていた。
俺は、息を呑んだまま、目をそらせなかった。
まるで、“世界の仕組み”の一端を、いま目の前で見せられているような気がした。
ヴァルキュリアは、切腹し倒れるクレイモアに触れることなく、ある女に視線を向けた。そして膝まづいた。
――ミズナに。
炎も、RAも、今は纏っていない。ただ立っているだけのはずなのに、音がすべて遠ざかり、世界の中で、彼女だけが別の時間にいるように感じた。
俺が視線を向けたとき、彼女はまっすぐ空を見上げていた。ヴァルキュリアを、ではない。もっと遠く、もっと深いものを。
「ミズナ……?」
問いかけると、彼女はゆっくりと俺の方を見た。
「ああ……、そうだ……。そうだった」
呟くように言ったその声は、どこか懐かしい響きがあった。いつもの飄々とした調子ではない。安堵と戸惑いが混ざった声だった。
その顔を見て、俺は気づいた。
涙ぼくろが、ない。
あの、目元に三つあった点――“封印”を象徴していたあの印が、きれいに消えていた。
「……思い出したのか?」
その瞳には、これまでとまるで違う光が宿っていた。何かが、解け、何かが、還ってきた。
ミズナの視線はヴァルキュリアへと移った。目を細めて、懐かしさと痛みを滲ませるように見つめていた。まるで、かつて何度もそれを見ていたかのように。
「あたしはそう。魔界の王ではない。かつて、“黄泉の王”だった」
「え?」
ミズナは天を見上げ、続ける。
「知りたかった。愛というものを。これはあたしの記憶。ぜんぶ、思い出した。思い出してしまった」
ミズナは一歩も動かなかった。まっすぐ彼女を見ていた。ヴァルキュリアの顔もまた、どこか懐かしげだった。
そして、口を開いた。
「王。……黄泉が、大変なことに」
ヴァルキュリアは、まっすぐミズナにだけ向けて言葉を紡いだ。
「ビカク様は……あなたを、騙しました。そして、黄泉が崩れ始めています」
俺は、息を呑んだ。
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。ビカク? 父の名が唐突に出てきたことにも、黄泉が崩れているということにも、すべてが現実味を持たなかった。
だが、ミズナは違った。
彼女の瞳が、かすかに震えていた。自分でも気づかぬほどに、心の奥が反応しているように見えた。
「騙した? ビカクが……」
その声には、怒りでも悲しみでもなく、ただ“忘れていた痛み”に似たものが滲んでいた。
ヴァルキュリアは、かぶりを振った。
「私も……信じておりました。ですが、もう……黄泉の門が、焼かれ……魂の流れが、止まって……」
言葉が続かない。彼女の翼から、羽が一枚、ぼろりと落ちた。まるで崩れていくようだった。
「……王よ。お戻りになってください。黄泉は、あなたの不在に耐えられません」
その言葉に、ミズナがほんの少しだけ、目を伏せた。
「そうか」
言いかけて、言葉を止めた。
クレイモアは血の海に崩れたまま、もう動かなかった。だが、その死の余韻は、ざわざわと何かを呼び寄せているような気がした。
ヴァルキュリアは、そのすぐ傍に立っていた。
真っ白な装甲はところどころ焦げ、羽根は欠け、膝からは黒い液が滴っていた。それでも彼女は威厳を失っていなかった。
ミズナが、ひとつ息を吐いた。まっすぐにヴァルキュリアを見て問う。
「クレイモアの魂を拾いに来たのだろう?」
俺には、それがどういう意味なのか、すぐには理解できなかった。ただ、その言葉にヴァルキュリアの目がすっと細くなったのはわかった。
「違います。トリガーとなったのはたしかですが」
言い放ったその声は、容赦の欠片もなかった。
「この男は愚かにも黄泉と繋がろうと、幾度となく人体実験を繰り返してきました。RAによる魂の誘導、記憶の定着、魂の圧縮。すべてを模倣しようとし、今、失敗しました」
ヴァルキュリアは、クレイモアの亡骸に一瞥もくれずに続ける。
「その魂に価値はありません。穢れたまま輪廻に乗れず、ただ霧散するのみです」
あまりにも冷たく、あまりにも明快な“死の裁定”だった。ミズナが、小さく笑った。
「ああ、皮肉なものだね。勇者様。死すら、報われなかったか」
彼女の声は、もうかつてのミズナではなかった。思い出した王としての顔。それが皮肉を帯びた唇ににじんでいた。
ノアールが、小さく息を呑んだのがわかった。
「……なに? 何言ってるの……?」
俺も理解できなかった。クレイモアは、死をもって何かを成そうとしたんじゃないのか? ヴァルキュリアを呼び出すことで、何かの真実に触れようと? それが全部……無意味だった?
ミズナとヴァルキュリアの会話は、まるで別の世界の言葉だった。それを目の前で交わされながら、俺たちは置いていかれていた。
何が起こっているのか。なぜ、クレイモアの魂は価値がないのか。黄泉とは? 輪廻とは? ミズナとは、一体何者なんだ――。
思考が追いつかない。世界が、会話の速度に、知識の断片に、引き裂かれていく。俺は、まるで見知らぬ風景の真ん中に、突然ひとり放り出されたような気分だった。
大地を踏みしめ、赤き翼をたたえた女がゆっくりと歩み寄ってくる。ルシエラ――魔獣の空中部隊を率いる将にして、戦場を焦がす紅蓮の支配者。その姿は恐れを抱かせるものだったが、彼女の声音は意外なほど冷静で、むしろ、静謐だった。
「……この戦、もはや続ける意義を失いました。時勢は、我らの想定を超えて動いているようです」
その声には烈火のような激情ではなく、ふさわしい威厳と理性があった。
「話は聞かせていただきました。黄泉の使い――そして元なる黄泉の王よ」
ルシエラは、ミズナに深く一礼した。
「願わくば、貴女とその使いの者に、我が主――アビスレイン様との謁見を乞いたく存じます。今こそ、理を
しかし――
「その必要はない」
空間が裂けた。そして、ひとりの男が現れる。赤き髪。灼熱の瞳。無慈悲なほどに美しいその姿は、まさに神話の魔王。アビスレイン。数千年の時を超えてなお、世界の理に触れ続ける唯一の存在。
「黄泉の気配が、あまりにも濃くなった。それが我をこの地に導いた」
その声には怒りも喜びもない。ただ、確信に満ちた静けさだけがあった。
「役者は揃ったようだ。我、魔界の王。黄泉の王。そして本来人間界の王であるビカクの息子。残るは選択。世界のいかなる結末を望むか、おそらくそれだけの話だ」
彼はゆっくりとミズナを見据えたあと、わずかに視線を逸らし、そして言った。
「……だが、一つだけ誤算があった。“黄泉の王”であるはずの存在が、今、現世の地を踏みしめている」
言外に、何者かの介入を疑っていた。
「――これは、あの男が仕組んだものか」
アビスレインの瞳が、俺を射抜くように見つめる。いや、俺ではない。その奥にいる、父を。
「コウノ・ビカク……我が盟友であり、かつて“終焉を拒むための盟約”を結んだ男。まさか……我までも欺いたというのか」
その声に、微かだが確かに揺らぎがあった。静寂が降りる。空も地も凪いでいるのに、俺の心臓だけが高鳴っている。
状況が、まるで掴めなかった。
クレイモアは切腹し、天からは光が降り注ぎ、ヴァルキュリアが血まみれで現れたかと思えば、次にルシエラが降りてきて頭を下げ、そして最後に、アビスレインが――魔王が現れて語らい始める。
ゴドリゲスを始め、人間軍の兵たちも、クレイモアの死を悼む時間すら与えられず、ただこの状況を傍観している。
俺は一歩前に出た。
「……説明してくれないか」
声が震えそうになるのを、なんとか抑えた。
「今、ここで何が起こってる? クレイモアの死も、黄泉の話も、ヴァルキュリアの言葉も、そして……」
俺はミズナを見た。
「ミズナが……ミズナじゃなかったって、そういうことなのか?」
俺の言葉に、答えたのはアビスレインだった。
「そうだな。理解を求めるのは当然だ。だが、それを語るには、まず己の失策を認めねばなるまい」
魔王は視線をミズナに向ける。そして、まるで独白のように述べた。
「最初に会ったときから……感じていた。違和感のようなものだ。だが、それが何であるかを考えることすら、我は怠った」
瞳を閉じ、まるで自らを裁くように言葉を続けた。
「黄泉の王が、自ら現世に降りるはずがない。そうあってはならなかった。――そうだろう、黄泉の王よ」
ミズナは、その名を呼ばれても驚かなかった。ただ冷静に頷く。
「あたしは不完全なピースにすぎなかったの。思い出せなかっただけ……ただ、それだけ」
風が吹いた。ミズナの長い銀髪が、ふわりと揺れる。まるで、その記憶をほどいていくように。
「でも、いま……すべてを思い出した」
その声は、たしかにミズナの声だった。けれど、そこには、かつてのあのおてんばで天然な少女の響きだけではなかった。まるで女王のような、威厳すら帯びていた。
「話すわ、セッカ。ノアール。それに……アビスレイン」
彼女は、俺たち一人ひとりの目を見た。そして、凛とした声で宣言した。
「あたしが王だったころの記憶を――それをすべて、お前たちに話そう」
その口調は、ミズナではなく、もはや王の威厳を示していた。
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