第98話 雨漏り、小さな訪問者

 吉岡さんの雨どいに関する、どこか的を射た指摘。

 それは彼の無感情に見えた表情の裏に、確かな観察眼が隠されていることを俺に予感させた。だが、その夜は特にそれ以上の会話もなく、静かに更けていった。


 ​そして夜半過ぎ。

 天気予報通り、空からしとしとと静かな雨が降り始めた。春の訪れを喜ぶ恵みの雨だ。


 俺は雨音を子守唄代わりに、深い眠りについていた。


​ 翌朝。

 俺が目を覚ますと、雨はさらにその勢いを増していた。ザーザーと屋根を叩く激しい雨音。窓の外は灰色の雨雲に覆われ、薄暗い。


​「うわ、結構な降りだな……」


 ​俺が寝ぼけ眼で縁側に出て、庭の様子を眺めたその時だった。


 俺は自分の呑気な考えを、すぐに後悔することになる。


 ​吉岡さんが指摘した、あの歪んだ雨どい。

 普段の小雨程度なら問題なかったそれが、今日の激しい雨量に耐きれず、完全にその役割を放棄していたのだ。

 継ぎ目の部分から受け止めきれなかった雨水が、まるで小さな滝のようにジャージャーと縁側のすぐ下の地面へと勢いよく流れ落ちている。


​「あちゃー、やっぱりちゃんと直しておくんだったか……」


 ​俺が頭を掻きながら後で修理しようと考えていると、その人工的な滝のすぐそばで、白い小さな塊が必死に動き回っているのが目に入った。


 ​それは俺も初めて見る、不思議な生き物だ。

 大きさは手のひらに乗るくらい。全身がタンポポの綿毛のように真っ白で、ふわふわとした毛で覆われている。

 風が吹けばどこかへ飛んでいってしまいそうなほど軽やかで、儚げな姿だ。つぶらな黒い瞳が二つ、こちらを不安そうに見上げている。


 俺はその見た目から、勝手に「ワタポコ」と名付けた。

​ どうやらワタポコは、雨宿りの場所を探してちょうどこの縁の下に迷い込んでいたらしい。

 

 だが、そこへ雨どいからの想定外の滝が出現。水を浴びるのがよほど嫌なのだろう。ワタポコは降り注ぐ水しぶきに右往左往しながら、小さな体で必死に逃げ惑っていた。

 その姿はあまりにもか弱く、健気だった。


 ​俺が助けてやろうと縁側から降りようとした、その時。

 背後から静かな声がかけられた。


​「……やはりな」


 ​振り返ると、そこにはいつの間にか起きてきていた吉岡さんが立っていた。

 彼は腕を組み、険しい顔つきで雨どいから流れ落ちる水の勢いと、その下でパニックになっているワタポコの姿を交互にじっと観察していた。


 その目は、昨日までのどこか虚ろな光を宿したものではない。何か技術的な問題点を発見し、その原因と解決策を瞬時に分析しているかのような、鋭い専門家の目に変わっていた。

​ 彼はワタポコの可哀想な状況に同情しているというよりは、むしろ雨どいの「欠陥」によって引き起こされたこの状況そのものに強い興味と、そしてかすかな苛立ちのようなものを感じているように見えた。


 ​彼は俺の方を向くと、一言だけこう言った。


​「……あれでは、いずれ土台が腐るぞ」


 ​その声には、もう昨日までの無気力な響きはなかった。

 長年、何かを作り、守り、管理してきた者だけが持つ確かな経験と自信に裏打ちされたプロフェッショナルの響きが確かにそこにあった。


 この謎多きリタイア紳士の眠っていた何かが雨漏りという小さなアクシデントと小さな訪問者によって、今、静かに目覚めようとしていた。

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