第35話 ダンジョンに咲く、君影の花

 翌朝。

 秋晴れの空気が澄み渡る中、俺と桜井さん、そして、今回は撮影機材を持たず、ただ一人の友人として付き添うリサの三人で、ダンジョンへと続く小道を歩いていた。

 桜井さんの表情は、昨日と変わらず静かだったが、その瞳の奥には、どこか決意のような強い光が宿っているように見えた。


「妻は、本当に花が好きでしてね」


 道中、桜井さんは、ぽつりと語り始めた。


「特に青や紫の派手さはないけれど、凛として咲く小さな花を好んでいました」


 その言葉に、俺は昨日、彼が床の間に生けたリンドウの花を、じっと見つめていた理由を悟った。


 洞窟の入り口に到着し、中へと足を踏み入れる。

 ひんやりとした空気が、俺たちの肌を撫でた。そして、目の前に広がる、光る苔が織りなす幻想的な青い光の世界に、桜井さんは、はぁ、と深く息をのんだ。


「……綺麗だ。あいつも……美咲も、きっと、この光景を見たら、子供のようにはしゃいで喜んだだろうな」


 その声は、寂しげでありながら、どこまでも優しかった。


 ダンジョンの奥にゆっくりと進んでいく。

 通路の脇から、人懐っこいスライムが「ぷるん」と挨拶をしてきたり、ゴブ吉の同僚らしきゴブリンが、ぺこりと丁寧にお辞儀をしてくれたりした。

 桜井さんは、動画で見て知っていたからか、驚きもせず、ただ穏やかな眼差しで彼らを見つめている。


「本当に優しいモンスターたちなんですね。動画で見た通りだ」


 まるで、その純粋で穏やかな生き物たちの中に、亡き妻の面影でも見ているかのように、彼の表情は少しだけ和らいだ。


 さらに奥へと進んだ、その時だった。


 桜井さんの足が、ぴたりと止まった。

 彼の視線の先、通路の岩陰に、たった一輪、ひっそりと咲く花があった。


 それは、ダンジョンの魔力を吸って咲くのだろうか。青紫色に発光している、小さなスミレのような花だった。このダンジョンでも、俺は初めて目にする花だ。

 桜井さんは、その花に吸い寄せられるように、ゆっくりと近づいていく。そして、まるで祈りを捧げるかのように、その場にそっと膝をついた。


「……竜胆りんどう……」


 彼の唇から震える声が漏れた。


「美咲が一番好きだった花だ……。自分の名前――美咲に、花の姿が咲くという字が入っているからって……。いや、もちろん、こんな、光る花じゃない。でも、形が、色が……あまりにも、そっくりなんだ……」


 彼の大きな瞳から、こらえきれなくなった涙が、一筋、また一筋と頬を伝って落ちていく。

 この誰も知らないダンジョンの奥で、奇跡のように、最愛の人の面影と再会したのだ。


 俺とリサは、かける言葉もなく、ただその光景を見守っていた。

 すると、どこからともなく、キノコうさぎの親子がてちてちとやってきた。そして、泣いている桜井さんの隣に、そっと寄り添うように座る。まるで、彼の悲しみを少しでも分かち合おうとするかのように。


 さらにゴブ吉までが現れ、近くで拾ったのだろう、キラキラと綺麗に光る石を桜井さんの足元に、ことり、と置いた。


 慰めているのだ。言葉を持たない彼らが、その不器用な優しさで、傷ついた一人の人間を懸命に慰めようとしていた。


 桜井さんは、そんなモンスターたちの姿に気づくと、嗚咽を漏らしながらも、ふっと、困ったように微笑んだ。


「……ありがとう。君たちは、本当に、優しいんだな」


 しばらくして、彼はゆっくりと涙を拭うと、決意を固めたように、すっくと立ち上がった。

 その顔は、まだ悲しみの色を宿してはいたが、同時に前に進むための、力を取り戻しているように見えた。


「行きましょう、田中さん」


 彼は、俺の方をまっすぐに見つめて言った。


「あいつが一番見たがっていた場所へ。このダンジョンの一番奥にあるという、あの泉へ」


 妻の面影と、モンスターたちの優しさに触れ、彼は再び歩き出す。


 この静かな探検の終着点で、一体どんな奇跡が彼を待っているのか。


 俺たちは、彼のその一歩を、ただ静かに力強く見守っていた。

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