われらの生を生き延びるために教えられた狂気について
伊藤優作
われらの生を生き延びるために教えられた狂気について
はるかな国にやってきた九歳のトマスが自分でも「周りになじめてるな」と感じられるようになるまでには少し時間がかかった。別にみんなの前でパンツを下ろされたり、「洋式」便所に座っているときに上から水をかけられたり、掃除用具入れに閉じ込められたりしたわけではない。むしろ彼らの方でもトマスと「なじみたい」と思い、そわそわと手探りをしていた。トマスと彼らをわずかに隔てていたものは、両者がその隔たりを目の当たりにするところのもの、すなわち彼らのまなざしにあった。
ふと廊下で顔を合わせたとき、昼休みにグラウンドに遅れて出てきたとき、公園に一番乗りしていることに気づかれたとき、彼らはちらっとトマスに視線を送るのだ。それは彼らが他の「ニホンジン」には決して送ることのない視線だった。
トマスはママに連れられてママの国、ママのママ、ママのパパの国にやってきた。パパだけが太平洋の向こう側に残った理由について、ママはこう説明した。
パパはわたしたちのところにやってくる「悪」を食い止めるために、海の向こうにひとりで残ったんだよ。
地平線の向こうまで波打つ小麦のように輝く黄金色の髪と、ママと同じ黒い瞳を持ったトマスは、自分がママの言っていることを心から信じているのだということを、言葉を、身振りを尽くして伝えようとした。あなたのことはママが守るから、というようなことをママは折に触れてトマスに言い、そのたびにトマスは同じようにした。ママがそう言うことで息子以外のものをも守ろうとしていることにトマスは気づいていて、トマスはママの助けになりたかった。家でおじいちゃんやおばあちゃんがトマスに向けるまなざしはママへ向けられるそれよりも優しく温かくて、家でおじいちゃんやおばあちゃんが長年にわたり使っていたトイレの底はとてつもなく深くて寒々しかった。
そしてパパはたったひとりで「悪」に立ち向かった伝説の兵士になる。
トマスと「ニホンジン」の友人たちとの隔たりが埋められたのは、暑くともまだ殺人的ではなかった、初めてのニホンの真夏のことだった。その日、トマスはひとり遅れて友人の家にやってきた。裏庭に回ると、三,四人が隅っこにしゃがみ込んでいた。そばにはバケツが置かれていて、ひとりが縁の欠けてしまった砂だらけの茶碗で水を掬っていた。
「なにやってるの」
「トーマス、すげえよこのアリの巣。水がぜんぜんあふれてこないんだよ」
彼らはトマスのことをトーマスと呼んだ。彼らにとってはカトリックの聖人の名前より顔付き機関車の名前のほうがなじみ深かったのだ。ひとりが身体をずらしてできた隙間にトマスはすべり込んだ。
ニホンに空いた小さな小さな穴。その周りはびしゃびしゃに濡れていて、数匹のアリが這い回っていた。自分がなにをしているのか自分でもわかっていないように見えた。
「おまえもやるか」
欠けた茶碗を差し出されて、トマスは手の主の目を見上げた。ほのかに凝縮した空気のなかで、その目は努めて普段通りであろうとする緊張感でわずかに煌めいていた。彼はうすい一枚ばかりのバリアを破ろうという勇気によって、トマスを普段通りに見つめているのだ。
トマスは受け取った茶碗へ溢れんばかりの水を掬うと、ニホンに空いた小さな小さな穴の中へ一気に注ぎ込んだ。
「ほら」
「すげー」
いくつもの決壊を流れていく水はふたたび彼らの前に現れることはなかった。ずっと前から水は流れることを望んでいたのだ。それから彼らはバケツの中身が二度空になるまでこの遊びに興じた。空気はほどかれていき、這い回っていたアリはいつの間にか見当たらなくなった。
この日を境にトマスは彼らと「なじむ」ようになった。
そしてトマスが友人たちと「なじんでいる」間にも、パパはたったひとりで「悪」に立ち向かった伝説の兵士になっている。
それからしばらくたった二〇一九年、アマゾンは派手に燃え盛っていた。
同年八月二四日、二五日にフランスで開催されたG7のサミットで、参加各国はアマゾンで焼け死んでいく木々のために、そしてまだ焼け死なずにいる木々のために、ブラジルに資材や資金を提供することで合意した。ブラジルはこの申し出を断った。ブラジルの大統領補佐官は、議長国フランスの大統領に対して、自国のノートルダム大聖堂ですら火災から守れなかったのに、われわれに消火の仕方を教えようというのか? というようなことを言った。
もしかしたら、幼い頃のトマスたちがニホンの小さな小さな穴に注ぎ込んだものが、とどまることを知らないままに地下へと流れてゆき、高まる圧力と熱で燃える水となって反対側から吹き出し、アマゾンの原生林を焼き尽くしたのかもしれなかった。しかしこのときのトマスには、アマゾンで焼け死んでいく木々のことなんてどうでもよかった。正確には、アマゾンで木々が焼け死んでいくことを知る余裕すらなかった。
パパから電話があったのだ。
大学生になり、ひとりで下宿しているトマスのもとへ、伝説の兵士がやってくる。彼はずっと「悪」からトマスやママを、そしてトマスやママがいるこの国、いまやほとんどの国民が便座に腰掛けて大便をするようになったこの国を守るために、たったひとり海の向こうで戦っていたのだ。パパから連絡があったことをママに電話で話した時、彼女は金切り声を上げた。なぜパパがトマスの下宿先の住所や携帯電話の番号を知ることができたのかといえば、それはもちろん彼が伝説の兵士だからにほかならない。決して忘却されることのなかった薄闇の時間の中で、伝説の兵士の肖像は人間のサイズをはるかに超えるところまで巨大化していた。彼はどのようにやってくるのだろうか。およそひとり人間がやってくるというようなことでは済まないだろう。のたうつ水のように、舐める火のように、パパは文字通り押し寄せてくるだろう。
トマスはいまだかつてないほどの勇気を必要としていた。伝説の兵士の血を引き、裏庭の大量殺戮者のひとりとして、真夏の透き通った血に手を汚したことすらある彼にとってさえ、とても簡単なこととはいえない。
垂直に凝固した息になる。伝説の兵士の死角になりうるような深く寒々しい穴はもうない。彼の決壊は地平線の向こうまで広がる黄金の麦穂をざわめかせる一陣の風になるだろうか。
トマスにもまた、伝説の兵士になるための試練の日が近づいている。
われらの生を生き延びるために教えられた狂気について 伊藤優作 @Itou_Cocoon
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