第2話 遺産相続ゲーム、スタート!
単段式宇宙船『イカロス』が、月面に向けてゆっくり垂直着陸を始めた。眼下には、玄武岩に囲まれるようにして、多面体のドームが建っている。西園寺が情熱と財力を結集して造り上げたムーンパレスだ。その下には地下30メートルに及ぶ居住スペースがあると聞く。その内部で使う酸素は、さらに地下深くにある氷から抽出し、エネルギーは太陽光が当たる場所へ送電網を張り巡らせてソーラーパネルから得ているとのことだった。少し離れた場所には、ヘリウム3を扱う核融合炉が建っている。
先程からロシア人操縦士たちが、地球の管制員としきりにやりとりをしていた。ロシア語がわからない水元明日真には、緊迫感のある会話をしているように思えて、思わず身を固めた。何せ、月面に来るのはこれが初めてなのだから。
「ねえ、あの人たち何言ってんの? 大丈夫なんだよね?」
隣に座る金子茜は、不安というよりもどこか面白がっている様子だった。体操の元オリンピック選手。現役引退したばかりだった10年前、21歳のときとほとんど変わらない体型を維持しているのは、宇宙を舞台に活動するサーカス団で団長兼パフォーマーとして活躍しているからだろう。各国の民間企業が経営する、宇宙ステーション内のホテルを転々として、無重力を使った演目を披露して荒稼ぎしているという。
彼女と会うのはおよそ2年ぶりだが、会うたびに顔が変わって見えるのは気のせいだろうか。普段から舞台用メイクのように派手な化粧をしている。ローマ神話の愛と美の女神には似つかわしくないが、ムーンリバー計画のコードネームは『ヴィーナス(金星)』だった。その名によりふさわしいと思える女優の水島遥香は『マーキュリー』で、ムーンパレスに先着しているとのことだった。
そして10年前、その遥香のほうが先にトレーニングを開始していたため、明日真は『アース(地球)』の離脱者の代わりに選抜入りを果たした。他にも名前が被っている候補者はいたけれど、明日真の抜擢については、「こじつけでは?」と否定的な声もあったようだ。それでも、その名前で貴重な体験ができたことを、明日真は心から感謝した。宇宙の美しさに感動し、地球上のように醜い争いごとが起きないようにと、今は国際宇宙法律局に籍を置き、無秩序な宇宙の法を整備する仕事をしている。
「ピロシキに何を入れて食べるかで言い争ってんねん。こっちの兄ちゃんは豚肉で、管制塔の姉ちゃんはチョウザメの肉なんやて」
茜の後ろの席から火野明が笑い声を上げた。もちろん冗談だ。彼もロシア語は理解できない。
「しょうもな」
茜からぞんざいに扱われるのは、ショービジネスの場で顔を合わせる機会が多く、他のメンバーよりも気心が知れているからだろう。ボクシングの元ミドル級世界チャンピオンだった火野もまた、10年前にはもうすでに現役を退いていた。コードネームは『マーズ』。ムーンリバー計画に参加した後、宇宙でのボクシング興行で財を成す傍ら、無重力でも筋力を衰えさせないトレーニング法を確立して、その分野でも稼いでいる。その成果を証明するように、全身の筋肉は以前よりも厚みを増し、彼と同い年で45歳の明日真は、自分のたるみ切った身体を密かに嘆いていた。
「モウスグデチャクリクシマス。チョットユレルカモシレナイ。オチツイテ」
ロシア人飛行士の1人が、わざわざ日本語で注意喚起してくれた。その好意を無下にするように、火野はイントネーションを真似た。
「ワカリマシタ。ハラショー!」
「やめろ」
明日真がたしなめると、火野はにやりとして見せた。相変わらず脳みそまで筋肉のようだ。動物のような言動をする彼が明日真は苦手だった。
宇宙船は、月面のレゴリス(粒子の細かい砂)を舞い上がらせないよう、上部に取り付けられたスラスターを逆噴射させ、飛行士が姿勢制御スティックを慎重に操作しながら、着実に月面に近づいていた。
「ねえ、月って大気がないから、足跡がずっと残ったまんまなんだよね? だったら、アームストロングの足跡、まだあるかな? あたし、見に行ってみたいんだけど」
窓の外を眺めて呑気に言う茜に、明日真は苦笑いした。アポロ11号の月着陸船が着陸したのは、『静かの海』と呼ばれる、月の赤道からやや北にある玄武岩で覆われた平原地帯だ。月の南極に位置するムーンパレスからは遠く離れている。そこまで月面車に乗って行くというのだろうか。大気がない月面には隕石がそのまま降り注ぐ。EVA用スーツを貫ぬいて穴が空き、死ぬことになるかもしれない。その事実を隠して送り出してしまおうか、とふと思いついた明日真は、彼らはもはや仲間ではなく、西園寺の財産を争う敵であることに気がついた。それはすなわち、明日真自身もいつ誰に殺されてもおかしくないということを意味する。そのことに気づいてゾッとした。
「急に元気なくなったな。緊張しとんのか?」
火野が笑う。明日真は、月の重力が地球の6分の1であることに感謝した。そうでなければ、火野の本気のストレートパンチ1発で殺されてしまう危険もある。
「久しぶりにみんなに会うからワクワクしてるんだよ」
明日真は無理に笑顔をつくった。
「そういえば、誰がくるんやろ?」
「遥香はもういるんでしょ? 何でいるわけ。西園寺さんに媚び売って、優位に立とうとしてんじゃないの。ああ見えて、かなり計算高いから、あいつ」
嫉妬心と敵対心を露わに茜が言う。ナチュラル美人で昔も今も人気女優として活躍する遥香が憎くて仕方ないようだ。
「ずっと地球にいたから、トレーニングも含めて、俺らより先に連絡がきたって聞いたで。他に誰がいるんやろ? ウラノスにだけは会いたくないわ。気まずいやろ。向こうは知らんと思うけど」
ウラノスは『天王星』を意味する。火野の言葉を聞いた瞬間、茜の顔が強張った。明日真もドキリとした。
「余計なこと言わないで。もしウラノスがいても、うっかりアレを喋ったりしないでよね」
茜がきつく叱り、「おー怖」と笑うも、
「言うわけないやろ。墓場まで持ち越すつもりや」
火野はそのキャラに似つかわしくない真面目な顔をした。
やがて、ほとんど振動もないまま、月面接触ランプが点灯した。飛行士は見事な腕前だった。レゴリスが舞い上がることもなく、窓の外の風景は静止画のように平穏だ。
シートベルト着脱の許可が出ると、明日真たちは船内与圧服からEVA用のスーツに着替えるが、飛行士たちはコックピットに座ったままだ。明日真たちがムーンパレスにどれくらいの期間、滞在するかわからないため、燃料を補給次第、そのまま地球へ帰ることになっている。
「ああ、面倒やな、これ着るの。すぐそこやってのに」
火野が愚痴る気持ちは明日真にもわかる。気密漏れがないように設計されたEVA用スーツは着脱が面倒だった。それでも、1人で着脱できなかった昔に比べれば、随分と楽になったのだろう。見た目にもすっきりした。それに、外はほぼ真空状態で、昼と夜の温度差は300℃近くにも達する。隕石だけでなく、宇宙線や太陽風も容赦なく降り注ぐ激烈な環境のため、生身で出るのは不可能だ。
手早く着替え終えた明日真は、ロシア人操縦士たちに礼を言い、あとの2人が着替え終わるのを待ってから、先頭を切って宇宙船底部のハッチを開けた。眼下に薄灰色の世界が広がる。滑らかなパウダー状のレゴリスが少しだけ舞っていた。
明日真は手すりに掴まりながら、階段を慎重に降りた。重力が地球の6分の1ということは、今、明日真の体重は約15キロということになる。ここまで来るのに3日間、無重力状態に慣れていたため、その僅かな体重でもバランスを取るのが難しかった。それに加えて、真空状態では物がくっきりと見えすぎるため、足元の距離感が取りづらい。それでも何とか倒れることなく歩き、蜘蛛の脚を思わせる着陸脚にゆっくり近づき、金属棒を片手で掴んで身体を支えた。すると、耳元の通信受信機から微かに雑音が鳴り、
「こちらムーンパレス、応答せよ」
明日真よりも若い男の声が聞こえた。明日真は真正面に建つドームを見た。目視では距離は測りがたいが、およそ300メートル離れた場所に着陸したと操縦士たちは言っていた。ムーンパレスの玄関口すぐ近くには月面車が停められている。
「こちらマーズ。誰や? ムーンか? それともサターンか?」
明日真と同じく着陸脚に掴まりながら火野が応じる。茜も同じ脚に掴まっていた。
「マーズのおっさんか。久しぶりだな。それと、残りはアースとヴィーナスで合ってるな」
「そう言うあんたは誰よ」
茜が訊いた。先着している彼に対して不満を抱くような声だった。
「ネプチューンだよ」
「他には?」
もしや自分たちが最終便なのではないかと思い、明日真は訊いた。
「他にはマーキュリーと、姿を現わさないけど西園寺さん」
「他の奴らはおらへんのか?」
「うん。おっさんたちで全員到着だよ」
「他のメンバーは?」
ムーンリバー計画に参加したクルーは他にもいる。その全員が遺産相続の権利を持っているわけではなかったのかと明日真は驚きながら訊いた。
「西園寺さんの話では、もう他にはこないって」
「どうして?」
茜の声にはライバルが少なくなったよろこびと、どういう基準で選考されたのか疑うような調子が感じられた。
「さあ。それは俺に訊かれてもわからないな。で、どうする? このまま無線で会話を続ける?」
「するわけないやろ」
「じゃあ、ちょっと待ってな。今、迎えに行ってやるから」
通信が切れるとすぐ、ムーンパレスの玄関ドアがこちら向きに開けられ、EVA用スーツを着た人物が出てきた。手を振っているようだ。それから月面車に乗り込んだ。距離感がわからないため、どれほどのスピードが出ているのかわからないが、ふわりふわりと浮くように走り、やがて明日真たちのすぐ近くまで来て止まった。フェイスシールドがミラーレンズ仕様で顔が見えない。
「久しぶり。積もる話は向こうへ行ってから。さっさと乗ってくれ」
急かすように言われ、明日真たちは四人乗りのバギータイプの月面車に乗り込んだ。走り出すと重力が弱いためか、まるで浮いて移動しているように感じた。ふとしたきっかけで空中に飛び上がってしまいそうな恐怖がある。周囲の景色が流れていかず、ずっと切り絵のように固定されて見えるのが奇妙に思えた。
やがてムーンパレスに到着した。明日真は学生時代の夏休みを利用して、モンゴル高原に住む遊牧民の暮らしを体験したことがあるが、彼らが寝泊まりするゲルと呼ばれる移動式住居と、ムーンパレスがどこか似ているように思えた。それを何十倍にも巨大化したように見える。けれど、ゲルが羊毛でつくった柔らかなフェルトで覆われているのとは異なり、ムーンパレスの多面体の外壁は固い素材でできていた。それもそのはずで、この外壁は隕石の衝突にもビクともしない耐久性が備わっているのだ。
ネプチューンがドアを開けて中に入って行く。中に入るとすぐに銀行の金庫を思わせる金属扉があり、それをネプチューンが丸リム型のエンプラハンドルを回して開けると、床から壁、天井に至るまで多孔板が設置されていた。ワンボックスカー1台分くらいの広さがあり、その先も金属扉になっている。
「ここでレゴリスを除去しないと、掃除が大変なんだ」
ネプチューンがそう言いながら、背後の金属扉を閉めると、天上と壁から強烈な風が吹いた。どうやらこれは、宇宙服の隙間に入り込んだレゴリスを吹き飛ばすエアーシャワーらしい。下に落ちたレゴリスは、床板の孔に吸気されて姿を消す。
風が吹き止み、ネプチューンは向かいの金属扉に設置されたエンプラハンドルを回して開けた。その先は白色灯に照らされた部屋になっていて、いよいよ居住スペースに続くらしく、丸ノブ付きのドアがあった。
明日真たちは全員、ネプチューンに倣い、壁際に設置された白いベンチに腰掛けて、EVA用スーツを脱いだ。
「え!?」
火野が突然、素っ頓狂な声を上げた。その視線を追うと、ネプチューンがフェイスシールドを取ったところだった。
「ほんまにネプチューンか? ウラノスちゃうやろな?」
明日真も同じことを思った。10年前もネプチューンとウラノスは背格好が似ていた。たしか、自分と遥香のように、彼らの名前も区別がややこしかったはずだ。どちらがどちらだか、明日真はもう記憶していなかった。いくらムーンリバー計画をともにしたとはいえ、それぞれに相性の良し悪しはある。別に彼らと仲が悪かったわけではないが、取り立てて話もせず、月周回飛行の旅を終えてからは一度も会っていなかった。
「ほんまやけど」
黒々とした髪の毛をセンター分けにした、少し浅黒い肌のネプチューンは、関西弁を真似ておどけた。
「ウラノスだったら、都合悪いことでもあるんか、マーズのおっさん」
「いや、別にあらへんけどな」
「じゃあ、ええやんけ」
ふふふと笑うと、ネプチューンは棚の扉を開いた。中には青いジャンプスーツと真っ白いスニーカーがサイズ別にきれいに整理されて収納されている。
「適当に合うの取ってくれよ。それと、少し前に到着した輸送船から、みんなの荷物は部屋に運んでおいたから。後でそれぞれの部屋に案内する」
ネプチューンはそう言うと、ジャンプスーツを着始めた。
「随分と慣れてるじゃない。いつからここにいるわけ?」
何かを疑うように茜はネプチューンを見つめる。
「西園寺さんの様子を見に、ここへはちょくちょく来てたんだ」
「そうやって媚びを売っておいて、遺産相続しようって魂胆なわけね。抜け目のない奴」
茜が嫌味を言った瞬間、それまで口元に笑みを湛えていたネプチューンの顔が強張った。
「俺はあんたたちと違って、遺産が貰えようが貰えまいが、西園寺さんのことを慕って来てるだけだ。相続の件がなくなった途端に連絡も取らなくなったあんたたちとは違う。よくもおめおめと来れたもんだと感心するよ。揃いも揃って面の皮が厚い奴らだな」
人が変わったように罵るネプチューンに、引きつった笑みを浮かべて火野が歩み寄る。
「そんな薄情もんみたいに言わんでもええやろ。仕事で忙しいからご無沙汰になってしもただけや」
まるで威圧するようだ。2人の身長はさほど変わらないけれど、身体の厚みが倍近く違う。それでもネプチューンはちっとも怯む様子を見せなかった。こんなに激しい性格をしていたかと、明日真は10年前のことを思い出そうとするも、彼に関する記憶は乏しく完全に薄れてしまっていた。
「まあまあ、ケンカはやめよう」
とにかく、この場で仲裁役になれるのは自分しかいないと、明日真は2人の間に割って入った。すると、奥のドアの丸ノブが遠慮がちに回り、ゆっくりドアが開いた。その隙間から色白の目鼻立ちが整えった女性が顔を覗かせた。遥香――マーキュリーだ。怯えたような表情で全員を見回す。
「ケンカ?」
「ちゃうわ、何言うとんねん。久しぶりやな。相変わらずお美しい姫様や」
火野がわざとらしくテンションを上げて誤魔化そうとするもバレバレだった。不穏な空気は一掃されない。それどころか、遥香の登場によって別の火種ができてしまったようだ。
「まるで自分の家みたいに出て来ちゃって、厚かましいわ~」
茜が牙を剥く。
「わたしはそんなつもりじゃ……」
遥香は剥き出しの敵意から逃れるように顔を伏せてしまう。
「気にする必要あらへん、美貌に嫉妬しとるだけやで、こいつ」
「はあ!?」
火野の寝返りに茜はさらに目を剥いた。久しぶりの再会なのに、一瞬にして殺伐とした雰囲気になっている。ここは自分がまとめ役にならなければ。明日真は心の中でため息を吐きながら、彼らを執りなそうとした。すると、どこかに仕込まれたスピーカーからじりじりと雑音が鳴り、
「よく集まってくれたね、みんな」
西園寺の声が響いた。久しぶりに聞く肉声からは老いが感じられた。たしかあと3年程で還暦を迎えるはずだ。そんなことを考えながら、明日真は耳を傾けた。
「ネプチューン。みんなを集会室に案内してあげてよ」
「わかりました」
トゲトゲしかった態度が一変、ネプチューンは従順な様子で返事をした。
「みんな、ついて来い」と言う口調も、さっきまでと比べると柔らかい。
ドアの向こうは円柱状に地下空間が伸びていて、壁沿いに階段がぐるりと螺旋状に下まで続き、壁に不等間隔で引き戸が設置されている。引き戸には目線の高さほどの位置に小窓がついていて、部屋の中が覗けるようになっていた。
溶岩洞を利用して作ったと聞いていたため、明日真はごつごつした壁をイメージしていた。ところが、壁はどこも白く塗り固められて滑らかな質感に見えた。見上げるとドームの天井は野球場のように高い位置にあり、電灯が設置されていて、月にいるとは思えないほど明るい。
一番真下まではビル10階から見下ろしたくらいの高さがあり、最下層には白い巨大な円卓が置いてあった。
「エレベーターなんて便利な物はないけど、重力が少ないから大して苦でもない。地球とは階段の高さが違うから気をつけろよ」
ネプチューンの言う通り、重力の違いを考慮してか、階段の一段分の高さが地球のそれの倍以上あった。歩くのもまだ慣れていないのに、階段を下りるのはひと苦労だ。運動神経のいい火野と茜ですら手すりに掴まり、おっかなびっくり慎重に足を下ろしている。明日真はそれ以上にゆっくり下り、途中で振り返るとネプチューンに笑われた。怒る気にもなれなかった。彼は地球上にいるときと同じように楽々と階段を下りていたからだ。たとえ1ヶ月近くいても、あんな風な身のこなしはできないな、と明日真は驚嘆の思いだった。そして、西園寺の意向次第では、これから1ヶ月近く、場合によってはそれ以上、この不便な場所に滞在しなければならないことに気づき、愕然となった。
何とか階下に辿り着くと、
「適当に座ってくれ」
直径5メートルほどの円卓の周りに並べられた丸椅子をネプチューンが指差す。すでに腰かけている彼の背後には、真っ赤な金属製の引き戸があった。
ネプチューンを時計の12時の位置とすると、その向かいに火野、3時に明日真、その正面に遥香、火野と明日真の間に茜が座った。遥香の背後には白い金属製の扉があり、そこには『Storage』と書かれたプレートが貼ってある。どうやら貯蔵庫らしかった。
「さっきの部屋にあったベンチも同じ素材やったな。これ、何でできてるんや?」
円卓と椅子をしげしげと見つめたり、表面を撫でたりしながら火野が訊いた。たしかに同じ素材だ。明日真も表面を指の腹で撫でてみると、プラスチックのようにツルツルと滑らかな手触りだった。縁から20センチほど内側にぐるりと円を描いて両面テープが貼られている。これは重力が少ないために物を置くと不安定になってしまうのを補うためのアナログな工夫だろう。宇宙船内の食堂テーブルにも同じテープが貼ってあった。
「レゴリスだよ。3Dプリンターで作って、マイクロ波で高温焼結させた。壁や床もレゴリスで塗り固めてある。あまり強度はないから乱暴はするなよ」
とネプチューンが言ってるそばから、「へえ、あの砂から? 凄いやん」と、火野は円卓をこつこつと叩く。けれど、じりじりと雑音が聞こえてきたことで顔を上げた。
「みんな、集まったね。個々では会ってるかもしれないけど、こうして複数人で顔を合わせるのは本当に久しぶりなんじゃないかな」
西園寺の声がどこからともなく聞こえてくる。
「西園寺さんは出てこないの?」
茜が赤い扉のほうを見つめながら言った。
「そこにいるんでしょ?」
「まあね」
答えたのはネプチューンだ。
「悪いけど、僕はここから出て行かない。最後に残った人物とだけ会うつもりだ」
西園寺の不吉めいた宣言に、その場の空気が固まった。ネプチューンと遥香もそのことを知らなかったのか、あるいは演技か、唖然とした表情を浮かべている。
「アハハハハ」と無理に笑い声を上げたのは茜だった。「あたしたちに殺し合いでもしろっていうの?」
「そういう決め方でもいいよ。あるいは、民主的にじゃんけんで決めて、負けたメンバーは帰る。イカロスが飛び立つまで2時間近くあるから、その間に決めてもいいし、それ以降となるとここからの脱出方法はしばらくなくなるから、必然的にサバイバル方式になってしまうかもしれない」
西園寺の愉快そうな声に反して、円卓を囲む面々はどんどん顔色が悪くなっていった。
「何にせよ、最後に残った奴が遺産を相続できるんやな?」
「その通り」
火野の質問に西園寺は快活に答える。
「随分、元気そうやんけ。ほんまは癌、治ったんちゃうか? また2年前みたいに撤回するんとちゃうやろな?」
「ちゃうで」
信用ならないほど西園寺の口調は軽い。その場にいる全員が半信半疑といった様子で首を傾げる。
「最後に残れば勝ち。条件はそれだけなん?」
「あとひとつ。10年前のあの頃の気持ちを思い出してもらうために、当時のコードネームで呼び合うことにしよう」
「何やそれ」
火野が笑うと、茜も一緒になって口元を緩めた。
「もし破ったら、どうなります?」
気になって明日真は訊いた。
「その瞬間に失格」
は? と全員がざわついた。
「でも、久しぶりに会ったから、間違えるかもしれません」
西園寺がどこかでモニタリングしているものと予想してか、遥香は同情を誘うようなお得意の憂い顔を浮かべた。それに対していつもは攻撃的な茜も、今度ばかりは「絶対に間違える自信がある。特にネプチューン」と、彼の顔を見ながら賛同した。
「頭の巡りをよくすれば、どうってことないと思うけどな」
ネプチューンは涼しい顔をして嫌味を言い、茜は舌打ちした。このままだと、先着組と後着組で対立するのではないか、という予感を明日真は抱いた。けれど結局、どんな対立関係ができようとも、最後に残るのは一人だけなのだ。
「大丈夫。名札を用意してあるよ。ネプチューン、悪いけどさ、貯蔵庫の中から取ってきてくれないかな。Eの38の棚に入ってる」
「はい」
そんな物を用意していたのか? と驚くような顔をして立ち上がり、ネプチューンは遥香の背後にある貯蔵庫の扉を開いた。その向こうにはレゴリス製の背の高い棚がずらりと並んでいた。居住エリアよりも遥かに広大なスペース。癌の治癒を諦め、西園寺は月に骨を埋めるつもりで完全移住したという噂を明日真は耳にしていたが、貯蔵品の物量を見る限り、その覚悟が知れた。この分だと、数年分は生活に困ることはないだろう。いくら輸送船のコストが下がったとはいえ、これだけの物資をここへ運ぶのにいくらかかったのか。何百億円は下らない。やはり、西園寺の財力はとてつもないものがある。それがすべて自分の手に渡るかもしれないのだ。明日真は自分の中で獰猛な野心と欲望が首をもたげるのを感じた。同様に、こいつらも同じ感情を抱いているかもしれない。殺されないように気をつけよう。心の中でそう思いながら、明日真は全員をこっそり見回して用心した。
「どう、ネプチューン。見つかった?」
「ありました」
数分もしないうちに、白い布地の名札を手にしてネプチューンが戻ってきた。
「じゃあ、みんなに配ってあげて」
西園寺の声だ。
「はい」
マジックテープでくっつくようになっているらしい。左胸の辺りに『ネプチューン』と書かれた名札を付けると、ネプチューンは全員にそれぞれの名札を手渡していく。明日真は『アース』の名札を受け取り、左胸の部分に付けつつ、これからは、他のメンバーのことを頭の中で考えるときも、コードネームを使うことにした。名前の呼び間違えごときで巨万の富を逃がすのはバカらしい。最後の一人に残るまではどんな些細なことも気を抜くなと自分を戒めた。
「うん、みんな名札を付けたね」
ネプチューンが着席したところで、西園寺は話を再開させた。
「では、開始しようか。誰が僕の遺産を相続することになるのか楽しみだな。そうだ、遺産相続ゲームと名づけようか。何の捻りもないけど」
西園寺は笑うけれど、円卓を囲うメンバーは誰も笑わない。誰もが緊張した面持ちで、牽制するように互いの顔を見合っている。
「では、遺産相続ゲーム、スタート!」
西園寺の陽気な声が地下洞内に響いたかと思うと、頭上でガタンッと音が鳴った。全員が見上げた。天井から、EVA用のスーツを着用した何者かが落ちてきた。抵抗する様子はまったく見せず、ただの物体のように落ちてくる。重力が少ないとはいえ、明日真たちがいる最底部からドームの天井までは四十メートル近くはあるだろう。緩慢とだが着実に落下速度を増し、円卓のちょうど中心に着地した。円卓がドンッという音を立てて壊れ、その場にいる全員が立ち上がった。マーキュリーとヴィーナスが「きゃあっ!」と悲鳴を上げる。一番重い頭部から落ちたものの、船外活動の不測の事態にも耐えられるように作られたフェイスシールドはちっとも傷ついていない。表面がミラーレンズになっているタイプのため、中の人物の顔はわからなかった。
「何やねん! 何で人が落ちてくんねん!」
いかつい身体をしているくせに、マーズは悲鳴のような声を上げながら、天井と円卓の真ん中を交互に見ている。
「だ、誰なの?」
調べろ、と促すようにヴィーナスがネプチューンを見る。
「何で俺が」
ネプチューンは不満の声を上げるも、彼自身も誰なのか興味があるらしい。円卓の上に乗り、恐る恐る近づいて、慎重な手つきでフェイスシールドを外した。
「あっ」
思わず声を出したのは明日真だった。だが、その人物が誰か、他のメンバーにもすぐにわかったようだ。
「ふく……」
危うく本名を言い掛けて、マーズは慌てて手で口を塞いだ。福田(ふくだ)武志(たけし)と言おうとしたのだろう。韓国語で『フク』が『土』という意味であることから選抜された――
「サターンやんけ」
マーズは彼のコードネームを呟くと、口元に当てていた手をだらりと下げた。
ネプチューンがサターンの口元に手をかざす。
「死んでる」
言われなくても、カッと見開いたまま虚空を見つめるその顔を見れば、命が尽きていることは明らかだった。
全員が呆然とする中、
「サターン、墜落死によって失格」
どこか楽しそうに言う西園寺の声が、地下洞内に惨酷に響いた。
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