海霧の彼方
どれだけ走り続けただろうか。足が体を置き去りにして進む。それを追うように、体が前のめりになる。地面が靴のつま先を削る。一瞬の無重力を体験し、視界が黒く塗りつぶされる。痛みはない。でも、苦しい。苦しい。
地面に手をついて体を起こす。肩越しに後ろを振り返る。
知らない場所にいた。知らない人の、知らない家。その人は自分に優しくしてくれた。でも、そこに心の置き場所はなかった。
高校進学を機に、一人暮らしを始めた。別に、遠方の学校に行くわけではない。ただ、一人になりたかった。
「あんたの好きなように生きたらええ。お金の心配もしなくていいから」
そう言われて、あっさりと一人暮らしが決まった。その後も、月に一度は顔を出した。一応の礼儀というものだ。卒業を目前にして、その必要もなくなった。
卒業後は奨学金を借りて大学に進むことにした。勉強はそんなに好きではない。でも、勉強だけは懸命に取り組んだ。とりあえず、それだけはやっておかないといけない、なんとなくそんな気がしていた。なぜそう思うのか、理由はわからない。天からのお告げ、ということにしておく。
とりあえず無事に大学を卒業しよう。大学を卒業すれば、そこそこ良い仕事にありつける。そうすれば飢えて死ぬこともない。そんな漠然とした将来を想像した。死なないことは、生きることより重要だ。
自分の過去は、濃い海霧の奥底に沈んでいる。それは、夢の中の出来事を思い出せないことに、少し似ていた。見ようと目を凝らしても、見えてくることはない。その中に歩みを進めると、一層視界が奪われる。しめった空気が鼻から入って、肺の中を満たす。溺れるような息苦しさを感じて、現実に引き戻される。
いつしか、過去を見ようとするのをやめた。
――――――
「それで、どう?入ってみない?」
「い…」
曖昧な音を返す。大学ではひたすら勉強をして、それなりの成績を取り、卒業できればいいと思っている。サークルなんか入るつもりはさらさらない。
「写真とかって… どういうの撮るんですか」
雑な質問で間を繋いで、返事を先送りにする。
「えーっと、風景の写真とか」
「風景」
風景は好きではない。どんな景色を見ても、きれいだとか、感動したとか、そんなことを思ったことはない。
「いや… 風景とかはあまり」
「ふ、風景だけじゃないよ!んーと、人の写真とかも撮るし」
「人」
人に興味はない。
「人の写真も別に…」
そんな問答がいくつか続くうち、自分は何に関心があるのだろうかと考える。勉強?……は別に好きだからやっている訳ではない。そう考えると、自分には趣味のようなものが何もない。なんと空虚な人間だろうか、と思う。
「…ええと、まあ、考えておきます」
結局、未来の自分に返事を任せ、いまの平穏を選んだ。
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