第2話 駅前のロータリーにて

「今日のお願い、もうひとつ増やしていい?」


駅前のロータリー。七時四十五分。

通勤客が途切れず流れ、バスが低いエンジン音を響かせながら停まっては発車していく。

そのざわめきの中で、紗耶はまるで内緒話みたいに俺へ身を寄せた。


「昨日言ったのは『一緒に登校して』だったでしょ。それは予定通り。で、もう一個は――」

「ゲームのルール的に、それアリなの?」

「“お願い”は一日一回。でも昨日のは昨日。今日は今日」

「……屁理屈っぽい」

「屁理屈じゃない、解釈よ」


そう言って口元だけ笑う。

人差し指を二本立てて、くるりと回す仕草。

「二つ目」はいたずらの前触れみたいだった。


「じゃあ、その追加のお願いってのは?」

「今日、学校に着いたら――私のこと、呼び捨てで呼んで」

「……それだけ?」

「それだけ」


ただ名前を呼ぶ。それだけのことに、どうして彼女はこんな顔をするんだろう。

期待と、少しの警戒と。どこか懐かしむような眼差し。


「わかったよ、紗耶」


試しに言ってみると、彼女のまつ毛がかすかに震えた。


「――うん。その感じ、ちゃんと覚えておいてね」


 ***


通学路は、夏の日差しに白く染まっていた。

住宅街の角ごとに朝顔の鉢が並び、犬を連れた老人がゆっくり横切る。

紗耶は俺の半歩前を歩き、ときどき振り返っては何かを確かめるみたいに視線を合わせてきた。


「転校ってさ、やっぱ緊張する?」

「まあね。でも今回は……そうでもないかな」

「なんで?」

「だって、初日から友達ができたし」

「……俺のこと?」

「他に誰がいるの?」


あまりに真っ直ぐ言うから、信号待ちの間に視線を逸らした。

顔が熱いのは夏のせいだと自分に言い聞かせる。


学校が見えてくると、通学路の人波が次第に増えていく。

案の定、校門前でクラスメイトと目が合った。

昨日の放課後、校舎裏から一緒に出てきたのを見た連中だ。

すれ違いざまに小声で「おー結城ー」「お熱いねぇ」と茶化してくる。


「……こうなると思った」

「別にいいじゃない。悪い噂でもないでしょ」

「そうだけど……」

「それに、見られて困る関係でもないし」


紗耶は軽く手を振って、正面玄関を抜ける。

靴箱の前で立ち止まり、少し振り返った。


「ほら、言って」

「え?」

「約束したでしょ、呼び捨て」


周りに人がいる中で、あえてやらせるつもりらしい。

……試されてるな。


「紗耶」

「はい、悠真くん」


返事と同時に、彼女の頬が少し緩んだ。

たぶん俺も同じくらい顔が緩んでたと思う。


 ***


午前の授業が終わり、昼休み。

教室の後ろから、視線を感じた。

案の定、元カノの千景がこちらを見ている。

数ヶ月前まで隣にいたはずの人が、机を隔てた場所でじっと観察している――妙な感覚だ。


「ねえ悠真」


名前を呼ばれて振り返ると、紗耶がパンの袋を破っていた。


「今日のお願い、そっちの番だよ」

「あ、そうか。……じゃあ――」


俺は一瞬だけ千景を意識してしまったけど、紗耶は平然としている。


「一緒に購買のパン食べない?」

「いいよ。あ、でも先に牛乳買ってきて」

「なんで」

「パンと牛乳って、写真映えするから」


やっぱり彼女の頭の中にはカメラがある。

そのくせ、今朝は「撮らないで」なんて言った。

どういう基準なんだろう。


二人で教室の端に腰を下ろし、袋を開ける。

パンをかじりながら、紗耶は俺の机に肘をつき、真剣な目でこちらを見た。


「ねえ悠真。お願いゲームって、ほんとに何でも言っていいんだよ?」

「……何か企んでる?」

「ううん。ただ、明日から少しずつ変えていくつもり」

「変えるって?」

「まあ、見てて」


パンの袋がくしゃりと鳴った。

昼休みのざわめきの中で、紗耶の横顔だけがやけに鮮やかに見えた。

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