夏の終わり、君の十の願いを数えながら

星神 京介

第1話 お願いゲーム

終業式まで、あと三日と迫っていた。

教室の空気は夏休み前特有のふわふわ感で満ちている。

配られた通知表をのぞき合っては笑い、部活の遠征だ海だ山だと予定を言い合うクラスメイトたち。

窓の外では、校庭のヒマワリが揃ってこっちを見ているみたいだ。


そんな浮ついた時間の真ん中で、担任が黒板の前に立って言った。


「今日からこのクラスに新しい仲間が加わります。入っていいぞー」


ガラリ、と戸が開く。

最初に入ってきたのは、白い光だった。

いや、正確には、光の筋の中に立つ女の子。切りそろえられた黒髪、涼やかな目元。新しい制服がまるで最初から彼女のために仕立てられていたみたいに馴染んでいる。


「水城紗耶(みずき・さや)です。よろしくお願いします」


ハッキリとした声。どこかで聞き覚えがある気がしたけれど、すぐには思い出せない。

拍手。ざわめき。男子の「おお……」という抑えきれないため息。

俺――結城悠真は、教科書を閉じた手のひらに、ちょっとだけ汗を感じた。

別に緊張する理由なんてないのに。


「席は……結城のとなり、空いてるな。水城さん、そこに」

「はい」


まさかの指名。

俺のとなりに彼女が腰をおろす。ふわりと柑橘系の香りがして、思わず姿勢を正してしまう。


「よろしく」


小さく会釈した彼女は、視線だけこちらへ向ける。

至近距離で見ても整っていて、でも作りものみたいな冷たさはない。


「結城くん、で合ってる?」

「あ、うん。結城悠真。よろしく、水城さん」

「紗耶でいいよ。名字、よく間違えられるから」


さらりと言う。

初対面の壁を自分から低くするタイプ。

転校生というものはだいたい受け身で、周囲の様子を観察するのが普通だと思っていたけれど、彼女は少し違うらしい。


午前の授業が終わり、昼休みになった。

俺はパンと牛乳を持って席に戻ると、紗耶はまだ机の中を整理していた。

時間割、筆箱、スケジュール帳――どれも新品で、彼女はそれらをとても几帳面に並べていく。


「転校、急だったの?」

「うん、ちょっとね。……結城くんって、写真部?」

「え? いや、写真は好きだけど部活は帰宅部。なんで」

「さっき、窓の外の雲を見てた顔が、写真撮る人の目だったから」


なんだそれ。

俺は思わず笑ってしまった。


「雲のどの辺が良かった?」

「体育館の屋根の上に、薄いフィルムみたいな雲。あれが光で透けて。……ほら」

 

紗耶はスマホを掲げるふりをして、何かを撮る仕草をする。

指先が空中で止まって、シャッターを切るみたいに軽く上下する。


「無意識に、その角度で見てた」

「観察力、すご」

「好きだから。見るのも、見られるのも」


 “見られるのも”。

その言い方が少し引っかかった。

モデル経験がある、とか? 

でも彼女はそれ以上は続けず、牛乳パックのストローをぷすっと刺した。


午後、ホームルームが終わるころ。

その日いちばんの事件は、アラームみたいな校内放送でも、救急車でもなく、放課後のチャイムの一拍あとに訪れた。


「結城くん。ちょっと、いい?」

 

教科書を鞄にしまっている俺の机に、紗耶が影を落とす。

何だろう。


「校舎裏まで、付き合って」


クラスの何人かがこちらを見る。

隣の席の男子が露骨にヒューヒューと指笛を鳴らし、女子のグループが笑いを飲み込むみたいに唇を押さえた。

俺は肩をすくめ、なるべく無表情のまま立ち上がった。

なんだか不思議とドキドキする。


校舎裏は、風がよく通る。

プールから漂う塩素の匂いと、砂の乾いた気配。

自販機の横、日陰になったコンクリの上で、紗耶は振り返った。


「ここなら、人の目が少ないから」

「告白とかじゃないよね」

「うん、違う」


即答された。

それもそれでちょっと傷つく。

でも、次の言葉で、それどころではなくなった。


「“お願いゲーム”って知ってる?」

「なにそれ」

「一日につき一回、どちらかが相手にお願いをするの。どんなお願いでも、一回だけ。聞いたほうは断らない。……簡単でしょ?」


簡単じゃない。

脳内で警報が鳴る。

悪ノリか、SNSの流行か、どっちにしても地雷の匂いしかしない。


「それ、やる必要ある?」

「あるよ。私が結城くんと仲良くなる必要があるから」


どうして俺と仲良くなりたいのだろう。


「それって必要なこと?」

「もちろん」


紗耶の目はまっすぐで、ふざけているようには見えない。

だけど、まっすぐすぎる目はときどき、こちらの足元を不安定にさせる。


「……ルールの確認。お願いは一日一回“だけ”。どっちが言うかは?」

「交代制。今日は私、明日は結城くん。その次は私、って感じ」

「範囲は? “宿題やって“とか、“お金貸して“とか、無茶はナシだよね」

「命に関わること、他人を傷つけること、結城くんの大事なものを壊すこと――そういうのはしない。常識の範囲で。……ただ、常識の範囲って、人によって違うけどね」


意味深だ。

けれど、彼女が慎重に言葉を選んでいることは伝わってくる。

俺は息を吐いた。自販機のモーター音が、夏の背景みたいに続いている。


「じゃあ、今日の“お願い”は?」

「うん。最初だから、優しいやつ」


紗耶は一歩、俺に近づく。目の中に、俺の顔が小さく映っている。


「明日、私と一緒に登校して」

 

間を置かず、そう言った。

思わず笑ってしまった。身構えて損した。


「それくらいなら、全然」

「よかった」


ほっとしたみたいに、彼女の肩から力が抜ける。

思っていたよりもずっと、普通のお願いだった。


「じゃあ、七時四十五分に、駅前のロータリーで」

「了解。……ところで、なんで俺?」

「最初に、光のほうを見てたから」

「は?」

「教室に入ったとき、窓の光を見てたでしょ。普通は人の目を見るのに。結城くんは、光の具合を見てた。そういう人、好き」


また“光”。

言葉の意味を咀嚼する前に、風が制服の裾をはためかせた。彼女は髪を耳にかけ、少しだけ遠くを見た。


「それに――」


 そこで彼女は言葉を切った。


「それに?」

「ううん、なんでも。続きは、いつか」


続きはいつか、はずるい。

気にならないほうが無理だろう。


「ねえ、もうひとつだけ確認。写真、好きなんだよね」

「まあ、好きだよ。風景とか、友達とか」

「明日は、駅で撮らないでね。私のこと」

「え?」

「初日は、目で見て覚えてほしいから」


お願いの上に、さらにお願いを重ねたみたいな台詞だったけど、不思議と不快ではなかった。


「わかった。撮らない」

「約束」


彼女は、人差し指を立てて、俺の前に差し出す。指切りのかわりに、その指先を軽くタッチした。

帰り道、駅までの坂を下りながら、俺は何度もスマホの時計を見た。七時四十五分。ロータリー。

胸の奥で、日付のページが一枚、ぱり、と音を立ててめくれた気がした。


家に帰ると、通知がひとつ。

知らないアドレスからのメール。

開くと、本文は一行だけだった。


明日は、晴れるといいね。—S


イニシャルの“S”。彼女の苗字の頭文字。

返信を打とうとして、やめた。

明日の会話のネタに取っておくほうが、なんとなく楽しい。


夜。

ベランダに出ると、風がまだ熱を含んでいた。

遠くで花火の音がして、空のどこかが一瞬だけ白くなる。

撮らない、と約束した。

けれど、目が勝手にフレーミングを始める。

明日の駅、ロータリーの光、彼女の横顔の角度。

脳内のカメラが、静かにシャッターを切る。


翌朝、七時四十五分。

駅前のロータリーは、通勤客と自転車と朝のパン屋の匂いでにぎやかだ。

俺は約束より二分早く着いて、辺りを見回す。

その瞬間、背中から声がした。


「おはよう、結城くん」


振り向くと、紗耶が立っていた。制服ではなく、薄いカーディガンを羽織って。

そして彼女は、笑いながら言った。


「今日のお願い、もうひとつ増やしていい?」


――ゲームは、もう始まっている。

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